徳川宗春
徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、江戸時代中期の大名。梁川藩第4代当主(当時は通春。御連枝である大窪(大久保)[注釈 1]松平家当主)、のち名古屋藩第7代藩主(尾張徳川家第7代当主)。
徳川宗春(中央)を描いたとされる絵 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元禄9年10月28日(1696年11月22日)[1] |
死没 | 明和元年10月8日(1764年11月1日)[1] |
改名 | 萬五郎、松平通春、徳川通春、徳川宗春 |
別名 | 求馬(通称) |
諡号 | 逞公 |
神号 | 孚式山王権現(日吉山王権現) |
戒名 | 章善院殿厚譽孚式源逞大居士 |
墓所 | 徳興山建中寺 → 平和公園 |
官位 |
従五位下・主計頭、従四位下、侍従 左近衛権少将、従三位・左近衛権中将 参議、権中納言、贈従二位・権大納言 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 中御門天皇→桜町天皇→徳川吉宗 |
藩 | 陸奥国梁川藩主→尾張国名古屋藩主 |
氏族 | 尾張徳川家→大窪松平家→尾張徳川家 |
父母 |
父:徳川綱誠、母:梅津(宣揚院) 養父:徳川継友 |
兄弟 | 吉通、継友、松平義孝、松平通温、宗春、松姫(前田吉徳室・徳川綱吉養女) |
妻 |
正室:なし 側室:海津、民部、伊予、左近、おはる、阿薫 |
子 | 富・補誦・八千・頼姫(勝子・傅・須亭:近衛内前室)・國丸(萬五郎)・八百・以津・龍千代・近姫(養女:上杉宗房室:実父は梁川藩第2代松平義方) |
特記 事項 | 著述「温知政要」次当主、徳川宗勝 |
名古屋藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策の8代将軍・徳川吉宗とよく対比される[注釈 2]が、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、名古屋藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。
歴代藩主と同様、名古屋藩主就任後に吉宗から「宗」の偏諱を授かって「宗春」と改名した(後述)。改名前の諱は兄・徳川吉通の「通」の字を得て通春。
生涯
編集出典:[3]
出生
編集元禄9年10月28日(1696年11月22日)、名古屋藩第3代藩主・徳川綱誠の二十男[注釈 3]として名古屋で生まれ、萬五郎と名付けられる。母は側室の梅津(宣揚院、遠州掛川横須賀浪人三浦太次兵衛嘉重[注釈 4]の長女)。元禄11年(1698年)に祖母の千代姫、翌元禄12年(1699年)に父の綱誠、元禄13年(1700年)に祖父の徳川光友が相次いで没した。
宝永5年(1708年)11月、兄で第4代藩主の吉通より偏諱を受け、諱を通春とする。吉通は奥で夕餉を摂る際には宗春と共に食事をしたほど、末弟の宗春を可愛がった[4]。正徳2年(1712年)、兄・通顕(のちの徳川継友)、通温は江戸に下向し従四位下に叙任され、譜代衆となるが、宗春は名古屋に残されたままとなる。
宝永6年(1709年)3月、久留米藩主・有馬則維から、名古屋藩御連枝筆頭の高須藩主・松平義行宛に、万五郎を仮養子に迎え、そののち正式な養子にしたいという申し出があった。しかしこの話はたち消えている[注釈 5]。
正徳3年(1713年)4月に江戸へ移り、星野藤馬を小姓とする。閏5月、江戸に下向した際に同道した名古屋藩士2人が吐血頓死・割腹自害する事件が起きる。同月に名古屋藩御連枝の梁川藩主・松平義昌が逝去し、7月には兄・吉通が薨去する。さらに10月には、甥で吉通の跡を継いだ5代藩主・五郎太が逝去し、兄・通顕が継友と改名して6代藩主となる。12月に元服し、求馬通春と名乗る(通称を「求馬」に改めた)[注釈 6]。正徳6年(1716年)2月に7代将軍・徳川家継に御目見し、3月に譜代衆となり松平求馬通春を名乗る。同年改元後、享保元年(1716年)7月に8代将軍・徳川吉宗当時の幕府の奏請により従五位下主計頭に叙任される。
