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人とロケットに関するstar_123のブックマーク (4)

  • asahi.com(朝日新聞社):故糸川博士の資料、枚方に眠る 108箱分、模型や写真 - 関西文化・エンタメニュース

    1955年に発射実験を成功させたペンシルロケットの実物大の模型。講演会で見として示すため作ったとみられるロケットの発射実験や組み立て時の写真  「日のロケット開発の父」と呼ばれる故糸川英夫博士(1912〜99)。6月に帰還した探査機「はやぶさ」が目指した小惑星にも名前が冠された博士の足跡をたどる大量の資料が大阪府枚方市の公民館に眠っている。はやぶさの偉業を契機に、地元では記念館設立や展示の構想も持ち上がっている。  糸川博士の資料は段ボール箱で108箱分にのぼり、同市の穂谷公民館の一室に保管されている。日で初めて発射に成功したペンシルロケットの模型や50〜60年代に試作されたロケットの部品、博士所蔵の写真など様々。東大生産技術研究所教授時代に考案したとみられる宇宙基地のイメージ図もある。  関係者によると、大量の資料が枚方で保管されるまでには曲折があった。「過去に執着しない性格だった

    star_123
    star_123 2010/08/24
    眠らしとくのは勿体ないなぁ
  • チーフ・デザイナーの素顔

    「貴様、これが何だかわかっているのかっ!」 「オマエはクビだ!!」 コロリョフの物語を読めば、その活躍に熱いものが込み上げてくる。波瀾万丈な人生もさることながら、そのプロデューサーぶり…読者が彼に寄せるのは理想の上司像か、はたまたヒーロー像か…しかし現実のコロリョフは、もっとドロドロとした、人間臭い男であった。 冒頭は、彼の怒鳴り声である。彼は時として、相手が半泣きになるまで罵倒することがあった。しかしそんな彼の素顔を知るにつれ、より興味深さが増していく。当連載でも随所に彼の活躍や行動、言動を散りばめてきたが、ここで改めてまとめて眺めてみることにしよう。 ◇ セルゲイ・コロリョフが1908年1月に生まれ、小さい頃から飛行機に興味を持っていたことは既に述べた。きっかけは、6歳の夏、広場で飛行機の実演が行われた時のことだった。 「お母さん、シーツを2枚ちょうだい!」 「何をするの?」 「足と腕

  • ホリエモン・トークライブ - 大塚実の取材日記

    新宿ロフトプラスワンのイベント「ホリエモン・トークライブSESSION 6 堀江貴文&松浦晋也&笹祐一&あさりよしとおの宇宙はそんなに遠くない!」を見てきた。 "ホリエモン"こと堀江貴文氏は、今年になってから各メディアのインタビューにおいて、宇宙開発をやっていることをさかんにアピールしていた。その中で、「僕らが」と表現していたのがすごく気になっていた。一体誰とやっているんだ? で、今日、それが判明。なんと協力者は身内に。私も宇宙作家クラブのメンバーなんだが、全然知らなかった。ずーっと、こんな楽しそうなことを、内緒でやっていたのね。 正式なプレス発表でも何でもないが、結果として、これがホリエモンの宇宙プロジェクトのお披露目となった。 せっかくなので内容をそのまま以下に紹介したい。なぜか録音を禁止されていたので、メモの正確さは多少落ちるが、それを踏まえた上で、参考程度にどうぞ。 堀江 生まれ

    ホリエモン・トークライブ - 大塚実の取材日記
    star_123
    star_123 2009/11/25
    この4人で作っていたとは驚き、見ていて楽しいレポ
  • ヴェルナー・フォン・ブラウン - Wikipedia

    ヴェルナー(ヴェルンヘル)[1]・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル(男爵)・フォン・ブラウン(Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun, 1912年3月23日 - 1977年6月16日)は、工学者であり、ロケット技術開発の最初期における最重要指導者のひとりである。第二次世界大戦後にドイツからアメリカ合衆国に移住し、研究活動を行った。ソ連のセルゲイ・コロリョフと共に米ソの宇宙開発競争の代名詞的な人物である。 ドイツ帝国東部ポーゼン(現ポーランド)近郊のヴィルジッツ(英語版)で貴族(ユンカー)の家に生まれた。父親はマグヌス・フォン・ブラウン(ドイツ語版)男爵。後のヴァイマル共和政末期にフランツ・フォン・パーペン内閣で糧農業大臣となった人物である。母親は彼がルター派の堅信礼を行った時に望遠鏡を与えた。天文学と宇宙分野への関心が、彼を生涯にわた

    ヴェルナー・フォン・ブラウン - Wikipedia
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