[アングロサクソン人のブリテン島への移住]
・グレイトブリテン島(Great Britain)とアイルランド島(Island of Ireland)を総称して、ブリテン諸島(British Isles)と呼ぶ。□近藤6
・イングランド(England)とは、「アングル人の土地」を意味する。4~5世紀頃、アングル人、サクソン人、ジュート人、フリースラント人などのゲルマン民族(その総称がアングロサクソン人)が、ヨーロッパ大陸からブリテン島へ渡ってきた。アングロサクソン人は、先住民であるケルト系のブリトン人を駆逐していった。もっとも、8世紀末から9世紀にかけては反対にヴァイキングの襲来を受けることになった。ヴァイキングに反抗する中で、アングロサクソン人のエドガ(在位959-975)が「イングランド王国」を統一して、973年に戴冠を受けた(※)。□アルマ16-7、近藤30-4
※同じ10世紀後半には、教皇によるザクセン朝のオットーへの戴冠(962年:神聖ローマ帝国の始まり)、ランス大司教によるユーグ・カペーへの戴冠(987年)が行われた。□近藤34
・エドガの子エゼルレッド2世(在位987-1016)の時代になると、イングランドはデーン人の襲来を受けた。デンマーク王スヴェンと王子クヌートにロンドンが攻囲され、イングランドは分割統治されることとなったが、最終的にはクヌート(在位1016-35)の単独統治となった。クヌートは、亡エゼルレッド2世の妃エマと再婚し、最終的にはイングランド王・デンマーク王・ノルウェー王となって、イングランドは北海帝国の一部へ組み込まれた。北海帝国はスカンディナヴィア半島からブリテン島までに及ぶ複数の王国から構成されたが、瓦解した。□アルマ17、近藤35-6
・北海帝国の瓦解後、イングランド・ウェセックス家の血統(=エゼルレッド2世とエマの子)であるエドワード(証聖王)(在位1042-1066)がノルマンディから帰国し、イングランド王国の王となった。□アルマ18、近藤36-7、池上10,16
・エドワードには子がいなかったため、賢人会議は義弟ウェセックス伯ハロルド(在位1066)を王に選出した。これに、ノルウェー王ハロルド・ハードラーダ、ノルマンディ公ギョームが異議を唱えた。まず、ノルウェー王ハロルド・ハードラーダがイングランド北東岸に上陸してヨークを攻略したが、ハロルドはこれを急襲して撃退した。その直後、ギョームは騎士を要したノルマン軍を引き連れて南岸に上陸した。豊富な武器防具を装備したノルマン軍に対し、歩兵中心の貧相なアングロサクソン軍は敗れた。戦闘の中でハロルドは眼を射抜かれた。□アルマ18、近藤37-9、池上10,16
[ノルマン系によるイングランドの征服(ノルマン征服)]
・ハロルドを破ったノルマンディ公ギョームは、ウィリアム1世(征服王)(在位1066-1087年)として即位した。ウィリアム1世は、ウェストミンスタ修道院教会で戴冠式を行った初めての王となった(イングランドの王は、ウィリアム1世を1代として数える慣行がある)。ウィリアム1世は、イギリス海峡に臨むフランス北西部のノルマンディを支配したままイングランド王を兼ねた。イングランド各地の諸侯はこれに反乱したものの、ウィリアム1世はこれを圧伏してアングロサクソン系から領地を収公し、ノルマン系に分配した。ここにイングランドはフランス王国諸侯の領地となり、支配層はアングロサクソン系からノルマン系へと一変して、社会体制は「アングロ=ノルマン」へと変質した。ウィリアム1世とノルマン系貴族との間では土地授与の対価に軍役奉仕を提供する直属封臣が成立し、集権的封建制度が進んだ。またウィリアム1世は、直領地のみならず臣下の所領を検地して土地台帳(Domesday Book)を作成し、中央集権の基礎を作った。□アルマ18-20、近藤43-5、池上16-7,19-21
・ウィリアム1世の死後は、3名の子の間で後継者争いが生じたが、最終的に末子ヘンリ(1世)が勝利して新たなイングランド王となった。ヘンリ1世(在位1100-1135年)はノルマンディを統治するためにイングランドを不在にしがちだったが、その中でも統治が実効されるように中央統治機構の整備や法典の充実に努めた。ヘンリ1世は司教任命権を主張して教皇と争ったが、最終的には妥協した。→《グレゴリウス改革》□アルマ20、池上23