享保3年(1718年)4月、疱瘡に罹るが、まもなく回復する。同月、兄・通温が名古屋城下に蟄居謹慎となる。12月、従四位下に叙任する。吉宗から特別に鷹狩の獲物を数度賜り、吉宗お気に入りの譜代衆と共に紅葉山東照宮の予参を命じられるなど、御家門衆として吉宗に大切にされる。享保13年(1728年)、実母の宣揚院を見舞うため名古屋へ下向する。
梁川藩主
編集享保14年(1729年)6月、尾張藩連枝で梁川藩第三代藩主の松平義真が没し、梁川藩大窪松平家が無嗣断絶となった。8月に将軍吉宗の肝煎りで梁川藩3万石を改めて与えられ、大窪松平家は再興された。上杉氏統治時代の梁川城は既に破却され梁川陣屋となっていたが、12月に従四位下侍従に任官され、国主扱いの大広間詰めとなった。
梁川藩は初代の松平義昌が高年貢を課し新たに課役を設けるなどした。さらに二代の松平義方は父の代以上に年貢率を引き上げ、新税を設置して重税を強いるなど、領民からの収奪を強化していた[6]。通春は藩主に就任したものの梁川に赴くことは無かった。享保年間は天候が悪く不作が続いたため、困窮し不満の高まった農民は一揆を起こし、代官所に訴え出た。通春は江戸に居たが、代官が一揆を鎮圧したあとで、領民の要望を受け入れて備蓄の種籾を放出した。これにより来る享保の大飢饉では、梁川藩領内では餓死者が出なかったとされる。
名古屋藩主
編集享保15年(1730年)9月、日光社参。11月27日に兄・継友が没し、翌日継友の遺言ということで尾張家を相続し、第7代当主徳川通春となる[注釈 7]。享保16年(1731年)正月、公儀の法度・代々の法規を守るべきこと・藩邸内での歌舞音曲の許可・夜の外出の許可・本寿院の蟄居を解く令を出す。同月に正四位下左近衛権少将に叙任する。続けて従三位左近衛権中将に叙任する。将軍・吉宗より偏諱を授かり、徳川宗春を名乗る。3月、従三位参議(宰相)・左近衛権中将に叙任する。同月、政治宣言の著述『温知政要』を著す。同年4月、名古屋城へ入る。名古屋入府の際の宗春一行は、華麗な衣装を纏い、また自身も鼈甲製の唐人笠と足袋まで黒尽くめの衣装(金縁・内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたという。
宗春は名古屋に戻ると、4代藩主吉通の御簾中・瑞祥院(九条輔子)の実家の九条家に3千両を寄付し、朝廷との関係を大切にした。名古屋城下では、東照宮祭・尾張祇園祭(若宮祭・三之丸天王祭)・1ヶ月半にも及ぶ盆踊り等の祭りを奨励した。また、女性や子供が夜でも歩ける町にするために、提灯を城下に数多く置いた。継友時代に廃れていた御下屋敷(名古屋城下、藩主の隠居所)を建て直し、そのお披露目の際に城下の女性と子供を呼んで踊りの大会を丸2日間行わせ、その際に奉行以上の重職たちにも閲覧させている[注釈 8]。藩士に城下の芝居などの見物も許可した。
当時の幕府は享保の改革を推進する将軍・吉宗のもと、老中・松平乗邑の主導で質素倹約規制強化が徹底しており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていた。それと全く逆を行く宗春は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていく。緊縮財政・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和(消費奨励ではない)の名古屋藩となっていった。ただし規制緩和のみではなく、神社仏閣への公式参拝には束帯騎馬の正装で赴き、幕府の法令も先回りするなど、宗春は幕府に対立する姿勢は全く見せていない。むしろ幕府の法令を遵守するように命じて、大切な形式はしっかりと守っている。一方、巡視などでは朝鮮通信使の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たり、民衆が喜ぶ服装を工夫した。名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、商人たちに受け入れられ、名古屋の町は賑わっていった。
