○高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)筑摩書房 2005.4
テレビを見ていたら、中国の副首相が小泉首相との会談をキャンセルした問題について、出演者が「どうして何かあるたびに、過去の問題を持ち出してくるのでしょう」と憤懣やるかたない口調でコメントしていた。聞きながら、暗澹とした気持ちになった。中国政府の非礼は非礼として、たぶん「靖国」を「過去の問題」と捉えることに、そもそも認識の差があるのだと思う。
本書が指摘するように、問題は「過去の靖国」ではなく、現役の首相による公式参拝という「現在の政治行為」であるという見方に私は同意する。いや、2001年10月の日韓首脳会談で、小泉首相が約束した「日本は、靖国神社参拝について、世界中の人々が負担なく参拝できる方案を検討する」という宿題は、未だ果たされていない。
そもそも、近代国家は、「国民の動員を目的としない、純粋な追悼施設」を作ることができるのか? これは、日本人だけでなく、21世紀に生きる全ての人類が、未来に向かって背負った難問であると思う。
アメリカのアーリントン墓地、フランスの無名戦士の墓、韓国の国立墓地・顕忠院など、それらは全て自国の戦死者の顕彰を目的としている。不戦の誓いに支えられたドイツの「ノイエ・ヴァッヘ」でさえ、沖縄の「平和の礎」でさえ、ひとたび気を許せばたちまち「靖国化」を免れないことを、著者は、あきれるほど愚直な態度で検証している。途は険しい。しかし「靖国」は、むしろ「未来の問題」として我々の前にあると思いたい。
私はかねてから中国がA級戦犯の合祀にこだわるのが不思議だった。この態度は、日本の戦争責任を非常に狭い範囲に限定してしまうようで、残念に思っていた。これに対して著者は、中国の意図は、問題を「A級戦犯合祀」に絞り込むことで「靖国」そのものを不問に付し、「一種の政治決着」を図ろうとしているのではないかと指摘する。なるほどね。
本書は、日本近代史の門外漢である著者が、靖国問題を「どのような筋道で考えていけばいいのかを論理的に明らかにする」目的で書いたものだ。広範な資料を明晰に整理した労作である。「国家の詐術」にだまされないよう、知性を研ぎ澄ますことの大切さを教えてくれる。しかしまた、知性や論理だけでは、この問題が深く根ざした「感情」に対して、何の答えにもなっていないという批判もあると思う。
テレビを見ていたら、中国の副首相が小泉首相との会談をキャンセルした問題について、出演者が「どうして何かあるたびに、過去の問題を持ち出してくるのでしょう」と憤懣やるかたない口調でコメントしていた。聞きながら、暗澹とした気持ちになった。中国政府の非礼は非礼として、たぶん「靖国」を「過去の問題」と捉えることに、そもそも認識の差があるのだと思う。
本書が指摘するように、問題は「過去の靖国」ではなく、現役の首相による公式参拝という「現在の政治行為」であるという見方に私は同意する。いや、2001年10月の日韓首脳会談で、小泉首相が約束した「日本は、靖国神社参拝について、世界中の人々が負担なく参拝できる方案を検討する」という宿題は、未だ果たされていない。
そもそも、近代国家は、「国民の動員を目的としない、純粋な追悼施設」を作ることができるのか? これは、日本人だけでなく、21世紀に生きる全ての人類が、未来に向かって背負った難問であると思う。
アメリカのアーリントン墓地、フランスの無名戦士の墓、韓国の国立墓地・顕忠院など、それらは全て自国の戦死者の顕彰を目的としている。不戦の誓いに支えられたドイツの「ノイエ・ヴァッヘ」でさえ、沖縄の「平和の礎」でさえ、ひとたび気を許せばたちまち「靖国化」を免れないことを、著者は、あきれるほど愚直な態度で検証している。途は険しい。しかし「靖国」は、むしろ「未来の問題」として我々の前にあると思いたい。
私はかねてから中国がA級戦犯の合祀にこだわるのが不思議だった。この態度は、日本の戦争責任を非常に狭い範囲に限定してしまうようで、残念に思っていた。これに対して著者は、中国の意図は、問題を「A級戦犯合祀」に絞り込むことで「靖国」そのものを不問に付し、「一種の政治決着」を図ろうとしているのではないかと指摘する。なるほどね。
本書は、日本近代史の門外漢である著者が、靖国問題を「どのような筋道で考えていけばいいのかを論理的に明らかにする」目的で書いたものだ。広範な資料を明晰に整理した労作である。「国家の詐術」にだまされないよう、知性を研ぎ澄ますことの大切さを教えてくれる。しかしまた、知性や論理だけでは、この問題が深く根ざした「感情」に対して、何の答えにもなっていないという批判もあると思う。
『真田太平記』は私も3年ほど前に制覇したのでそちらの感想を書き込もうかと考えていたら、続けて『靖国問題』。少し思案した結果、こちらに書き込むことにしました。
多岐にわたる「問題」がこの本には含まれていまし、私の感想は自分のブログでも書いていますので、ここでは記事の最後に書かれている、「この問題が深く根ざした「感情」に対して、何の答えにもなっていないという批判もあると思う」ということについて私見を記しておきたいと思います。
本書では「感情の錬金術」というタームをつくって、遺族感情を説明していました。しかしこの説明では、「慰霊」という個人的な思いが「靖国」に接続(誘導)されることの「不自然さ」については、何の説明にはなっていません。なぜ「慰霊=個人の墓地」ではなく「慰霊=靖国」なのか。こうした問いかけを抜きにしてしまうと、「靖国に対する思い」が個人の自然な(当然の、自明の)「感情の発露」ということになってしまいます。いったいどの時点からこうした「感情の靖国への接続」が「自然」とされたのか、そうした歴史的考察を行なう必要性を感じました。これはおそらく歴史学プロパーの仕事なんでしょうね。
話は変わって『真田太平記』。全12巻ですが、長さを感じさせないテンポの良さに唸りました。何かの本に書いてあったことですが、池波正太郎の凄さは「セリフ」にあるとのこと。「地」の文でストーリーを説明するのではなく、「セリフ」を読んでいれば自然と物語を理解できるように書かれているそうです。
長々と失礼しました。機会があれば、また書き込みたいと思います。
西の果ての長崎ですけど良い所も沢山有ります。
是非いらしてください。
それと、ブログを時々見せて頂くのが楽しみです。
よろしくお願いします