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*ふつうのセックス→ふつうにする。 *おもちゃ→ピンクローターオンリー。 *嗅覚→男の香水はあまり好きではない。女の香水はよい(匂いにもよるが) *視覚→男の裸を見たところでべつに興奮しないが、縛られていたりすればそれなりに反応。 *聴覚→泣かれれば反応。 *オナニー→見る方が圧倒的に好き。見せてもいいがとくに興奮はしない。 *口唇愛撫→ふつうにする。 *アナル→無理。責める方ならべつにやってもよい。 *ペニバン→責める方ならべつにやってもよい。男女問わず。 *浣腸→性的なあれとしては理解できない。デトックスとしてならやりたい。 *ハメ撮り→相手がカメラ片手だったら単調に突かれるだけだと思うので、気持ちよくなさそう。撮られることで興奮するということもたぶんない。 *唾液→いらない。 *尿→無理。 *うんこ→無理。 *嘔吐→無理。 *拘束→超好き。するのもされるのも。 *スパンキング→たぶん
Sちゃんから遅れると連絡があったので、ふと思いついて以前の住居まで歩いてみたら、嵐のような感傷に襲われてかつてないほどうろたえた。町並みはほとんど変わっていない。だが、その変わらなさを目にするたびわたしは動揺し、また小さな差異を見つけてはそれを悲しみ、過去そこにあったというだけの、とくに思い入れもない飲食店やスーパーを過剰に懐かしんだ。田舎から出てきて、10年余りをそこで暮らした。つまり20代の大半を過ごした。しかし、その土地を離れるとき、わたしはほとんど寂しさを感じなかった。新神戸行きの新幹線に乗車する際も、まったくの平常心だったと思う。心が揺れた記憶はない。思い返してみれば上京した日も同様、べつだん昂揚することなく東武線に乗り込んだものだった。荷物は既に宅配便で送ってあり、だからほんとうに隣町へ行くような感覚と格好で、わたしはロマンスカーのチケットを買った。住む場所なんてどこでもいい、
追われる夢をよく見ていた。追う者の影に怯えながら、薄暗い森や冷たい洞窟や広大な屋敷や緑の迷路や、あるいは何の変哲もない凡庸なオフィスビル、閑静な住宅街、放課後の校舎、見覚えのない場所と見覚えのある風景の中を、わたしは必死で逃げ惑う。追う者が誰なのかはわからない。なぜ追われているのかもまるで見当がつかない。しかし、とにかくわたしは逃げる。そういう夢を繰り返し見た。そしていつしか見なくなった。悪夢から解放されると、眠りが深くなったのか、夢自体を見ることも少なくなる。それからしばらくはそうだった。けれどまた夢を見るようになった。今度は追われる夢ではなく、追う夢だ。わたしは夢の中で夫を追う。彼がいる場所はわかっている。よってそこに行きさえすれば会えるはず、なのだけれど、いるはずの場所に夫はいない。 そこにはいつもたやすく辿り着く。彼が待っているという確信だってある。その場所を訪れたとき、だから胸を
そろそろ羊水も腐る(←まだ根にもっている)ゆえ子を身ごもりたいと、まわらない寿司屋でシマアジだのアカガイだのカズノコだのウニだの咀嚼しながら、誕生日、わたしはおもむろにきりだした。あなたはどうなのどう考えているのと夫に問えば、おれはあと3人は欲しいと思っている、などと戯言をいう。発狂しかける。しかし、中トロください、アオリイカも、それからエビのオドリおねがいします、とかやっていたら、うっかり空腹が満たされてしまい、いろいろ一時的に忘れた。食事のあとはヨドバシカメラへ。考えあぐねて踏みとどまったすえ、昨晩はキャリーバックを希望したのだけれど、夜のうちに気が変わり、結局iPod classicに変更、80Gの黒い方を購入。二万曲!連続再生30時間!そしてレイトショー。「魔法にかけられて」を観るつもりでいたが、チケット完売のため「クローバーフィールド/HAKAISHA」の券を買う。わたしは映画が
なにが欲しい?と尋ねられ、羊水が腐る5秒前のわたしはしばし考えあぐね、考えあぐねた結果「赤ん坊」と答えてそのまま発狂してやろうかとも思ったが、PMSまでまだ二週間ほどあるためか、なんとか踏みとどまった。しかし、踏みとどまる必要などはたしてあっただろうか。思うがままあるがまま発狂したらよかったんじゃないのどうなのいくつだと思ってんのおまえはおれを。女の子だったら「菫」と名づけるつもりでいた。すみれ。そう告白したら友人に「CHARAの子どもと一緒だね」と言われた。すべてが嫌になった。娘の反応もすこぶる悪い。姑の知り合いの孫に同じ名前の子がいるそうで、どうやら彼女をたいそう嫌っているようだ。どこかの河原でバーベキューをした際「緑がいっぱいだね」とかなんとかどうでもいいようなセリフをなんとなく吐いたら「茶色も黄色もあるやん」とすかさず突っ込まれたのだという。ちなみに娘10歳すみれちゃん5歳。彼女の
かつてアメリカの恋人と呼ばれ、ハリウッド史上最高額(2500万ドル)の出演料を手にした女優ジュリア・ロバーツは、いつだったかインタビュアーに向かって、そう言い放ったという。そのエピソードは、セレブリティの裏の顔的文脈で語られた、ほんとうのあの子は性格激悪みたいな、よくある暴露話だったのだけれど、これを読み、それまでどうとも思っていなかった彼女を一瞬で好きになった。まったくもってその通り、ですよねーとしか言いようがない正論だ。もっとも記事を書いた者は、いかにもビッチらしい暴言と感じたのだろうが。しかし、彼女はただ当たり前のことを口にしたに過ぎない。だってそうじゃんなにも間違ってないじゃんあたしのまんこになに突っ込もうがあたしの勝手だろ?
