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南直哉に関するsap0220のブックマーク (6)

  • 恐山あれこれ日記: しとしとぴっちゃん

    しとしとぴっちゃん 久々に禅問答をひとつ。 ある雨の日、老師が修行僧に問いました。 「門の外の音は、何だ?」 「雨だれの音です」 すると老師は言いました。 「およそ人は錯覚してさかさまに考え、自分に迷って物をおいかけているな」 「では、老師、あれは何の音ですか?」 「おっと、もう少しで自分に迷うところだった」 修行僧はさらに問います。 「もう少しで自分に迷うところだったというのは、どういうことです?」 老師はおもむろに答えます。 「解脱してさとりの世界に入ることは簡単だが、それをそのまま言葉で言うのはむずかしいな」 さて、この問答、例によって解釈は様々でしょうが、私はこう考えます。 一般に「あれは何だ?」という問い方と、それに対する「あれは〇〇です」という答え方は、「あれ」と指示される「対象」がそれ自体で存在していて、それを眼や耳などを通じて感受した自分が、「精神」を正しく使用して、対象の

    sap0220
    sap0220 2010/03/30
    「仏教の思想的核心は言語である」ふむむ
  • 恐山あれこれ日記: 弔い問答 その2

    弔い問答 その2 前回に続き、『月刊石材』誌に掲載のインタビューを紹介します。聞き手は青森市・(株)やまと石材社長の石井靖氏です。 □「これはサービス業だ」 石井社長(以下、石井) ちょっと安心しました。まさに私たち石材店ごときが言うことでもないし、お客さんにとっては、「大きなお世話だ」という話なんです。お墓作りをさせていただく中で、お寺様とお客さんの中間の立場にいると、「お寺様ももう少し工夫したほうがいいのに」なんて…。 南直哉(以下、南) 石材屋さんも葬儀屋さんと同じと考えれば、お寺さんとネットワークを組んだ方がいいと思いますね。お互い情報を流したりすればいいんです。たとえば葬儀屋さんが都会でお葬式を頼まれたら「あのお坊さんはいいよ」と。お坊さんが仏壇屋さんを頼まれたら「あそこは正直だよ」と。お互い袖の下ではなくて、信頼関係をもてる人間でネットワークを組めばいいと思うんです。 石井 も

    sap0220
    sap0220 2010/03/02
    「頭の問題」と「胃袋の問題」
  • 恐山あれこれ日記: 弔い問答 その1

    弔い問答 その1 記事より4回の予定で、『月刊石材』(石文社)の昨年4・5月号に掲載されたインタビューをご紹介します。聞き手は、青森市㈱やまと石材社長・石井靖氏です。 □死後にも人はいる 石井靖社長(以下、石井) 今日は当にありがとうございます。楽しみにしておりましたのが半分と、雑誌『AERA』(二〇〇九年一月二十六日号)の記事を拝見しまして、非常に怖い方だということが書かれていましたので、緊張が半分です。 石材業界は、もともと代々石屋さんというのが多いんですけど、私の場合は、親がまったく別な業界だったんです。今日は素直に聞こうと思っているんですが、この業界に入った時に、私たちは仏教のお手伝いというのか、供養するためのお墓を作らせていただいているんですけど、どうも仏教の話をお伺いしますと、矛盾のようなものを常に感じておりまして。 私たちの仕事に対して、お客様はとても喜んでいただき、また

    sap0220
    sap0220 2010/02/21
    仏教のあり方、お墓の定義、リアル・バーチャルの捉え方。非常に興味深い。
  • 恐山あれこれ日記: ある夜の電話

    ある夜の電話 ・・・・・生きる意味かあ・・・。わかんないなあ、ぼくも。 これね、頭がイイからわかるとか、ワルイからわからない、というのと違うと思うよ。そもそも考えてわかるようなことじゃないんだよ。 生きているって、それ全部、自分持ちでしょう。みんなそれぞれ違う。重ならないの。君の時間の中にいろんな人が出てくるだろうけど、君の時間自体はほかの人と重ならない。でも、「意味」ってのは、他の人と共通でなければ、そもそも意味としてわかんないじゃん。他の人と重ならないと、「意味」にならないでしょ。 だからさ、他の人と重ならないものに、重なってこそ通用するものを当てはめても、結局ズレちゃう。しばらく一つの「意味」を納得していても、またわからなくなって違う「意味」がほしくなるんじゃないかな。その繰り返しだよ。それで、楽に生きられるなら、繰り返しも結構だけど。 生きる意味ってね、どこかにあったり無かったりす

    sap0220
    sap0220 2009/08/30
    生きる意味なんて、人との出会いや別れの関係の中で自分で作っていくもんでしょ。名言です
  • 恐山あれこれ日記: 「ご都合主義者」の意見と実践

    「ご都合主義者」の意見と実践 「恐山の大祭が終わったはずなのに、報告をしないとは何事か!」と、ある筋から叱られてしまいました。実は恐山の名カメラマン・木村さんが終了直後から所用で外出中で、彼が見事に撮影したはずの写真が入手できていません。ここはもうしばらくご海容を願い、後日を期して写真付のご報告をしたいと思います。そこで今回も、徒然なるままに駄文をひとつ。 まだ中学生の頃だったと思いますから、たぶん1970年代なかば、「ノストラダムスの大予言」というのが、たいへんなブームになりました。その騒ぎの最中、友達のひとりが言いました。 「1999年に当に人類が滅亡するなら、それを今知ろうと、前日に知ろうと、5分前に知ろうと、知らないまま死のうと、同じだろ」 なんて頭のよいヤツだろうと、私はすっかり感心してしまいました。そして同時に、この類の話は、びっくりしたり面白がったりしていればよい、所詮は全

    sap0220
    sap0220 2009/08/02
    ご都合主義の素晴らしさ。
  • 恐山あれこれ日記: 「無意味」な問答

    「無意味」な問答 某読書家「あなたは『真理』が嫌いだと公言したそうですね。どういうことですか?」 私「『真理』という観念、考え方、言葉が嫌いだという意味です。『真理』という以上、永久に変わらず、かつ普遍的でそれ自体で存在しえるもの、つまり絶対的なもののはずでしょう。そういう考え方が、もう生理的にダメなのです」 「生理的とは、いかにも『諸行無常』の一語に生き方を変えられたあなたらしいですな」 「だって、空間的にも時間的にもきわめて限定された条件の中で生きている我々に、永遠で絶対の存在を認識できるわけがないでしょう」 「しかしですね、『諸行無常』が認識できるということは、『無常』でない何かを我々が知っているからではないのですか。何かを否定できるのは、どんな形であれ、その何かの存在を認識しているからでしょう」 「さすがに鋭い。私もそう思います。ですが、私が『無常』でない何かとして考えているのは、

    sap0220
    sap0220 2009/07/04
    死についての問答。解なし、それが死。
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