・ヘンリ1世の死後は、諸侯の支持を得たスティーヴン(ヘンリ1世の甥=ウィリアム1世の孫)(在位1135-1154年)が戴冠した。しかし、ヘンリ1世から後継指名を受けていた娘マティルダが反発し、イングランドは20年近くにわたり内戦状態となった。□アルマ18-20、池上24
[プランタジネット朝の始まり]
・内戦の後、マティルダの息子であるアンジュ伯アンリとスティーヴンの間で協約が結ばれ、スティーヴンの死後の1154年、アンリがヘンリ2世(在位1154-1189年)としてイングランド王に就き、プランタジネット朝が始まった。ヘンリ2世は母方からイングランド王国を継承したが、父からノルマンディ公領とアンジュ伯領を、妃からアキテーヌ公領を継承した結果、北はスコットランド国境まで、南はピレネー山脈に及ぶ広大な領地を有する複合君主となった(この寄せ集めの領地は後世に「アンジュ帝国」と呼ばれる)。広大な領地を統治するへンリ2世は、自身の長期不在時に備えて、イングランド王国の統治機構の強化に努めた。この時代に裁判制度が国王中心のものとなり、地方領主や教会の裁判権は削減されていった。□アルマ20-1、近藤47-8、池上25-8
・ヘンリ2世の後のイングランド王にはその三男リチャード1世(在位1189-1199年)が就いた。リチャード1世(獅子心王)は、十字軍遠征や大陸所領の経営のため在位中の大半をイングランド国外で過ごした。その反面、地方のジェントリによる州や都市の自治が進んだ。□アルマ21-3、近藤50-1、池下34-5
・リチャード1世の死後、その弟ジョン(在位1199-1216年)がイングランド国王に就いた。これに対し、フランスのカペー王家はフランス国内外に及ぶ広大な「アンジュ帝国」の切り崩しを図り、フランス王フィリップ2世が上級領主権に基づいてノルマンディ公領を没収した。ノルマンディ公領を奪われたジョンは、イングランド王国の国王収入を増加すべく、過重な重税政策を実施した。さらにジョンは、大陸領を回復するために遠征を計画して軍役や軍役代納金を課した。□アルマ23-4
・ジョンの政策はイングランド北部諸侯を中心とする国内の反発を招き、王権と貴族との間の武力衝突に至った。ロンドンを押さえられたジョンは諸侯の要求を承認せざるを得なかった。これがラテン語で書かれたMagna Carta(1215年)である(※)。□アルマ24、池上37-9
※現在でも法的効力を有するのは、エドワード1世の元で確認された1297年版の一部である。このうちの29条は、1215年版を継承している。□初宿正典・辻村みよ子編『新解説世界憲法集〔第4版〕』[2017]p17〔以下の訳文も江島晶子〕
第1条(自由の確認):朕は、第一に、イングランド教会が自由であり、その権利および自由全体が不可侵であることを神に認め、朕および朕の相続人のために本憲章によって永久に確認する。朕は、朕および朕の相続人のために、以下に列挙された自由が、朕の王国のすべての自由市民およびその相続人に対して彼らおよびその相続人が永久に所有保持しつづけるものとして認め、与える。
第9条(ロンドンの自由):ロンドン市は、過去に有していたすべての古来からの自由と慣習を有する。さらに、朕は、他のすべての都市、バラ、町およびバロンの5港、その他の港もすべての自由および慣習を有することを望み、認める。
第29条(人身の自由と司法の適正):いかなる自由人も、同輩の合法的裁判、または国の法によらないかぎり、逮捕または監禁されたり、自由保有権、自由、自由な慣習を奪われたり、または法の保護を奪われたり、追放されたり、またはその他の方法で害されたりすることもなければ、朕が当人のもとに出向いていったり、糾弾したりすることはない。朕は誰にも司法または正義を売らず、何人に対してもこれを拒否したり遅延させたりしない。
・その後にジョンはマグナカルタの無効を宣言したため、再びイングランド国内は内乱に陥った。ジョンを継承したヘンリ3世(在位1216-1272年)も、大陸領の回復やヨーロッパ国際政治への介入へ関心を抱き、イングランド国内の政治を顧なかったため、1264年から1265年にかけてレスタ伯シモンを中心とした内乱が起きた。ヘンリ3世は捕えられ、一時的にシモンが実質的な支配者となったが、ヘンリ3世はシモン軍を倒して王権を復活させた。□アルマ24-5、池上50-2