整形外科医の大曽根三カ衛は、あるとき、繭村甲斐子という二十歳の女性から「計画」と題されたレポート用紙の束と、それに添えられた手紙を受け取る。全身整形の計画書とその執刀の依頼だった。けれど、彼はもう手術を行っていない。断りの連絡を入れると、しかし、甲斐子は食い下がった。会うだけでもいいから会って欲しいと懇願され、大曽根はそれに応じる。気の毒に思ったからだ。ちらっと見ただけだが、その「計画」書には、整形希望箇所としてさまざま部位が記してあった。目、鼻、口、頬、そして脂肪吸引。そこから想像できるのは、目が小さく、鼻が低く、歯並びが悪く「三日間水につけておいたままの麩のようにだらりと曖昧な」顔立ちの「ぶよぶよと太」った女性。「他人からさんざんに醜女だのおかめだのとからかわれ、いじめられてきた、かわいそうな、だが、もうしわけないけれども大曽根もまたかかわりたくないような『しみったれた雰囲気の娘』」だ
写真の、ではなく、実際のモニカを探し出すまでのくだりは、まるでミステリーのようだった。そのスリリングな展開には不謹慎ながら魅了された。つまびらかにされてゆくのはおぞましい現実だが、次第に謎が解けていく快楽、高揚がそこには確かにあった。ドキュメンタリーだけれども、文体は小説っぽく、それが尚良かったのかもしれない。ノンフィクションノベル風というか、短編小説のような味わいがある。でもこれはフィクションじゃない。すべて事実だ。やがて明らかになるモニカの過去と現在は、味わいだのなんだのと呑気なことを言っていられない、過酷さと悲劇に満ちている。彼女と、同じフィルムに収められているアグネス、マリン、そして中年の男女はいったいどこの誰なのか____ 写真の持ち主ベントによれば、モニカはスウェーデンに住んでいるという。ベントはモニカと、彼女が12歳くらいのときから約3年間、文通をしており、膨大な量の手紙とフ
日記にしても覚え書きにしても、他者の目を意識して記されたものとそうでないものがあって、書くことが好きな執筆者の文章は、人目に触れない前提であれどたいがい読者の視点を持っている、はず、だと思う。後々出版されるような日記のほとんどはそうだ。記したのが有名人でもない限り、ただのメモ書きや備忘録が公表されることはまずない。著作物の99.9%は他人の視線を考慮して書かれている。そういう意味で「池袋母子餓死日記 覚え書き(全文)」はたいへん珍しい。そのことに価値があるかどうかはわからないが。というか、価値だのなんだのはこの際どうでもいい。またおもしろいかどうかも。エンターテインメント性とかを基準にしたら、積極的に勧められる内容ではないけれど、だからどうしたという話しだ。退屈か否かといえば退屈だし、楽しい気持ちにはなりようがなく、読んでもひたすら滅入るだけ。しかし、思い出したようにときたまぱらぱらと捲っ
ある奇妙な現象が、周囲で頻繁に起こるようになったのは、十代最後の半年間のことでした。その頃わたしはまだ学生で、週三回ほど居酒屋でアルバイト。バイト先の常連客は、同世代か少し上くらいの子たちが多く、気安く口を聞く間柄。発端は、居酒屋の常連のひとりだった大学生の証言です。彼は先日、赤のミニ・クーパーを運転するわたしを見掛けたという。しかし、わたしは車はおろか、免許すら持っていなかった。別人だろうと答えましたが、彼は首を捻ります。そうとはとても思えない。それほど似ていたのらしい。 でも、わたしではありえません。彼も最終的に「では別人なのだろう」と納得しました。そしてわたしもただのそっくりさん情報としてそれを処理。けれど以後、そんなことが頻発するようになります。ここで見た、あそこで見たという友人知人の報告が、毎日のように続いたのです。だが、そんなはずはない。彼らがわたしを見掛けたという場所は、今ま
