書くことはピッチングに似ている。(略) 対して読者というのはバッターだろう。蓋し、インターネットには優れたバッターが少ない。まるでバッティングセンターで軽く汗を流すようにぶんぶん振り回しているその朗らかさに時折嫌気がさすことがある。 書き方が無限にあるように読み方も無限にあるのに、読み方を学ぶのはとてもむずかしい。緻密で厳密な解釈学的読解の反対側には飛ばし読みがあるといった一次元上に、すべては美しく配置されてしまって、あとは字面だけ読む(リテラルな読み)か、アレゴリーとして、メタフォリカルに読むか、行間をどの程度深く読むかといった違いしか残っていない。この野球の比喩はよくできていると思う。投手には七色の変化球があっても、バッターには一種類の打ち方しかないということである。あ、バントもあるか。 揉め事は全部この「読み」の浅薄さが作り出しているだけだし、揉め事とは無関係な記事もまた同じ「読み」
と、ぼくは思うんだけれど、どうよ? いきなりこんなことを書いてもわからないか。 小説でも漫画でも、映画でもいい、何かしらの物語を読んだり、見たりしているとき、そこに作者の考える「正解」を見つけることがある。 「正解」とは「このように行動すれば良いのだ」という、その作家なりの結論のことである。ぼくの場合、物語にそのような「正解」が出てくると、白けてしまうことが多い。現実にはそうそう「正解」は見つからないと思うからだ。 たとえば、槇村さとるである。往年の少女漫画家時代はともかくとして、最近の槇村が描く作品には、いつも「正解」があるように思える。 以前にも書いた記憶があるが、槇村さとるの作品を読むとき、ぼくはいつもそこに「正しさ」の圧力のようなものを感じる。このことに関しては、ぼく自身の言葉で語るよりも、「紙屋研究所」の的確な批判を引いたほうが早いだろう。 正直、槇村さとるは、嫌いな漫画家の一人
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