constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

フルスタの惨劇

2006年05月30日 | hrat
執念9人継投も…楽天ガックリ(『スポーツニッポン』)
楽天故障者続出、痛い敗戦(『日刊スポーツ』)
ノムさんが朝井に二軍行き非情通告&ケガ人続出で悲痛の叫び(『サンケイスポーツ』)

総力戦で今季初の3タテを逃し、さらにフェルナンデスや磯部など主力に故障者が相次ぐ惨状に見舞われた楽天。故障の発生には不可抗力の要素があるとしても、昨日の試合で一塁へのヘッドスライディングで骨折した山下の怪我は、常日頃ヘッドスライディングの危険性と無意味さを指摘している福本豊に言わせれば、防げたはずの怪我の部類だろう。

そんな満身創痍で今日から甲子園での阪神3連戦に臨むことになるが、このまま連敗街道に突入してしまう可能性が大きい。
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三匹目のドジョウ

2006年05月19日 | hrat
古田ヤクルト 師匠3タテで5割復帰(『スポーツニッポン』)
古田監督“師弟対決”3タテ(『デイリースポーツ』)
“師弟対決”は野村監督の完敗…楽天投打かみあわず3連敗(『サンケイスポーツ』)

「師弟対決」として注目を集めた対ヤクルト戦で、チームの勢いがそのまま反映された形で3連敗を喫してしまった楽天。愛敬の不敗神話も崩壊し、Mr.カラスコも古田監督に秒殺されるというオマケ付。それでもオリックスの絶不調のおかげで、指定席の最下位を何とか免れている。

未だに安定しない投手陣の現状から慌てて獲得した新外国人に期待をかけるという苦肉の策に打って出るほかないようだ(「ノムさん『即登録』…グリン巨人戦先発」『スポーツ報知』)。一場、愛敬ときて「三匹目のドジョウ」狙いだが、気になるのは152キロのストレートを投げるのが「自己申告」だという点。よくて145キロ前後と思っていたほうがいいだろう。
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21世紀の「白い道」

2006年05月17日 | nazor
グローバル化が進展する世界にあって、境界線をめぐる政治が世界各地で政策的および公論的関心を引いている。韓国との竹島/独島問題は伝統的な境界をめぐる争いの発現とみなされるならば、今週に入って、ブッシュ大統領がメキシコ国境沿いに州兵を配備する対策を決定したことや(「米国:不法移民対策、国境地帯に州兵6000人-ブッシュ大統領」『毎日新聞』5月16日)、外国人の指紋採取などを義務付けた改正入管法が国会で成立したことなどは、新しい国境の機能強化と理解できる(「改正入管法成立、来日外国人から指紋採取・顔写真撮影」『読売新聞』)。

境界をめぐる政治が重要な意味を持つ一因には、境界が固定的なものではなく、流動的なものであり、常に引きなおされ続けなくてはならないからであろう。その意味で、カール・ポパーが指摘するように、「国家には自然の境界はない。国家の境界は変化し、現状という原則の適用によってしか定義できない。またすべての現状は恣意的に選ばれた日付に言及しなければならないのだから、ある国家の境界の決定は純粋に規約的な(conventional)ものである」(『開かれた社会とその敵(1)プラトンの呪文』未来社, 1980年: 324頁)。

いわゆる「国境なき世界」における境界の意味は、両義的である。一方で、武力による国境変更が事実上不可能になったことで、地理的/物理的境界はより強化されている。それは、国際的な人の移動をめぐる規範や制度が、旅券・査証制度の標準化に見られるように、受容されていることからも明らかだろう。資本や商品の越境移動とは異なり、人の移動に対する管理あるいは監視は整備され、移動主体の国籍と市民権を等値する観念が一般化する。アメリカのUS-VISITに倣ったJAPAN-VISITと呼ばれる前述の日本の入管法改定作業もIC旅券/指紋登録に見られるように、人の移動に対する国家の管理能力が依然として大きいことを物語っている。