・ヘンリ3世を継承したエドワード1世(在位1272-1307年)は、政治権力を掌握して王権の強化を図る一方で、貴族諸侯と協定を結んで彼らの権利を尊重していった。さらにエドワード1世は、諸侯を超えた幅広い支持を得るために必要に応じて議会を招集し、議会立法を活用した。この議会のうち庶民院は都市代表や騎士から構成されたため、従来の「国王-諸侯(主君-家臣)」という封建的主従関係に加えて、諸身分という水平的結合が生まれて統治へ参加することになった。以上を通じて、地方共同体の王国共同体という観念が発展していった。□アルマ25-7、池上60-1
[百年戦争]
・エドワード1世の死後、エドワード2世(在位1307-1327年)が新たな国王となって寵臣政治を行ったが、最後は王妃と対立して殺害された。□アルマ27
・1327年にエドワード2世の子エドワード3世(在位1327-1377年)が国王の座に就き、1330年から親政を開始した。他方で、当時のフランスはカペー朝最後の国王となったシャルル4世が1328年に死亡し、ヴァロワ朝が始まってフィリップ6世が王位にあった。エドワード3世は、母イザベルが亡シャルル4世の姉であったため、フィリップ6世に対してフランス王位を請求した(1340年にはフランス王として即位式を行った)。これを契機として、1337年からイングランドとフランスとの間で百年戦争が勃発した。□アルマ27、近藤61、池上62-3
・約116年にわたって続いた百年戦争の中では、両国ともペストの蔓延(1340年代後半)、大規模な農民反乱や民衆反乱が起きた(仏:1358年のジャクリーの反乱、英:1381年のワットタイラの乱)。□アルマ28、近藤65-6
・エドワード3世の後は孫のリチャード2世が継いだ(在位1377-1399年)。人頭税の徴収を巡ってイングランド史上初めての民衆反乱が起き、もっとも大きいのが1381年のワットタイラの乱だった。リチャード2世とワットタイラらとの面会が行われたが、タイラは斬首された。□近藤66-7、池上65-6
・1399年にリチャード2世の叔父ランカスタ公ジョン・オブ・ゴーントが亡くなり、リチャード2世はゴーントの領地を没収した。これに反発したゴーントの子ヘンリ・ボリングブルッグが反乱軍を組織し、イングランドは内戦状態になった。人望を失ったリチャード2世はロンドン塔に閉じ込められ、ヘンリがヘンリ4世(在位1399-1413年)として即位した。ここにランカスタ朝が始まるが、その正統性は微妙だった。□池上67
・ヘンリ4世が死亡し、その子ヘンリ5世(在位1413-1422年)がイングランド王を継ぐと、停戦状態だった百年戦争が再燃した。ヘンリ5世はノルマンディやアンジューなどの北フランスを取り戻した。さらにヘンリ5世は、フランス王(ヴァロア朝)のシャルル6世の娘と結婚した。□アルマ28、池上67
・ヘンリ5世の子ヘンリ6世(在位1422-1461年、1470-1471年)は、イングランドのみならずフランスの王位も継承した。反面、シャルル6世の子シャルルの勢力圏はロアール川南部のみとなり、ヴァロア家は滅亡の危機に瀕した。□アルマ28
・1428年、イングランド王軍がフランス中部の都市オルレアンを包囲した際、ジャンヌダルクが出現して形成が逆転した。その後の1431年、ヘンリ6世は、エドワード3世と同様に、フランス王位を主張してパリで戴冠した。ついに1453年、イングランド王はアキテーヌ地方を失い、フランス王シャルル7世(ヴァロア王家)が百年戦争に勝利した。□アルマ28、近藤61-2,63
・百年戦争に敗れたイングランドは、ドーヴァーの対岸にあるカレーを除いて大陸所領の全てを失った(最終的にカレーを1558年まで有した)。この結果、イングランド王国は大陸から切断された一個の島国国家となった。また、百年戦争を通じてイングランド人としての共通意識が形成されたほか、議会や法廷で使われる言語も英語に代わり、家庭でのフランス語教育も廃止された。□アルマ28-9、近藤64、池上68
[イングランド国内のばら戦争]
・百年戦争の終戦間際、ランカスタ家のヘンリ6世は精神障害をきたし、統治が困難となった。他方で、百年戦争の終戦直後(同年)にはヘンリ6世とマーガレットの間に王子が誕生したため、王位継承者だったヨーク公リチャードは危機を感じた。1455年、マーガレットを中心とするランカスタ家と、リチャードを中心とするヨーク家の間で、武力衝突(ばら戦争)が開始しイングランド王国を二分した。ランカスタ家(赤ばら)はエドワード3世(在位1327-1377年)の四男ジョン・オウ・ゴーントの系統であり、ヨーク家(白ばら)はエドワード3世の五男エドマンドの系統であった。□アルマ29、近藤64-5