享保17年(1732年)正月、自身の著書『温知政要』(21箇条)を藩士に配布した。3月には『條々二十一箇條』を発布した。その中で「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げた。これらの政策には、質素倹約を基本方針とする幕府の享保の改革による緊縮政策が経済停滞を生み、蝗害による不作も重なり、各地で暴動が頻発していたことへの反発があると言われている。なお、幕府の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけである。
この結果、継友時代の倹約令で停滞していた名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。また宗春の治世の間、名古屋藩では一人の死刑も行われなかった。宗春は、犯罪者を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町造りを目指し、藩士による表立った巡回をさせている(密偵は使わなかった)。また犯罪者が増えると、死刑ではなく別の処分(髪や眉毛などを剃る等)も行われた[注釈 9]。さらに、心中しようとした者を、野ざらしの刑にはしたが、結果的には夫婦として普通に生活することを許可した(闇森心中事件:当時の幕府の令では「心中未遂の場合は非人あるいは死罪」)。岐阜への巡視[注釈 10]では奴振りをさせ、知多への巡視では徒歩で移動するなど、当時としては斬新な行動をいくつも行なっている。こうしたことで、当時としては珍しく、生存中の大名が浄瑠璃や歌舞伎の題材となった。
享保17年(1732年)には参勤交代で江戸へ下る。先代継友時代、享保10年(1725年)に火事で焼失した江戸上屋敷市谷邸が新築再建され、嫡子の萬五郎と共に中屋敷麹町邸から移る。5月5日、徳川家康から藩祖・徳川義直が拝領した幟旗並びに嫡男・萬五郎の武者飾りを見てもらうために、市谷邸を江戸町民に開放した。これは新築された市谷邸の披露も含まれている。通説ではその後、5月または9月に吉宗から使者を介して詰問されたといわれる。その内容は、
というものだった。これに対し宗春も、一応上意として受けるも、
- 他の大名のように国元で遊興にふけり、江戸では倹約するという表裏ある行動は取れない。第一、領民に迷惑をかけていない
- 初節句の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ、家康から拝領した幟まで飾ったのがけしからぬと言うが、そのような禁令はいつ出たのか
- お上は倹約令を守っていないと言うが、私なりに倹約に努めているつもりだ。ただお上は倹約の根本をご存じないので、おわかりにならないのだろう
と一歩も引かず反論した、と通説では言われる[注釈 11]。
宗春は、規制緩和による経済の活性化を図るものの、名古屋藩の財政は赤字に転じたと通説では言われる[注釈 12]。享保18年(1733年)12月、宗春は尾張瀬戸水野山から木曽の山々に至るまでの2万人規模の巻き狩りを計画するが、家臣の反対で中止する。家臣は規模を縮小するように宗春に薦めたが、宗春は頑なに2万人規模を主張し、結果的には巻狩を断念する[注釈 13]。享保20年(1735年)3月、江戸在番の藩士に遊興博打を禁じる令を出す[注釈 14]。9月、宗春が名古屋にいるときに嫡男の国丸(萬五郎)が江戸藩邸で逝去する。この年、吉宗より拝領した朝鮮人参の栽培を御下屋敷で始める。 元文元年(享保21年・1736年)、3ヶ所の遊里を、もっとも高級な西小路遊郭の1ヶ所に集め、芝居小屋も新規は取り払うべしの命を出し、規制緩和政策を後退させる[注釈 15]。