他方で、地理的/物理的境界を死守しようとする動きは、機能的境界の融解を生み出している。従来警察あるいは治安活動である国境警備に軍を投入する「国境の軍事化」に典型的に見られるように、国境による国内と国際の区別とコロラリーの関係にあった警察と軍の役割分担はすでに意味を成さなくなっている。国際の観点から軍の警察化、国内の観点からは警察活動の軍事化が進むことで、軍と警察の機能的な違いは限りなく解消されている(藤原帰一「軍と警察――冷戦後世界秩序における国内治安と対外安全保障の収斂」山口厚・中谷和弘編『融ける境 超える法(2)安全保障と国際犯罪』東京大学出版会, 2005年)。軍や警察のように公的暴力を担う主体間の境界が揺らいでいるだけではなく、暴力行使を民間が担うようになっている点も見逃すことができない現象である。メキシコ国境沿いに展開しているのは、何も国境警備隊や警察、あるいは州兵だけでない。境界の揺らぎを敏感に嗅ぎ取っている「ミニッツマン」と呼ばれる民兵/自警組織の存在は、公と私あるいは国家と社会の境界を問い直す(「民兵警備 緊迫の国境」『AERA』2005年7月25日号)。従来の国家安全保障の規範に則れば、安全の確保は一義的に政府(国家)の仕事である。しかしネオリベラリズムに規定された思考や行為が規範化されるにしたがって、暴力の所有/行使は国家に独占的に配分されるものではなくなった。

このような境界の両義的な意味は、これまでとは異なる国境管理の在り方を要請する。それは、国境の内側の安全や一体性を確保しながら、越境活動による経済的利益を増大させる国境管理である(小井土彰宏「NAFTA圏と国民国家のバウンダリー――経済統合の中での境界の再編成」梶田孝道・小倉充夫編『国際社会(3)国民国家はどう変わるか』東京大学出版会, 2002年)。まさしくネオリベラルな経済倫理に基づいて、越境する者たちを「望ましい者」と「望ましくない者」とに峻別する。ネオリベラリズムのスローガンでもある小さな政府の観点から、単純労働に従事する不法越境者たちを社会保障によって包摂することは忌避され、彼らに対するセーフティーネットの構築よりも摘発・排除が優先される。そして国境検問とは超法規的国家暴力が可視化するワイルドゾーンであり(テッサ・モーリス=スズキ『自由を耐え忍ぶ』岩波書店, 2004年: 5章)、越境者には境界の存在が否応なく聳え立つ。さらに、越境者の選別は国境地点だけで完結するのではない。監視/生体技術を全面的に採用した国境管理政策の地平は国家の内部空間全域に広がっていく。その意味で新しい国境管理の政治は監視社会と表裏一体の関係にあるといえるだろう(監視社会については、たとえばディヴィッド・ライアン『9・11以後の監視――「監視社会」と「自由」』明石書店, 2004年を参照)。

と同時に、ナショナルなアイデンティティの境界を再確認する動きも、現在の境界をめぐる政治に看取できる。先述した民兵/自警組織による国境警備の動きは、下からの国政術(statecraft from below)と捉えられる動きであり、そこには本来の国政術を担うエリートたちとは微妙に異なる脅威認識が見られる。ヒスパニック系の人口が増えるに連れて、自分たちの存在が周辺化されるという危機感は国境の最前線にいる人々を動かし、彼らのアイデンティティに対する関心を呼び覚ます。そしてこうしたアイデンティティ危機を克服する過程で、不法越境者たちが贖罪として位置づけられる。日ごろは「寛容」を口にしながらも、そこにはレイシズム/ナショナリズムの契機が見え隠れする。オーストラリアの事例を考察したガッサン・ハージによれば、移民に対する不満としてしばしば耳にする「彼らの数が多すぎる」といった概念は、「特定の領域空間を想定していないかぎり無意味である。というのは、その空間なしには『数が多すぎる』といった判断を下すことができないからである」(『ホワイト・ネイション――ネオ・ナショナリズム批判』平凡社, 2003年: 76-78頁)。そして一見「寛容」を示す態度も非対称的な権力関係によって支えられている。再びハージの言葉を借りれば、「『移民がもっと入ってきても私はかまわない』とか『道ばたでアラビア語を話している人々がいても私はかなわない』といった発言は、次のような幻想を生きている人々だけが言える。・・・人々が道ばたでアラビア語を話してよいかどうか、あるいはもっと多くの移民が入ってきてよいかどうかは、自分の決定次第だと感じる幻想である。・・・支配される立場にある人々は、寛容なのではない。かれらはただ耐え忍んでるだけである」(172頁)。