始まりは旅立ちの場面だった。簡素な孤児院の庭で、他の子とは違う上品なドレスを身に纏った少女が、皆に別れを告げている。ダイアナは養女として貰われてゆく。その国第4位の資産を所有する、貴族ブラッドハーレーの家に。幸福に満ちた門出だ。それに選ばれるということは二重の意味を持つ。ひとつめは言わずもがな、資産家の娘になるということ。ふたつめは切符を手に入れたということだ。そういう噂があった。「ブラッドハーレー聖公女歌劇団」当主が主宰するその歌劇団は、子どもたちの羨望と憧憬の的。年に一度だけ、観ることのできるステージ。夢のような演出に、心躍らせない者はいない。いつかあの舞台に立てたら……と誰しもが願う。そんな豪奢で絢爛なオペラ。その演目の最後に、新人たちのお披露目がある。舞台に上がれるのは毎年たった数人の少女。彼女たちはすべて元孤児だという。そう、そこに立つ切符だ。ダイアナと輝かしい(はずの)その未来
福田和子はわたしのいちばん好きな犯罪者だ。いささか不謹慎な物言いだが、そうなのだから仕方がない。彼女ほどチャーミングな殺人犯はいないと思う。わたしに限らず、この有名な整形逃亡犯に魅了された人は多い。いろいろな作家がその魔性について記している。「福田和子はなぜ男を魅了するのかー『松山ホステス殺人事件』全軌跡(松田美智子著)」「逃げる福田和子―極限生活15年の全真相(大庭 嘉文)」「悪女の涙―福田和子の逃亡十五年(佐木隆三)」「魔性・整形逃亡5459日 福田和子事件(大下英治著)」また「kamome/カモメ(監督・中村幻児/主演・清水ひとみ)」や「顔(監督・阪本順治/主演・藤山直美)」など、彼女、もしくはそれらしき人物をモデルにして作られた映像作品もひとつではない。しかし、他のどれでもなく「涙の谷」を読み、わたしは彼女の魔性を確信した。和子自身によって綴られた半生と逃亡の記だ。正直、他の関連書
2002年の春に催された、第74回アカデミー賞のことを、わたしはよく覚えている。もう10年以上前のことと、実はつい先日まで勘違いしていたのだが、それがどういう年だったか、どんなショーだったかは、忘れていないし、忘れられない。前回のスティーブ・マーチンからウーピー・ゴールドバーグに司会が代わり、ロサンゼルスのシュライン・オーディトリアムからハリウッドのコダックシアターへ会場は移った。9月に同時多発テロが起こったため、会場の周囲は厳戒態勢で、レッドカーペットを歩くスターたちの姿は見られなかったが、式は豪華絢爛。この頃のオスカーは、年に一度のアメリカのお祭りという感じで、ほんとうに華やぎがあった。この頃というか、この年までは。なにしろ冒頭、金色のレオタードに身を包み、白い羽をクジャクのように背負ったウーピー・ゴールドバーグが、空中ブランコに乗って天井から降りてくるのだ。シルク・ド・ソレイユは幻想
ある日わたしはtwitterで、あまりにも童貞くさい発言を目にした。「女もオナニーするなんて、都市伝説だと思っていた」冗談ではないらしい。彼の周囲にはそういう女性はいなかったのだそうだ。尋ねたこともあるが「しない」という返答だったという。それを鵜呑みにするのもどうかと思うし、少ないサンプルから得た回答だけで、全員がそうだと信じ込むのはうかつというか、間抜けというか、おめでたいというかなんというか、いっそ不思議ですらある。いったい何人に聞いたのか知らないが、そう多くはなさそうだったし、数人、せいぜい十数人未満だろう。それでなぜそのように思い込むに至ったのか。それを考えると暗い気持ちになる。彼はさらに言う。周囲の女性たちは性欲がないように見えると。そこには当然自分の恋人も含まれているのだろう。つまり、性欲がないように見える相手と、彼はセックスをしているということだ。女は基本的に性欲が薄いと、オ
初めて痴漢に遭ったのは初潮を迎えるより遥かに前だったと思う。といっても、わたしにそれがきたのは中三になってからで、ひとよりだいぶ遅かったのだけれども。9歳だったろうか、10歳だったろうか、とにかくそれくらいの歳だ。本屋で立ち読みをしていたら下半身を触られた。触り方が露骨だったので、おぞましいことと理解した。だがそれ以前にも、そのようなことはあったかもしれない。しかも幾度も。どういうことかというと、わたしはその本屋でよく立ち読みをしていたのだが、そうしているときに後ろから覆いかぶさるようにして本棚から本を抜く男がいた。そしてそのまま、つまり身体を密着させたまま、男もそこでそれを読む。わたしが移動するとついてきて、また身体を寄せてくる。おかしいとは思っていた。だが、性的なものという認識はなかった。しかし、そのとき、スカートのなかに手を入れられ、下着の上から下半身を触られて初めて、わたしは理解し