隠居謹慎
編集享保年間の後期から元文当時の幕府は、朝廷と対立しつつあった。朝廷内では親幕府派の近衛家と、反幕府の霊元法皇が激しく対立していた。近衛家熙が薨去した後は、桜町天皇側近で霊元法皇の強い影響下にあった一条兼香を中心に朝廷は動き始めていた。
幕府は、水戸藩から上程された『大日本史』の出版許可を朝廷に求めた際に、有職故実の大家でもあった霊元法皇門下の一条兼香(当時大納言)に裁可を仰いだ。10年間放っておかれたが、再度許可願を出した。南北朝問題があり、一条兼香(当時は右大臣)は不許可とする。ところが、幕府は朝廷の許可を得ないまま、その3年後に『大日本史』を出版をしてしまい、朝廷と幕府の間は緊張関係に陥った。名古屋藩は代々朝廷と深いつながり(五摂家の九条家[注釈 16]・近衛家[注釈 17]・清華家の広幡家[注釈 18]・羽林家の正親町家[注釈 19]と縁戚)を持っていた。
当時の幕府の緊縮規制強化の経済政策は、蝗害などにより失敗しており、一方で宗春の規制緩和の経済政策は大成功を収めていた。さらに宗春は、遊興禁止令等、幕府の政策を先取りして名古屋藩で徹底させていった。こうした先手を打つ宗春によって幕府の威信が揺らぐと判断していた幕閣と、名古屋藩を持ち上げる朝廷との間で、宗春と名古屋藩は徐々に政略的に板挟みとなる。
そのような状況で、実弟の石河政朝が幕府中枢にいた御附家老・竹腰正武をはじめとする国元の藩重臣は、宗春の失脚を画策する。竹腰正武は吉宗と計画したと言われるが[7]、実際は吉宗本人ではなく、老中・松平乗邑との連携であった。宗春に引き続き、もう一人の御附家老・成瀬正泰(当時は正太)が参勤交代で江戸に移った直後の元文3年6月9日(1738年7月25日)、竹腰正武たちが尾張領内で実権を奪い、宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし、宗春藩主就任前の状態に戻すとの宣言を発した。そのために名古屋藩領は混乱を起こしてしまう。
この混乱に対し、宗春は琉球畳の祈祷所を建設し、毎日祈りを捧げたという[注釈 20]。元文4年(1739年)正月過ぎから、将軍吉宗は恒例の行事を代理に任せて奥に引き篭ってしまう[注釈 21]。
そして正月11日(1739年2月18日)、名古屋藩の家老たちが江戸城に呼び出され、松平乗邑から蟄居謹慎の内命を受ける。翌12日に吉宗からの隠居謹慎命令が広島藩主・浅野吉長(宗春の従兄)、水戸藩御連枝守山藩主・松平頼貞(宗春の異母兄松平義孝の娘の茂登姫は頼貞嫡男松平頼寛正妻)、同じく水戸藩御連枝常陸府中藩主・松平頼幸により伝えられ、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に、そして名古屋城三の丸の屋敷に隠居謹慎させられる[注釈 22]。
膨大な財政赤字
編集6代継友の時期である享保3年(1718年)の収支は、金部門では収入11万9041両、支出10万5662両で差引1万3379両の剰余、米部門では収入13万970石、支出11万3741石で差引7229石の剰余があり、これを同年の米価1石=金2両で換算すると、総差引2万7837両の黒字となっていた。米部門の収入項日は年貢米越小物成・三升口米などの付加税で、支出項目は江戸下米や家中扶持米など。また、金部門の主要な収入項目は年貢金・三役銀(夫銀、堤.役銀、伝馬銀)などで、支出項目は江戸費用や諸役所経費・尾張家一族の入用・家臣団の扶持などであった。享保13年(1728年)も総差引2万8167両の黒字を計上していた。
