京都大学の山中伸弥教授がノーベル医学・生理学賞を受賞した。
 受賞の第一報がもたらされた10月の9日以来、テレビの情報番組はノーベル賞一色になっている。

 出稿量がいかにも多すぎる気はするが、その点について、私は、特に大声で苦情を述べようとは思っていない。

 久々のグッドニュースだ。現場が騒ぎたくなる気持ちは理解できる。それに、ご祝儀報道が多少過剰になったからといって、誰が傷つくというものでもない。いじめ自殺の隣近所をつつき回したり、国境紛争に関連してくすぶっている国民感情を煽りにかかるテの報道に比べれば、同じメディアスクラムでも、ずっと害は少ない。

 ただ、気になるのは、配信されてくる映像の内容が、時間を経るにつれて、受賞者周辺のプライバシーを晒す覗き見趣味に偏してきている点だ。

 独自ネタを追求する中で、各局とも、賞や研究そのものとは縁の薄い「人間的な」部分の取材に重心を移しつつある。
 これは、画面のこちら側から見ていて、気持ちの悪い変化だ。

 どうして、ご本人があえて表に出していない部分について、放っておいてさしあげることができないのか。いつも思うことだが、有名人だからといって、誰もが私生活を売りに出しているわけではない。「公人」に相応の責任があるのだとしても、その範囲にはおのずと限界があるはずだ。

 誰もがお調子者の同級生の放言を笑って受け止められるわけではないし、古い同僚の中にはウソつきだって混じっている。そもそも裏を取っていないエピソードは、まるっきりの捏造かもしれない。そう思えば、いくらめでたい席の話とはいえ、明らかにして良いこととそうでないことの区別は、当然、あってしかるべきではないか。

 今回受賞した山中教授は、魅力的な人だ。
 ふつうに話を聞けば、それだけで番組になる。
 奇をてらう必要はない。

 奇人ぶりを演出しなくても、十分にキャラは立っているし、キャスター主導で愛妻物語を紡ぎにかからなくても、並んでしゃべっている姿を見れば、大方のところは見当がつく。
 目に見える部分から見える以上のところに踏み込んだ取材は、悪趣味だ。
 
 が、取材陣はあくまでも話を引き出しにかかる。
 研究の過程にはどんな挫折があり、博士ご本人にはどんな弱点があったのか。家庭では、奥様に対してどのような態度で語りかけているのか。聞き手の記者たちは、質問を重ねながら、優秀な山中教授をなんとかして「凡人」の境地にひきずりおろそうとしているように見える。

 そうなのである。昨今の、「偉人」の扱いを見ていて、私がいつも疑問に感じるのは、テレビや雑誌のクルーが、あらかじめ、頂点にいる人々の弱点や挫折をクローズアップする意図で話を聞こうとしているように見える点なのだ。

 おそらく、悪気があってのことではない。
 彼らは、ただ、「キャラクター」を引き立たせようとしているだけなのだと思う。

 が、なぜなのか、21世紀的な「人となり」報道においては、「弱点」や「なさけなさ」の描写から説き起こす語り口が定型になっている。それゆえ、取材陣は、人物譚の定型にハメこむ材料を揃えるべく、まず「弱点」の収集にとりかかる次第なのだ。

 20世紀の半ばに人格形成を終えた人間である私は、彼らの「定型」の作り方になじむことができない。
 立派な業績をあげた人はとりあえず持ち上げておくのが礼儀じゃないのか、と、どうしてもそう思ってしまう。

 が、21世紀のメディアは、相手が偉い人であればあるほど、その人格の中に「人間的な」弱点なり凡庸さなりを見つけようとする。弱さや欠点が「人間的」であることに異論は無い。が、他人の弱さを見て安心する人間らしさについて、われわれはもう少したしなみを持つべきではないのだろうか。

 山中教授が、臨床医だった時代、その手際の悪さから、同僚の間で「ジャマナカ」と呼ばれていた。
 というこの話を、私は、10月9日以来、既に、10回ぐらい聞いた。
 エピソードは、おそらく事実なのだろうし、それはそれで面白い話だとも思う。
 でも、そんなに強調せねばならない話なのだろうか。

 臨床医としての挫折や、研究の初期に訪れた迷いや諦念の話も、なるほど味わい深い挿話ではある。
 が、この手の本人による謙遜含みの話を、そのままクローズアップして物語化するのはどういうものなのだろう。

 私は失礼だと思う。
 偉い人は偉い人で良いではないか。

 たしかに、一本調子で成功する人間は少ない。というよりも、そんな人間は、たぶん存在しない。
 そういう意味では、どんな成功者にも必ず挫折はあったはずだし、勝利者にも弱点は当然残されている。そう考えるのが自然だ。

 ただ、私の目から見て、少なくとも、昨今のノーベル賞受賞者についての「人柄」紹介の報道ぶりは、あまりにも「凡人」に寄りすぎている。
 どうして彼らをそれほどに凡庸な人として紹介したがるのか。私は、しばらく見ているうちに、自分が笑われているみたいな気持ちになる。

 私が子供だった時代、ノーベル賞受賞者は、「偉人」というカテゴリーに分類される人間像だった。

 事実、当時、日本人として唯一のノーベル賞受賞者であった湯川秀樹博士の名前は、シュバイツァー、野口英世、リンカーン、キュリー夫人……といった名前と一緒に、学校の図書室の「偉人伝」の棚に並んでいた。

 あの時代の「偉人伝」の作られ方にも、一定のパターンがあったのは事実だ。
 その「聖人君子」としての「偉人」の造形もまた、本人の生身の人格とは、かなりかけ離れたものだったはずだ。

 たとえば、野口英世博士については、後年、それまでの「通説」とはまったく違う立場から書かれた評伝が発表されて評判になっている。

 私も読んだ。
 業績は業績として、評伝の中で描かれていた野口の放蕩や、野放図な借財ぶりにはずいぶんと驚かされ、ショックを受けた。なるほど、わたくしども昭和の子供たちは、「偉人」の人物像に関して、かなりバイアスのかかった情報を信じこまされていたようだ。そういう意味では、われわれは騙されていた。後の世の研究者によって、古い時代の伝記作家がオミットしていた部分に光が当てられたのは、してみると、意義深い仕事だったのであろう。

 ある時代までの「伝記」は、はじめから対象を「偉人」として描写することを決定した上で執筆されていた。
 つまり、「偉人」という人物像は、多分に、ハリボテだったということだ。

この記事は会員登録(無料)で続きをご覧いただけます
残り4503文字 / 全文文字

【初割・2カ月無料】お申し込みで…

  • 専門記者によるオリジナルコンテンツが読み放題
  • 著名経営者や有識者による動画、ウェビナーが見放題
  • 日経ビジネス最新号12年分のバックナンバーが読み放題