「死刑の理由」は、平成七年から平成十四年のあいだに死刑が確定したすべての囚人の判決文を集めた本だ。ぜんぶで四十三件。そのひとつひとつの判決書、第一審、控訴審、上告審の各量刑理由を全文収録している。実名が出ているわけではないが、獄中で「無知の涙」などを著した、連続ピストル射殺事件の永山則夫や、連合赤軍事件の永田洋子、北海道庁爆破事件の被告の判決文も記載されている。編集はおそらく最小限に抑えてられているのだろう、判決文の他に余計な記述はない。そこがとても良い。読み応えのある資料が一冊にまとまった、無駄のない本に仕上がっている。この本によれば、死刑囚の大多数を占めるのは貧乏で学のない小卒や中卒の人、少年院や刑務所に出たり入ったりを若い頃から繰り返している人、仮出獄してすぐまた事件を起こした無期懲役囚だという。そういえば「良心をもたない人たち(マーサ・スタウト著、木村博江訳)」というサイコパスをテ
たとえ一億いや一兆積まれても愛のないセックスはしません的なことを言う女(貞操観を語るのに金銭的価値を付随させる必要はない)がいて、そういう女のそういう寝言を聞くたびに「誰がおまえのまんこに一億も出すんだよ」と、半ば惰性でツッコミを入れてきた(もちろん心のなかで)実際のところせいぜい時給五千円、いやおれの見立てだと二千円でも割高なレベル。そんなメスが一億積まれてもとかほざく。わたしはそのテの、己の価値を実際より遥かに高く見積もっている女、激しく水増ししているメスを全力で憎んできた。そしてこれからも憎んでいく。つもり、ですが、今日はそんな話しではありません。高い安いはあるものの、女は醜女でも年増でも価値を持つ。もちろん性的な意味で。というか市場的な意味で。つけられる値段の違いはあれど、需要はだいたいどんな女にでもあると思う。たとえ老婆でも化け物でもだ。それはつまり、生まれ落ちたときから、そのよ
実家は商売をしていたので、毎年その時期になると、地元のえびす溝に熊手を買いに出掛けた。幼い頃はそれにどんな意味があるのかわからず、縁日や他の祭りとの区別がついていなかったが、きっと誰しもそんなものだったろう。地元のそれは、四人も並べばいっぱいになってしまう狭い道で催されていて、その両側に露天商が並ぶ。当然混雑しているため、ひとをかき分けながらでないと進めない。今ならばうんざりするところだが、昔はそんなことは気にも止めず、ひたすらうきうきしていた。石畳の通路にさまざまな屋台が軒を並べる、その非日常的な光景、またそこにひとが溢れ、賑わっている様は、それだけでとても魅力的だったし、子どもを高揚させるに充分だった。恵比寿様の顔、おたふく、小判、鯛、招き猫、達磨、米俵などが施され、福笹で飾られた派手な熊手を、大人たちが物色しているあいだ、わたしはチョコバナナとか綿菓子とかりんご飴とかタコ焼きとかイカ
年末年始は忙しくしていた。といってもそれはあれ、あくまでおれなりの忙しさであり、他人の目にどう映るかはまた別の話しで、というようなことを最近も最近、つい先日あたりにも書いたのだけれども、近頃はそうそれそういうことをよく考えていて、自分を客観視できていないという指摘にはそれ自体に非難が込められているし、おまえはおまえのことをそう思っているかもしれないが周りはそう思っていないという言い草にはたいてい糾弾の意図が含まれているが、わたしの目線とおまえの目線が違うのは当たり前であって、誰がわたしをどう見ようとわたしが見たわたしはこうであるし、またわたしがわたしをどう見ようとおまえが見たわたしはそうなのだろうし、それはそのままで良いのじゃないか。主観と客観とを摺り合わせる必要がどこにあるだろう。 自分のことは意外とよく見えないとか言うけれども、べつにそんなことは意外でもなんでもなく、人間が違うのだから