・百年戦争に疲弊したイングランド国内の諸侯は、王領地の剰余や官職の配分を狙って、両家のいずれかに付いて熾烈に戦った。□アルマ29
・当時、騎士の流れを汲むジェントリが中央政界に進出しようとしていた。諸侯は野心的なジェントリを抱き込んで擬似封建制を形成していたため、ばら戦争にはジェントリ層も巻き込まれた。さらに百年戦争の終結に伴って大陸から帰国した将兵を諸侯が私兵として取り込んだ。□アルマ29-30
・1461年、リチャードの子エドワードがマーガレット一派をスコットランドに追いやり、ヘンリ6世を廃位した。エドワードはエドワード4世(在位1461-1470年、1471-1483年)として王位に就き、ヨーク朝を開いた。□アルマ30
・エドワード4世の登位後も混乱は続いた。1470年、マーガレットを中心とするランカスタ派は、エドワード4世を裏切ったヨーク派のウォリック伯と共謀してヘンリ6世の復位に成功した。□アルマ30
・ヘンリ6世の復活は長くは続かず、1471年、エドワード4世はヘンリ6世を処刑して王位に復帰した。□アルマ30
・1483年、エドワード4世が病死し、その子エドワード5世(在位1483年)が王位を継承した。これに対し、エドワード4世の弟グロスタ公リチャードは、ヨーク派内で王位継承資格のある者を全て粛清し、リチャード3世(1483-1485年)として王位に就いた。□アルマ30
・1485年、ランカスタ派の最後の王位継承資格者であるリッチモンド伯ヘンリ・チューダーは、亡命先の大陸からイングランドに戻った。チューダーはポズワースでリチャード3世の軍を破り、遂にばら戦争は終結した。チューダーはヘンリ7世(1485-1509年)として王位に就き、チューダー朝を開始した。□アルマ30-1
[補論:イングランドとウェールズ]
・イングランドの西方にあるウェールズ(Wales)には、先住民であるケルト人が多く居住していた。その語源は「Welsch=異邦人」であり、イングランド王国のアングロサクソン人にとってウェールズのケルト人は異邦人そのものだった。□アルマ32-3
・イングランド王国を征服したノルマン朝は、ウェールズとの境界地帯にウェールズ辺境諸侯を配した。
・イングランドの攻勢に刺激されてウェールズ人の糾合は進み、13世紀、ウェリン・アプ・グリフィズはウェールズ大公を自称した。1267年、イングランド王ヘンリ3世(在位1216-1272)もこれを承認したため、形式的にはイングランド王に臣従するウェールズ大公国が成立した。
・ヘンリ3世の後を継いだエドワード1世(在位1272-1307)の時代になると、イングランドとウェールズの関係は悪化した。エドワード1世がウェールズを制圧しようとしたのに対し、ウェールズ大公ルウェリンも対抗し、両者は衝突した。1276年から1277年にかけてエドワード1世は大規模な軍事遠征を行い、ルウェリンは一度はこれに屈した。1282年、ルウェリンは再び放棄したが、エドワード1世は速やかにこれを鎮圧し、ウェールズ大公国はイングランド王の直接支配下に置かれることとなった。□アルマ36
・1536年、トマス・クロムウェルの地方統治改革の一環として、ウェールズ合同法が成立しウェールズがイングランドに併合された。ウェールズは、本土と辺境の区別なく全体がイングランド法の適用対象となり、イングランド王国議会に議員を送る権利も与えられた。これら国制の大転換にウェールズ側からの抵抗はなかった。□アルマ49-50
[補論:イングランドとスコットランド]
・11世紀後半、ブリテン島北部の地域(カレドニア)では、統一国家であるスコットランド王国が成立した。その名称はアイルランドから渡来したスコット人にある。□アルマ34
・スコットランドでは、ノルマン征服でイングランドから逃れてきた女性を王妃に迎えたことを契機として、王権による国家・社会のイングランド化(アングロノルマン化)が緩やかに進められていった。□アルマ34-5
・ともに統一国家であるイングランドとスコットランドとの間では、国境地帯の所領をめぐって争いが絶えなかった。13世紀末、スコットランド王家の直径が断絶すると、イングランド王エドワード1世(在位1272-1307)はこれに漬け込んで、イングランドの傀儡となる新王を選出させた。これに反発するスコットランド諸侯は新王を突き上げて、スコットランドはフランスと同盟を結んだ。このスコットランドの動きに対し、エドワード1世はスコットランドへ遠征して、武力でスコットランドを支配下に置いた。□アルマ41-2