だが、宗春が藩主を継いだ享保16年(1731年)は総差引2万7064両の赤字に転じ、隠居前年の元文3年(1738年)には、金7万4607両・米3万6489石余という巨額の累積赤字を出し総差引14万7585両の赤字となった。赤字補填のために領民に多額の借上金を命じて庶民の暮らしを圧迫することになった。
これを継いだ8代藩主・徳川宗勝は倹約を続けた結果、延享4年(1747年)までに、金部門では2万8288両が不足するものの、米部門は11万4779石の剰余となり、総差引では1万3612両の黒字に転じることに成功した[10]。
隠居謹慎後の宗春
編集宗春は隠居謹慎後、父母の墓参りも含め、外出は一切許されなかったと言われているが、実際にはそのような粗略な扱いなどされていない。名古屋藩の祈禱寺興正寺にも参拝記録が残っており、「父母の墓参りも許されなかった」というのも文献上確認できない。後に菩提寺である建中寺へ参拝し、その時、市中の人々が提灯を軒先にならべて参拝を迎えた、という記録も残っている。
御連枝美濃高須藩主の松平義淳が徳川宗勝として後継となったが[注釈 23]、宗春の養子という形式ではなく、名古屋藩は幕府が一旦召し上げた上で改めて宗勝に下した。宗春は「尾張前黄門(前中納言)」と呼ばれるようになる。宗春の子供は8人のうち7人までもが、宗春の尾張在府中に江戸で亡くなっていた。
宗春の蟄居謹慎は6代藩主継友の実母・泉光院の三之丸の屋敷であり、時には藩主・宗勝より貴重な品々の贈り物があり、悠々自適の生活を送れていた。また、将軍・吉宗が使者を遣わし、宗春の蟄居謹慎に「不足しているものはないか」「鷹狩や魚捕りが出来ずに気鬱にならないか」と、かなり気を遣って気色伺いをしたという記録もある[11]。
宝暦元年(1751年)、吉宗が薨去する。宝暦4年(1754年)、御下屋敷(7万5千坪もある名古屋藩歴代藩主の隠居所)へ移る。尾張徳川家菩提寺の建中寺への参拝、名古屋藩の祈願所である八事山興正寺への参拝が許される。蟄居後の宗春は、茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして、悠々自適の生活を送ったという。側室のいづみ(宝泉院:京出身、猪飼氏)と、おはる(貞幹院:元吉原太夫春日野、名古屋藩士鈴木庄兵衛の娘)は最後まで宗春に寄り添った。
明和元年10月8日(1764年11月1日)死去。享年69(満67歳没)。宗春の死によって徳川綱誠以来の男系の血筋は断絶した。
宗春が隠居してからの幕府と名古屋
編集宗春が隠居謹慎し、宗勝が8代藩主となると名古屋は、宗春の残した莫大な負債を返済すべく、6代藩主・継友の時代の法令が復活し、質素倹約が奨励される。そのため、名古屋城下の賑わいは火が消えたようになったとされている[注釈 24]。
宗春が隠居して15年が経った頃、城下の商人であった小刀屋藤左衛門こと木全雅直が宗春の恩赦を願い出たがこの行動は罪に問われ、篠島に島流しとなった。その後も、歴代の名古屋藩家老成瀬家(犬山城主)の当主なども幕府に宗春の恩赦を願い出ていた。また、宗春が隠居後初めて菩提寺の建中寺に先祖の墓参りに出たのは、宗春隠居後26年後の宝暦11年のことであったが、尾張の町内の者たちは宗春のために提灯を並び立てた。
延享2年(1745年)、吉宗は隠居して大御所となり、嫡男の徳川家重が将軍に就く。吉宗の治世後半の幕政を主導し、宗春を謹慎に追い込んでいった松平乗邑は、老中を罷免された[注釈 25]。家重は御側御用人として大岡忠光と田沼意次を重用し、それまでの質素倹約による財政緊縮政策が徐々に転換していった[注釈 26]。
宝暦10年(1760年)、10代将軍・徳川家治が就任する。家治の時代には、幕府の政策は田沼意次が主導し、重商主義政策へと転換していった。名古屋藩では、9代将軍・家重と同年同月の宝暦11年6月に、8代藩主・宗勝が薨去する。そして、9代藩主・徳川宗睦が就くと、名古屋は宗春時代の賑わいを徐々に取り戻していく。宗睦は、名古屋藩中興の祖とまで呼ばれるようになる[注釈 27]。
