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sdpに関するnabinnoのブックマーク (5)

  • トップページ 全労協

    総評評解散後、連合・全労連が1989年次結成され、どちらにも「行かない、行けない」組織として全労協は1989年12月9日、総評解散後の「たたかう、まともな労働運動」の結集体をめざし、国労・都労連・全国一般など全国30万人の労働者によって結成された「連絡協議会」組織です。 運動方針の柱は護憲・反戦反基地平和運動と国鉄闘争支援を中心とした反首切り、職場の労働者に依拠した反合理化・要求獲得闘争です。 労働者を取り巻く状況は、多国籍企業の要望もとづく規制緩和の推進は労働法制改悪、会社法制改悪の国会での強行と解雇を自由とする裁判所の反動化として現れています。その狙いは正規労働者を非正規労働者化することにあり、雇用と労働条件を企業の思うがままにしようとしています。このような状況の中で全労協の運動は、国鉄闘争と他に85件の争議、全国73カ所の労働相談所の設置などに力を入れ、すべての労働者との連帯・闘いを

  • 全国労働組合連絡協議会 (1989-) - Wikipedia

    かつての二大労働組合連合体だった日労働組合総評議会(総評)と全日労働総同盟(同盟)が1989年に日労働組合総連合会(連合)を結成し、「労働戦線の統一」を提唱する。そして、民主党の支持母体となった。その一方、これを右傾化と反発した左派組合の中で日共産党との関係が深い全国労働組合総連合(全労連)を結成した。その中で、連合(民主党)も全労連(日共産党)もヨシとしない社民党系組合が、「どちらにも行かない、行けない組織」として、「たたかう、まともな労働運動」をスローガンに掲げて全国労働組合連絡協議会を1989年12月9日に結成した。総評元議長の太田薫、同元事務局長の岩井章、同元議長の市川誠らが総評から離れて作った労働研究センターが母体となっている。 そして、マガジン9によると加盟組合員数にも圧倒的な開きがあり、2021年時点で連合が約700万人、日共共産系である全労連が約70万人、社民党

  • 保坂展人

    イベント 2024/11/3 <地域主権とコモン>の波を全国へ 〜小田原市長選が拓いた希望〜 LIn-Net vol.8 2024/11/9-12/8 第9期保坂展人政治スクール(会場&オンライン開催) 出版物 国より先に、やりました 「5%改革」で暮らしがよくなる メディア記事 「自治体は改正を求めてない」地方自治法改正案に首長ら危機感 国の指示権は範囲が曖昧、歯止めなし(2024/5/24 東京新聞)5月 24, 2024 小池百合子知事の「決断」に振り回される区市町村「我々は下請けじゃない」(2024/5/20 東京新聞)5月 20, 2024 法改正で地方が国の家来に?保坂展人・世田谷区長「救えぬ命出る」(2024/5/11 朝日新聞)5月 11, 2024 「指示待ち自治体を作り出す」 保坂展人・世田谷区長が地方自治法改正案の廃案求める 区新庁舎で会見(2024/5/11)5月

  • 社会民主党 (日本 1996-) - Wikipedia

    社会民主党(しゃかいみんしゅとう、英: Social Democratic Party、略称: SDP[18]、SDPJ[19])は、日の政党[5][11]。55年体制下で野党第一党であった日社会党が1996年1月に改称した社会民主主義政党である[1][5][6][7][8]。 日語略称は「社民党(しゃみんとう)」[20][21]、「社民(しゃみん)」[22]。1字表記の際は、「社」と表記される[22]。 国際組織の社会主義インターナショナル(SI)に加盟している。SIの第23回大会(2008年)で党首の福島が副議長に選出[23]されて以来、第24回大会[24]、第25回大会[25]と連続して選出されていたが、第26回大会(2022年)では選出されていない[26][27]。 日社会党から改名した社会民主党は、綱領的文書の「社会民主党宣言」において、「社会民主主義を掲げる政党」として

    社会民主党 (日本 1996-) - Wikipedia
  • 保坂展人 - Wikipedia

    保坂 展人(ほさか のぶと、1955年〈昭和30年〉11月26日[1] - )は、日政治家、教育ジャーナリスト。東京都世田谷区長(第10代)。衆議院議員(3期)、社会民主党副幹事長、総務省顧問(鳩山由紀夫内閣)[2][3][4]等を歴任した[5]。 来歴[編集] 生い立ち[編集] 宮城県仙台市生まれ。祖父保坂貞義は1935年(昭和10年)から1940年(昭和15年)まで、宮城県第二高等女学校(後の宮城県第二女子高等学校、現在の宮城県仙台二華高等学校)第10代校長を務め、在職中に死去している。父親はNHK仙台放送局勤務を経て東京勤務となり、一家で東京に転居している[6]。小学校6年時の1969年12月の第32回衆議院議員総選挙で日社会党は140から90議席へと惨敗したが、保坂は「日社会党の敗退」のテーマで自由研究を制作した[7]。 千代田区立麹町小学校から千代田区立麹町中学校へ進学。

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