脱領域化の過程における再領域化の動きは、国境を取り巻く風景を一変させている(土佐弘之「グローバリゼーションと人の移動――国境の風景はどう変わりつつあるのか」『法律時報』77巻1号, 2005年)。その風景は、越境する人の国籍やアイデンティティによってカメレオンのように変化する。幾重にも張り巡らされた鉄条網や壁という物理的障壁の隣には、ICチップが埋め込まれた旅券によってその権利を保障されたビジネスエリートのためのゲートがある。グローバル化時代にあって、かつての植民地時代を想起させる圧倒的なまでの階層性が残っている。

徐京植の目に映った「白い道」は荒廃するどころか、しっかりと整備され、掃き清められている。「北アフリカや中南米に発してイベリア半島につながる無数の白い道(中略)はスペインで一本に収束し、長大な城壁のようなピレネーを迂回して、ヨーロッパの中枢、華やかなパリへと延びている。かつて植民地だった国々から、空腹をかかえ疲れた顔の人々がその道を這い登ってくる。だがその道を通じてあらゆる富を運び込んだ者たちは、人間たちだけはなんとしても通すまいと、油断なく関所を設け、這い登ってくる人々をせっせと払い落としているのだ。同じ白い道は、中南米諸国とアメリカ合衆国、朝鮮半島をはじめとするアジア諸国と日本の間を結んでいる」(『私の西洋美術巡礼』みすず書房, 1991年: 145-146頁)。
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公≠愛=共

2006年05月16日 | nazor
今国会の終盤戦の「目玉」である教育基本法改正が審議入り。与党案についで民主党の対案も出て一応議論の土台が出来上がった。どちらの案も競い合うかのように国を愛することに「情熱」を注いでいる。すくなくとも、社共の「斜陽左翼」を除けば、国民の代理人によって構成される国会の場では「国を愛すること」は当然であり、それ自体を問題化する姿勢はマイノリティのようだ。いわば現在の教育基本法改正の審議は、「国を愛すること」の意味ではなく、どれくらい愛するべきかという程度をめぐるものといえるだろう。

しかしいわゆる「愛国心」をめぐる議論の構図を傍目から眺めるとき興味深いのは、昨年の中国の反日デモを批判し、その根源を中国の愛国主義教育に求めていた人々が愛国心の導入に積極的なことであろう。「敵(=中国)」に対抗しようとするあまり、気がつけば行動や思想が似通ってくるミイラ取りの論理を忠実になぞってしまっている彼らにはたして中国を批判する正当性があるのだろうか。結局のところ「どっちもどっち」であり、自らの主張を絶対的基準から正当化することはできないことになる。国境の内側で進む動きが国境の外側にほとんど影響を与えることはないだろうという、「堅い殻」に覆われた国家観を抱いているため、言い換えれば国内の事象は国内で貫徹することを素朴に信じているため、それが外側にいる「他者」にどのように認識・理解されるかという点まで考えが及んでいない典型的な思考パターンが看取できる。

いまやナショナリズム研究の「古典」となった『想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行[増補版]』(NTT出版, 1997年)で、ベネディクト・アンダーソンは、愛国心について1章分を割いて論じている。彼によれば、「国民(nation)は愛を、それもしばしば心からの自己犠牲的な愛を呼び起こす」(232頁)。その一方で、愛国心を考察する章のタイトル「愛国心と人種主義」が示唆するように、他者に配慮の行き届いた愛国心が成立する可能性は少なく、その暴力的位相をその射程に含めて考える必要がある。

