「良い死」で死にたい
ウェブに存在する自殺サイトからインスピレーションを受けたという冲方丁のミステリー『十二人の死にたい子どもたち』(文春文庫、2018年)が、堤幸彦監督で映画化される(今年1月25日公開)。
12人の死にたい中高生たちが自殺サイトを通じた「集い」をするため廃病院で待ち合わせ、睡眠薬で眠りながらの練炭による一酸化炭素中毒で集団自殺を計画するという設定だ。
そこで、子どもたちが発見したのは13人目の「生あたたかい死体」。廃病院内に殺人者がいるのか、それとも自殺志願者のなかに隠れているのか、とサスペンスは密室ゲームのように進行していく。
近年ブレイクした若手俳優が数多く(つまり13人キャスト)出演するのでメディアでも話題になっている映画だ。
わたしが宣伝文句を見て気になったのは、ここでの集団自殺計画が「安楽死」という言葉で表現されていたことだ。
安楽死「先進国」オランダやベルギーで現在、未成年の安楽死が議論されている事実はあるものの、そこに目が行くのは医師としての職業病の一種だろう。
かつて医療の界隈で安楽死といえば、不治の病による耐えがたい苦痛をなくすために医師が患者に対して行う生命短縮の行為を意味していた。
だが、その意味での安楽死を求めているのは、このミステリーに登場する12(13)人のうち入院して闘病している1人だけで、残り12人の死にたい理由はてんでばらばらだ。
だからフィクションでは安楽死が不正確に扱われていると野暮な指摘をするつもりではない。むしろ、現代社会での「死にたい理由」や「安楽死にあこがれる気分」が、そこには現れていると思えるのだ。
「安楽死」という語は、日本語だと「安楽な死」となるが、もともとギリシャ語で「良い死」を意味するEuthanasiaの訳語だ。
だから、「良さ」とは何かをそれぞれが自分の価値観で判断する個人主義の現代社会では、安楽死の意味が拡散してしまうのは当然だ。
いっぽう、自分自身の価値観といっても、健康な人たちの一般的な価値観に流されたり、周囲の介護負担を忖度したり、十分な介護医療費の蓄えがないので諦めたり、もあり得る。
多くの問題点を含みつつ、いま世界では「死の自己決定」がさまざまな形で受け入れられつつあり、人びとがいかにして自分の死を迎えるかについての考え方やその理想像が大きく変化しつつある。