監督 デイヴィッド・スレイド 脚本 ブライアン・ネルソン 出演 パトリック・ウィルソン エレン・ペイジ サンドラ・オー 製作総指揮 ポール・G・アレン 美しいわけでも、色っぽいわけでも、身体的に早熟なわけでもない、一見平凡な少女。どこにでもいそうなローティーンである彼女は、言動こそ大人びているものの、その姿はまだほんの子どもに見える。しかし、そんなふつうの、数年前までぬいぐるみを抱いて眠っていたような14歳の女の子が、大人の男を巧みに誘い出し、誘惑し監禁し追いつめていく。キャッチコピーは『赤ずきんが仕掛けるオオカミへのゲーム』赤いフードつきのパーカーを着たエレン・ペイジは、確かにそれ風だ。そんな装いをした彼女が、仕掛け罠の中で俯き気味に佇んでいる。そのポスターのバックショットは、暗黒童話っぽさを巧く演出していると思った。とはいえ内容的には赤ずきんとかあまり関係ないような気がする。日本のオ
乾いた砂の上に、ちょうど顎下から切り取られた、顔だけの死体が置かれている。置かれているのではなく、正確には転がっているのだが、中央に映るその顔は真っすぐ前を向いており、僅かも傾いておらず、また眠っているような、薄目を開けてぼんやりとなにかを見ているような、いずれにせよ幸福そうな表情を浮かべているので、交通事故により切断された頭部だとは一瞬では判別しにくい。死体からは血が流れて砂地に沁みを作っているが、白黒写真のためそれも影にしか見えず、オブジェか絵画のようだ。被害者は若い白人男性。整った顔をしている。 裏表紙にプリントされたこの死の場面は、しかし、紛れもなく現実であって、それは他の角度から撮られた三枚の写真に、残酷なほど鮮明に映し出されている。一枚目は大破して横転した車と、その横に突っ伏した首無し死体、そして後方の道路に置かれた、いや転がった、被害者の端正な横顔だ。二枚目は胴体だけを撮影し
結局、岡崎京子にとっては愛も暴力もエロスもタナトスもただの小道具でしかなくて、失踪も殺人事件も死体も売春もSMも整形も装飾品という意味で等価で、登場人物が抱える空虚や退屈だって右に同じだ。「PINK」のユミちゃんが都会のマンションで飼っているワニと、OLとホテトルの二重生活という刹那的な背景は、どちらもただ作品におけるスパイスでしかない。「リバース・エッジ」の死体も「へルター・スケルター」に描かれる、リリーの崩れていく肉体も、プラステック製の指輪みたいなもの。 ほんとうはなにもない。死体なんてない。空虚や退屈すら存在しない。むろん「無」からの再生もない。だってすべてがはったりなんだから。刺激的なアイテムと、既存のテクストからの印象的な言葉の抜き書きを、巧妙に繋ぎ合わせたパッチワーク。裁縫の技術には確かに長けているが、創造性の欠片もなく、また心を抉る刺もない。あらゆる重苦しいものを、彼女は軽
youtubeにあった逮捕前のインタビュ−を観て、わたしはそう感じたのだった。渡辺という男のことだ。あの「クラブきっず」の管理人である。映像のなかの渡辺は、淡々と取材に応じながらも、記者の質問に逐一生真面目に答えていた。どんなことを聞かれてもはぐらかさず、またそのそぶりすら見せない。真面目過ぎるほど真面目な、正直にもほどがあるくらい正直な対応。渡辺は取材中、自分をごまかすようなことを一切言わなかった。 その様を「開き直り」「居直り」だと評する者も少なからずいた。が、わたしの見方は違う。彼は、開き直っているのでも居直っているのでもなく、潔癖なあまり嘘がつけない人のように思えた。尋ねられると渡辺は、自分の性癖についてあっさりと認める。そして子どもの死体に興奮を覚えるという自分の変態的嗜好を語り、後ろめたさを感じながらも欲望に抗えなかったと告白した。しかしそのことを詫びるわけではない。 *「クラ
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