また愛国心論争の争点のひとつになっている愛する対象である「国」とは何を意味するのかについて、もし「国」に「公」の意味を含ませるとすれば、愛するという行為と「公」という対象の関係がそもそもありえるのだろうかと問う必要があるだろう。公共性をめぐる議論の出発点として常に参照されるハンナ・アーレントによれば、「愛は、それが公に曝される瞬間に殺され、あるいは消えてしまう。・・・愛はそれに固有の無世界性のゆえに、世界変革とか世界の救済のような政治目的に用いられるとき、ただ偽りとなり、堕落するだけである」(『人間の条件』筑摩書房, 1994年, 77頁)。アーレントの議論は、愛国心という文言が国家の恣意的な判断に委ねられることに対する警戒感と重なり合う視座であり、「公」という審級を措定することが、時の政権や指導者の私的利害に基づく行動を覆い隠す役割を果たすことを示している。政治家たちが「愛」という言辞に訴えかける状況は政治的に正常ではないと見るべきだろう。彼らが率先して語る「愛」は、自然に涵養してくるものではない。言い方を変えれば自動詞の「愛する」ではなく使役の意味が強い「愛させる」が彼らの意図する「愛の行為準則」だろう。

とりわけ「公」が「官」すなわち「国家」とつながりやすい日本においては、アーレントの視点を考慮に入れることは重要だろう。かといって「愛」が「私」の領分であり、いわゆる「公」の領分では何の意味も持たないからといって、ただ反対の姿勢を唱えているだけでは一種の敗北主義に等しい。おそらく求められるのは「愛の行為」の意味内容を吟味し、またその対象を日本的な意味での「公」ではない「公的なるもの」へと転換する戦略だろう。こうした論争地図を勘案したとき、アントニオ・ネグリ&マイケル・ハートが「公」とは別に提示する概念である<共>(the common)に一定の可能性を見出すことができるかもしれない(『マルチチュード――<帝国>時代の戦争と民主主義』日本放送出版協会, 2005年)。<共>を生み出す政治的行動に見出される「愛」は、今日の通俗的な意味での「愛国心」が想定する「愛」とは異なる。それは、「国家を持たない者たちの愛国/愛郷主義」(上巻103頁)であり、閉鎖的な共同体内部でのみ意味を持ちうる愛国心よりも広い射程をもつ。水島一憲の言葉を借りれば、「あくまでも多数多様性を基盤に構成される」愛の概念は、同質化/画一化を志向するナショナリズムとは相容れないものである(「愛が<共>であらんことを――マルチチュードのプロジェクトのために」『現代思想』33巻12号, 2005年, 99頁)。

たしかに<共>の生産を目的とした政治的な「愛」という視座は興味深い。しかし審議入りした教育基本法改正案をめぐる議論が表層的なレベルで終始し、単純な二項対立の構図で語られることのない、深みのあるものになることは、現状から見るかぎりにおいて、そう期待できるものではない。思弁的議論が煙たがられる現在の国会や公論では、それは当然かもしれないが、これだけ注目を集め、賛否両論状態にある「愛国心」をめぐる議論が実りあるものになる方途としてネグりとハートの議論を取り上げてみる価値はあるだろう。
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巡り合わせ

2006年05月12日 | hrat
愛敬 107戦不敗の3勝目!(『スポーツニッポン』)
危険球判定にノムさん激怒も愛敬で勝った(『日刊スポーツ』)
愛敬107戦無敗…歴代単独2位浮上楽天初先発3連勝(『スポーツ報知』)
“不敗男”愛敬で楽天10勝!ノムさんも天運に脱帽(『サンケイスポーツ』)

愛敬の不敗神話が継続中の楽天。昨日も6回に逆転され、いつもならそのまま試合終了で、神話崩壊となりかねなかったが、すぐさま打線が爆発して、再逆転に成功し、神話の効能は依然として衰えていないようだ。それでも開幕当初は一場でしか勝てなかった状態から、現在は愛敬でしか勝てない状態に移行しただけで、なかなか連勝の可能性は出てこないのも事実である。

しかし、スポーツ紙は別として主要一般紙は石井の2000本安打達成を大きく報道し、楽天が勝利した「事実」が霞んでしまっている。これでは、一昨日の試合で石井にすんなり2000本目を打たれたほうがよかったと営業サイドは嘆いてることだろう。
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御膳立て

2006年05月11日 | hrat
楽天、今年も最も遅い10勝到達決定…ノムさん「不運多すぎ」(『サンケイスポーツ』)

石井琢朗の史上初となるサヨナラ安打での2000本達成を演出しかねかった「裏日本シリーズ」第2戦。押し出し四球で負けるならば、石井にすんなり記録達成させて、一種の燃え尽き症候群によってしばらく眠らせておくこともできたかもしれない。

