○テッサ・モーリス-スズキ『過去は死なない:メディア・記憶・歴史』岩波書店 2004.8
(以下は、厳密には公言してはいけないことだが)私は、数年前、つとめていた図書室のカウンター越しに著者と対面したことがある。彼女は写真に関する図書を大量に借りていかれた。私は著者を社会思想や政治哲学の専門家と思っていたので、どうしてこんな本を必要とされるのか、とても不思議だった。本書を読んで、当時の疑問が氷解した。
この数年、日本では歴史教科書をめぐって激しい議論が起きている。だが、その実、我々は教科書だけから、歴史を学ぶわけではない。むしろ我々の「過去に対する理解」は、写真、映画、歴史小説、マンガ、インターネットなど、さまざまな大衆メディアの影響によって形成されている。
そこで著者は、各種メディアにおける歴史の表現を検証し、記憶に焼きつくメディア、感情をゆさぶるメディアなど、各々の特性を明らかにする。また、今日、ハリウッド映画をきっかけに公文書館のウェブサイトが立ち上がったり、ウェブサイト上に過去の白黒写真が展示されていたりと、さまざまなメディアが協同する場合が多いこと、しかし、それらのメディアで語られるものは、しょせん、資本の偏在と商業主義のコードに限定されたものであることに注意を促す。
我々が、なんとなく真実そのものと混同しがちな「写真」というメディアについて、著者は慎重な批判を重ねる。「真実」と「捏造」は明白な二項対立であるのか? 撮影者が眼前の光景(たとえば幸せな家族の肖像)の”意味”を際立たせたいと思って、小道具や背景に周到な準備を行うことは捏造か? あるいは”意味”の際立つ一瞬が訪れるのをじっと待つことは捏造か? たまたまフィルムに写った構図に効果的な「トリミング」を施すことは?
さらに言えば、我々が何か歴史的に意味のある写真を見るのは、展示会にしても写真集にしても、さまざまなテキスト、時には音楽や語り、別の写真が付加され、ある意図のもとに”編集”された結果である。したがって、問わなければならないのは、1枚の写真が「真実(トゥルース)」であるかではなく、むしろ編集者や展示者を含めて、その取り扱い方が「真摯(トゥルースフル)」であるかどうかなのだ。
マンガ、歴史小説、インターネットに関する章も、それぞれに豊かな問題を提起していて、非常におもしろかった。結局、「この話をしているのは誰で、それはなぜなのか? どうしてわたしはそれにこんなふうに反応するのか?」と問いかけること、大量の矛盾する情報に遭遇しても”判断保留”のシニシズムに逃げ込むことなく、理解のために倦むことない努力を続けること、「歴史に対する真摯さ」はその態度の中にしかないということになるだろう。
「あとがき」にさりげなく付け加えられた「1920年代初めのイギリスによるイラク爆撃」の挿話も、深く考えさせられるものである。
(以下は、厳密には公言してはいけないことだが)私は、数年前、つとめていた図書室のカウンター越しに著者と対面したことがある。彼女は写真に関する図書を大量に借りていかれた。私は著者を社会思想や政治哲学の専門家と思っていたので、どうしてこんな本を必要とされるのか、とても不思議だった。本書を読んで、当時の疑問が氷解した。
この数年、日本では歴史教科書をめぐって激しい議論が起きている。だが、その実、我々は教科書だけから、歴史を学ぶわけではない。むしろ我々の「過去に対する理解」は、写真、映画、歴史小説、マンガ、インターネットなど、さまざまな大衆メディアの影響によって形成されている。
そこで著者は、各種メディアにおける歴史の表現を検証し、記憶に焼きつくメディア、感情をゆさぶるメディアなど、各々の特性を明らかにする。また、今日、ハリウッド映画をきっかけに公文書館のウェブサイトが立ち上がったり、ウェブサイト上に過去の白黒写真が展示されていたりと、さまざまなメディアが協同する場合が多いこと、しかし、それらのメディアで語られるものは、しょせん、資本の偏在と商業主義のコードに限定されたものであることに注意を促す。
我々が、なんとなく真実そのものと混同しがちな「写真」というメディアについて、著者は慎重な批判を重ねる。「真実」と「捏造」は明白な二項対立であるのか? 撮影者が眼前の光景(たとえば幸せな家族の肖像)の”意味”を際立たせたいと思って、小道具や背景に周到な準備を行うことは捏造か? あるいは”意味”の際立つ一瞬が訪れるのをじっと待つことは捏造か? たまたまフィルムに写った構図に効果的な「トリミング」を施すことは?
さらに言えば、我々が何か歴史的に意味のある写真を見るのは、展示会にしても写真集にしても、さまざまなテキスト、時には音楽や語り、別の写真が付加され、ある意図のもとに”編集”された結果である。したがって、問わなければならないのは、1枚の写真が「真実(トゥルース)」であるかではなく、むしろ編集者や展示者を含めて、その取り扱い方が「真摯(トゥルースフル)」であるかどうかなのだ。
マンガ、歴史小説、インターネットに関する章も、それぞれに豊かな問題を提起していて、非常におもしろかった。結局、「この話をしているのは誰で、それはなぜなのか? どうしてわたしはそれにこんなふうに反応するのか?」と問いかけること、大量の矛盾する情報に遭遇しても”判断保留”のシニシズムに逃げ込むことなく、理解のために倦むことない努力を続けること、「歴史に対する真摯さ」はその態度の中にしかないということになるだろう。
「あとがき」にさりげなく付け加えられた「1920年代初めのイギリスによるイラク爆撃」の挿話も、深く考えさせられるものである。