グローバル化が進展する世界にあって、境界線をめぐる政治が世界各地で政策的および公論的関心を引いている。韓国との竹島/独島問題は伝統的な境界をめぐる争いの発現とみなされるならば、今週に入って、ブッシュ大統領がメキシコ国境沿いに州兵を配備する対策を決定したことや(
「米国:不法移民対策、国境地帯に州兵6000人-ブッシュ大統領」『毎日新聞』5月16日)、外国人の指紋採取などを義務付けた改正入管法が国会で成立したことなどは、新しい国境の機能強化と理解できる(
「改正入管法成立、来日外国人から指紋採取・顔写真撮影」『読売新聞』)。
境界をめぐる政治が重要な意味を持つ一因には、境界が固定的なものではなく、流動的なものであり、常に引きなおされ続けなくてはならないからであろう。その意味で、カール・ポパーが指摘するように、「国家には自然の境界はない。国家の境界は変化し、現状という原則の適用によってしか定義できない。またすべての現状は恣意的に選ばれた日付に言及しなければならないのだから、ある国家の境界の決定は純粋に規約的な(conventional)ものである」(
『開かれた社会とその敵(1)プラトンの呪文』未来社, 1980年: 324頁)。
いわゆる「国境なき世界」における境界の意味は、両義的である。一方で、武力による国境変更が事実上不可能になったことで、地理的/物理的境界はより強化されている。それは、国際的な人の移動をめぐる規範や制度が、旅券・査証制度の標準化に見られるように、受容されていることからも明らかだろう。資本や商品の越境移動とは異なり、人の移動に対する管理あるいは監視は整備され、移動主体の国籍と市民権を等値する観念が一般化する。アメリカのUS-VISITに倣ったJAPAN-VISITと呼ばれる前述の日本の入管法改定作業もIC旅券/指紋登録に見られるように、人の移動に対する国家の管理能力が依然として大きいことを物語っている。
他方で、地理的/物理的境界を死守しようとする動きは、機能的境界の融解を生み出している。従来警察あるいは治安活動である国境警備に軍を投入する「国境の軍事化」に典型的に見られるように、国境による国内と国際の区別とコロラリーの関係にあった警察と軍の役割分担はすでに意味を成さなくなっている。国際の観点から軍の警察化、国内の観点からは警察活動の軍事化が進むことで、軍と警察の機能的な違いは限りなく解消されている(藤原帰一「軍と警察――冷戦後世界秩序における国内治安と対外安全保障の収斂」
山口厚・中谷和弘編『融ける境 超える法(2)安全保障と国際犯罪』東京大学出版会, 2005年)。軍や警察のように公的暴力を担う主体間の境界が揺らいでいるだけではなく、暴力行使を民間が担うようになっている点も見逃すことができない現象である。メキシコ国境沿いに展開しているのは、何も国境警備隊や警察、あるいは州兵だけでない。境界の揺らぎを敏感に嗅ぎ取っている「ミニッツマン」と呼ばれる民兵/自警組織の存在は、公と私あるいは国家と社会の境界を問い直す(「民兵警備 緊迫の国境」
『AERA』2005年7月25日号)。従来の国家安全保障の規範に則れば、安全の確保は一義的に政府(国家)の仕事である。しかしネオリベラリズムに規定された思考や行為が規範化されるにしたがって、暴力の所有/行使は国家に独占的に配分されるものではなくなった。
このような境界の両義的な意味は、これまでとは異なる国境管理の在り方を要請する。それは、国境の内側の安全や一体性を確保しながら、越境活動による経済的利益を増大させる国境管理である(小井土彰宏「NAFTA圏と国民国家のバウンダリー――経済統合の中での境界の再編成」
梶田孝道・小倉充夫編『国際社会(3)国民国家はどう変わるか』東京大学出版会, 2002年)。まさしくネオリベラルな経済倫理に基づいて、越境する者たちを「望ましい者」と「望ましくない者」とに峻別する。ネオリベラリズムのスローガンでもある小さな政府の観点から、単純労働に従事する不法越境者たちを社会保障によって包摂することは忌避され、彼らに対するセーフティーネットの構築よりも摘発・排除が優先される。そして国境検問とは超法規的国家暴力が可視化するワイルドゾーンであり(