土壇場でクルーンを攻略して同点に追いつくまではいくが、一気に勝ち越せず、守護神福盛が投げている間に得点が入らず、交代した途端に得点を許してしまうところがいかにも楽天らしい。
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絶対化を希求する心性

2006年05月06日 | knihovna
春江一也『ウィーンの冬』(集英社インターナショナル, 2005年)

先月NHK-FM「青春アドベンチャー」で、第1作『プラハの春』(集英社, 1997年)が放送されていた元外交官春江一也の最新刊。堀江三部作の完結編に当たる本書は、ベルリンの壁崩壊から湾岸戦争勃発にかけての世界を背景に、それまで厳然と聳えていたソ連の脅威が消えていく中、「ポスト冷戦」世界における新しい脅威の「典型」というべきイスラム過激派、イラク、北朝鮮、新興宗教団体を総動員して、それらが画策する陰謀が冬のウィーンを舞台に繰り広げられるストーリー展開となっている。

春江自身をモデルしている堀江が本書では中年オヤジの域に達していることもあり、派手なアクション・シーンよりも、魔都ウィーンの性格を補助線としながら、地下世界で蠢く「新たな脅威」が徐々にネットワークとして結びついていく過程を描くことに重点がおかれている。

先述したように、本書の世界観が依拠しているのは「ポスト冷戦」という時代状況である。世界を破滅に導く陰謀の進展とそれを阻止する諜報機関という構図は、スパイ小説の典型的なプロットであり、まさしく冷戦の産物でもあったわけであるが、冷戦の終焉は、それまでソ連および共産主義を「敵/他者」として設定すれば、大方のストーリーが出来上がり、あとは周辺的な描写にどのような修飾を施すかにその評価がかかっていたこの手の小説世界にアイデンティティ危機をもたらした。

おそらく本書の描くプロットも、冷戦終焉前後の同時代的文脈のなかでは、浮かび上がることはなかったであろう。それは、現代世界が「ポスト」ポスト冷戦に移行したことを意味している。つまり大文字の他者/脅威であるソ連の消滅した後、それに取って代わるような敵/適役を見出せない状況が10年あまりの時を経てようやく解消されたことを意味する。しかし1990年代の世界における対立軸あるいは脅威の源泉は、かつてのソ連のような圧倒的な、かつ目に見える脅威ではなく、小粒で不可視の脅威であり、複数の脅威がネットワーク化しなければ、小説の世界観を支えるだけの存在感を持ち得ない。

冷戦終結前後に小説の舞台を定めたとき、こうした脅威の移行あるいは変質を組み込む作業が必要となる点は理解できるが、その一方で、オウム真理教をモチーフにした宗教カルト集団、サダム・フセイン、ビンラディン、北朝鮮、旧ソ連の武器商人と、考えられる限りの「脅威」を並べ立て、それぞれが地下水脈で結びついているという構図は、事大主義的な雰囲気を感じさせる。「歴史の後知恵」と一蹴してしまえばそれまでだが、「脅威」の安売り状態とも形容できる状況は、小説の登場人物それぞれの個性を殺してしまい、彼らとは無関係な力学が作用しているかのような印象を与える。

しかも「脅威」の側にいる人物たちの描写は、きわめてステレオタイプに満ちており、彼らの人間性は限りなく剥奪されている。このことは、明確な「脅威」を失った時代状況に対する春江自身の認識を示唆している。すなわち、彼にとって、何らかの「脅威/他者」の存在は欠かせないものであり、あるいはそうした友敵関係がしっかりと見える世界を常態とみなす認識が反映されている。このような心性に囚われている限りにおいて、小説の構成は陳腐な勧善懲悪の物語になり、現実世界を構成する複雑性の位相がすっぽりと抜け落ちてしまう。その結果、人間性に溢れるはずの堀江も、冷戦思考から脱却できない「頭の固いオッサン」にすぎない平凡な人物にしか見えなくなる。