・1306年、スコットランドの王家の血筋を引くロバート1世が実力でスコットランドの王位に就いた。イングランドではエドワード1世からエドワード2世(在位1307-1327)へと代わっていたが、ロバート1世は、1314年にイングランド軍を破ってスコットランドの独立を取り戻した。さらにエドワード2世廃位後のイングランド国内の混乱に乗じて、ロバート1世はイングランドに侵攻し、エドワード3世(在位1327-1377)にスコットランドが独立王国であることを正式に承認させた。□アルマ42-3
・その後も、イングランドとスコットランドの対立は慢性的に続いた。また、スコットランドは統一国家であるとはいえ、王権が直接に及んだのは南部のロウランド地方に限定され、北部のハイランド地方や西部島嶼地方は、ゲーリック・アイルランドと連続したゲール文化圏を形成していた。□アルマ42-3
・イングランドとスコットランドは1603年に同君連合となった。1707年には遂に両者は合同し、グレイトブリテンとなった。→《イギリス17世紀政治史とホッブズとロック》□アルマ66,82
[補論:イングランドとアイルランド]
・アイルランド島にはケルト系ゲール人が居住し、例外的にローマ人の侵寇を受けなかった。政治的には4つの地方(アルスタ、レンスタ、マンスタ、コナハト)が形成され、統一権力が成立することはなかった。アイルランドでは早期にキリスト教が伝来し、修道院を中心とした独自のケルト教会が発展してきた。□アルマ33
・ローマ教皇ハドリアヌス4世は、教皇を頂点とする教階制度にアイルランドも組み込むことを企て、1154年、ヘンリ2世(在位1154-1189)へ教皇文書を送った。この教皇文書ではへンリ2世にアイルランド領有が認められ、ヘンリ2世はイングランド王とアイルランド太守(Lord of Ireland)を兼ねることになった。□アルマ39
・レンスタ地方で王位を追われたレンスタの王がヘンリ2世に助力を求めたことを契機として、1169年、イングランドによるアイルランドへの軍事遠征が行われた。圧倒的な軍事力でゲールの氏族勢力を駆逐したイングランドは、イングランド人を入植させていった。□アルマ39-40
・もっとも、ゲール氏族勢力も、アングロノルマンの軍事技術を取得し、スコットランドから流入した傭兵集団を抱えて軍閥化し、徐々に土地を奪回していった。イングランド王権も、百年戦争に代表されるように大陸への関心が強く、アイルランド統治は十分でなかった。中世末期には、イングランド系(アングロノルマン)の子孫である領主が支配する地域(イングリッシュ・アイルランド)と、ゲール系有力氏族が支配する地域(ゲーリック・アイルランド)はほぼ拮抗していた。15世紀末、イングランドは、イングランド系大貴族であるアイルランド総督を通じて、「ペイル」と呼ばれたダブリン周辺の地域だけを直接支配するにとどまった。□アルマ40-1
・その後、アイルランド総督職はキルデア伯家が世襲するようになり、ペイル内では国王の代理として、ペイル外では権門として君臨した。1530年代、クロムウェルがアイルランドへも統制を及ぼそうとし、キルデア伯家はこれに反発したが、イングランド軍に鎮圧されて没落した。□アルマ56-7
・チューダー朝は「ゲール文化の否定」「ペイル外の軍閥の解体」を目指したが、アイルランド各地での反乱を招いた。1603年、イングランド軍はようやくアイルランドの反乱を鎮圧した。□アルマ57-9
・名誉革命後、事実上、アイルランドはグレイトブリテンの植民地となっており、プロテスタントのイングランド人が地主として支配していた。アメリカ独立はアイルランド人のナショナリズムを高揚させ、1780年代、アイルランド議会は事実上の自治権を獲得した。□アルマ97
川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史』(有斐閣アルマ)[2000]
近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書)[2013]
池上俊一『王様でたどるイギリス史』(岩波ジュニア新書)[2017]