テッサ・モーリス=スズキ『自由を耐え忍ぶ』岩波書店, 2004年: 5章)、越境者には境界の存在が否応なく聳え立つ。さらに、越境者の選別は国境地点だけで完結するのではない。監視/生体技術を全面的に採用した国境管理政策の地平は国家の内部空間全域に広がっていく。その意味で新しい国境管理の政治は監視社会と表裏一体の関係にあるといえるだろう(監視社会については、たとえば
ディヴィッド・ライアン『9・11以後の監視――「監視社会」と「自由」』明石書店, 2004年を参照)。
と同時に、ナショナルなアイデンティティの境界を再確認する動きも、現在の境界をめぐる政治に看取できる。先述した民兵/自警組織による国境警備の動きは、下からの国政術(statecraft from below)と捉えられる動きであり、そこには本来の国政術を担うエリートたちとは微妙に異なる脅威認識が見られる。ヒスパニック系の人口が増えるに連れて、自分たちの存在が周辺化されるという危機感は国境の最前線にいる人々を動かし、彼らのアイデンティティに対する関心を呼び覚ます。そしてこうしたアイデンティティ危機を克服する過程で、不法越境者たちが贖罪として位置づけられる。日ごろは「寛容」を口にしながらも、そこにはレイシズム/ナショナリズムの契機が見え隠れする。オーストラリアの事例を考察したガッサン・ハージによれば、移民に対する不満としてしばしば耳にする「彼らの数が多すぎる」といった概念は、「特定の領域空間を想定していないかぎり無意味である。というのは、その空間なしには『数が多すぎる』といった判断を下すことができないからである」(
『ホワイト・ネイション――ネオ・ナショナリズム批判』平凡社, 2003年: 76-78頁)。そして一見「寛容」を示す態度も非対称的な権力関係によって支えられている。再びハージの言葉を借りれば、「『移民がもっと入ってきても私はかまわない』とか『道ばたでアラビア語を話している人々がいても私はかなわない』といった発言は、次のような幻想を生きている人々だけが言える。・・・人々が道ばたでアラビア語を話してよいかどうか、あるいはもっと多くの移民が入ってきてよいかどうかは、自分の決定次第だと感じる幻想である。・・・支配される立場にある人々は、寛容なのではない。かれらはただ耐え忍んでるだけである」(172頁)。
脱領域化の過程における再領域化の動きは、国境を取り巻く風景を一変させている(土佐弘之「グローバリゼーションと人の移動――国境の風景はどう変わりつつあるのか」
『法律時報』77巻1号, 2005年)。その風景は、越境する人の国籍やアイデンティティによってカメレオンのように変化する。幾重にも張り巡らされた鉄条網や壁という物理的障壁の隣には、ICチップが埋め込まれた旅券によってその権利を保障されたビジネスエリートのためのゲートがある。グローバル化時代にあって、かつての植民地時代を想起させる圧倒的なまでの階層性が残っている。
徐京植の目に映った「白い道」は荒廃するどころか、しっかりと整備され、掃き清められている。「北アフリカや中南米に発してイベリア半島につながる無数の白い道(中略)はスペインで一本に収束し、長大な城壁のようなピレネーを迂回して、ヨーロッパの中枢、華やかなパリへと延びている。かつて植民地だった国々から、空腹をかかえ疲れた顔の人々がその道を這い登ってくる。だがその道を通じてあらゆる富を運び込んだ者たちは、人間たちだけはなんとしても通すまいと、油断なく関所を設け、這い登ってくる人々をせっせと払い落としているのだ。同じ白い道は、中南米諸国とアメリカ合衆国、朝鮮半島をはじめとするアジア諸国と日本の間を結んでいる」(
『私の西洋美術巡礼』みすず書房, 1991年: 145-146頁)。