小説の端々で、堀江は日本人の「平和ボケ」を揶揄する言葉を発し、またカルト教団のテロ計画を「ヴァーチャルなシミュレーションで、安っぽいテレビゲーム」と批判しているが(357頁)、それと同じ程度に、堀江=春江の世界も、現実世界から遊離したヴァーチャルな関係性に支えられている。かつて笠井潔が福井晴敏『川の深さは』(講談社, 2000年)を評して述べたように(『徴候としての妄想的暴力――新世紀小説論』平凡社, 2003年)、明示的あるいは暗示的にかかわらず国家や国際政治を題材にした小説において、日本の不甲斐なさを「告発する」論理自体がすぐれて理念主義的であり、そこには現実感の欠如が看取される。坂本義和の議論に従えば(『相対化の時代』岩波書店, 1997年)、「相対化の時代」にあるポスト冷戦状況で「絶対化の時代」への郷愁あるいはそこに回帰しようとする欲望は、2005年に刊行された本書の「新しさ」を奪い、通俗的なスパイ小説の域に押し込めてしまっている。単純な二項対立の不毛さが指摘されて久しいにもかかわらず、それを再生産しようという衝動が依然として根強いことを、『ウィーンの冬』は垣間見せてくれる。
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同盟の本懐

2006年05月02日 | nazor
在日米軍再編計画の最終報告が日米両政府の間で決定したことを受けて、今後の焦点は「政府間(=国際的)合意」をどのように「国内の合意」に転換するかに移る。その過程で日本政府は2種類の説得を試みなくてはならない。すなわち名護市や岩国市など特定の自治体に対する説得と、移転費用負担の根拠に関して国民的な同意を得る作業である。

単に「アメリカ政府との約束だから」と強調するだけでは、アメリカに対する懐疑主義を取り除くことは難しい。一部の親米派を別にすれば、「追従」あるいは「押し付け」と捉えられて、釈然としない雰囲気が残ることだろう。言い換えれば、今回の在日米軍再編に対する国内合意を取り付ける上で、「純国産」あるいは「二国間」の論理に依拠する限り、合意という一体性が得られる可能性は低い。

したがって、どうしても他の理由を持ち出すことで、最終報告の「正当性」を提示しようとすることになる。今日の『読売新聞』に寄せた村田晃嗣の最終報告に関するコメントなどはこうした論理の典型だろう。村田は、日本を取り巻く不安定な環境、とりわけ北朝鮮や中国の「脅威」に言及することで、今回の再編の「有用性」を指摘する。これは、対外的脅威を措定することによって国内的一体性を醸成する常套手段であるが、この論理はすぐれて「国内向け」の色彩が強い。

そもそも同盟を組む第一の理由は、対外的脅威に対する保障やその抑止にあるが、同盟によって対外的脅威それ自体が解消するわけではない。その意味で同盟は一時的な保障措置に過ぎず、より安全な環境を求めるならば、同盟とは異なる政策手段を確保しておく必要がある。しかし手段であるはずの同盟の存続が目的化している日本政府の現状認識からすれば、対外的脅威の解消という本来の目的はなるべく注意を逸らしておきたい争点であり、むしろ存在論的に不可欠なものとして対外的脅威が位置づけられる。コンストラクティヴィズムの議論を持ち出すまでもなく、北朝鮮の核武装や中国の軍拡の実情、そしてそれらがどの程度の「脅威」を構成しているのかという認識は間主観性に左右される偶発性の高いものである。そうであれば、国民に対して同盟の再編を受け入れさせる「国内事情」のために、対外的脅威の存在に言及することは、脅威の実質化をもたらす行為遂行的作用を孕まざるをえなくなる。

「国内事情」あるいは「同盟内事情」を優先させて、対外的環境の悪化を招く現象は、いわゆる「安全保障のジレンマ」と呼ばれ、国際政治学において「一般常識」であるが、どうも「現実主義」を標榜し、それを日米同盟の維持と等置する傾向の強い日本の識者たちは、同盟の再編が、同盟の対象国にとってどのような影響を与えるのかという同盟の対外的位相を十分考慮に入れていない。日米同盟を公共財と呼ぶような「知的詐欺」が彼らによって唱えられる理由もここにある。いま求められるのは同盟の意味を根本から考える態度であり、同盟の位置づけが変化する現在はまさに格好の機会となるはずである。しかし同盟の存在を所与とみなす限りにおいて、今後こうした同盟の変容が訪れようとも「既視感」に溢れた政治過程が繰り返されるだけだろう。
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