隠居後も宗春は、将軍吉宗から拝領した朝鮮人参を下屋敷で大切に育てていたが、のち宗睦は宗春が育ててきた薬草園を用いて、名古屋の医学を大いに発展させる[注釈 28]。
10代藩主の徳川斉朝は一橋徳川家から養子に入るが、斉朝の母方は二条家出身であり、九条家を通して4代藩主・吉通の血が流れていた。その斉朝は、宗春を祀る山王社を御下屋敷内に創建。通称孚式権現(孚式は宗春の戒名)と呼ばれ、主祭神は宗春、相伝には徳川家康、徳川義直であった。明治維新に至るまで、毎年使者が出たお祭りが行われてきた。宗春没後75年の天保10年(1839年)、11代将軍・徳川家斉の十二男である斉荘が12代藩主に就任する際、宗春の名誉が回復されて従二位権大納言を贈られ、歴代藩主に列せられる[注釈 29]。14代藩主・徳川慶恕(慶勝)は、御下屋敷の薬草園跡に精林庵(現:名古屋市東区、浄土宗無量寿院)を江戸の下屋敷戸山邸より移して、宗春の菩提を弔った[注釈 30]。
墓石と遺骸・墓石修復など
編集宗春の死後、遺体は建中寺に埋葬された。土葬だったため、明治期の発掘調査ではミイラ化した状態で見つかり、経帷子や守り刀の木刀も残っていた。
昭和20年(1945年)に名古屋市が空襲を受けた際、焼夷弾の直撃を受けて墓石の一部が損傷した。名古屋藩主代々の墓石は、修復が困難な鵜沼石[注釈 31]が用いられており、しばらく損傷した状態であった。戦後、名古屋市の復興都市計画に伴い、市内の墓が千種区の平和公園に移転し、宗春の墓も移されるとともに遺骸は火葬された。なお、副葬品などは建中寺に納められている。
宗春の特異な政策
編集- 宗春の政策でからくり人形を操作するロボット操作技術の徳川家康神社祭りが盛大に実施されて、名古屋の花火打ち上げ祭りの祭り行事が盛んな祭り文化社会になった。陶芸産業や毛織物産業など地場産業が保護されて日本国内他国への販売先が増加した。[13]
- 尾張藩独自の褒美賞金制度の導入で名古屋祭りや津島神社の尾張津島天王祭りで褒美賞金制度を創設した。[14]
- 宗春は大須観音など名古屋寺院仏教保護や豪華な大規模施設の歌舞伎稽古の舞台が魅力で沢山の歌舞伎役者を名古屋に誘致するなど名古屋和風文化都市の尾張名古屋の基礎となる産業政策を実施した。宗春は遊芸や音曲や鳴り物などの名古屋和風文化を奨励した。江戸吉原規模となる西小路及び富士見ヶ原と葛町の名古屋三大遊郭が誕生した。大須観音本堂の歌舞伎や狂言大芝居の楽屋や井戸を設置した大舞台であった。名古屋大規模で豪華な歌舞伎舞台を造営及び歌舞伎施設を建設して、江戸や大阪及び京都上方の歌舞伎役者を誘致して名古屋企業の御園座で有名な名古屋歌舞伎芸能文化を築いた。芝居の数が享保15年の2本から享保16年の30本で享保18年に100本に増加した。江戸芝居や上方芝居などの各地の文化流入で人形浄瑠璃が発展して、名古屋に芝居小屋が建設されて、7つの寺院に芝居小屋が新設された。陶器産業及び木綿の周辺地域への市場の拡大化と重商主義政策で農産物が高品質となった。尾張藩内の農産物の生産種類が倍増した。大都市名古屋が誕生して5万人から7万人以上増加する12万人以上の大都市へ名古屋の人口が増加した。[15]
- 形式よりも中身を大切にした(例:仁・「まこと」を重視する 温知政要・條々二十一箇条 等)
- 祭事産業政策で東照宮祭の新しい山車や新しいからくり人形が製造されて山車製造産業とからくり人形製造産業を盛んにした。名古屋東照宮祭りなど意味のある祭りを盛んにし、奨励した(例:東照宮祭・名古屋祇園祭(天王)・盆踊り 等)
- 男女倫理に反する祭りや人道に反する祭りは禁止した(例:梁川の正月の水掛け、国府宮の裸祭厄男 等)
- 男女が奪い合うことや義に反する義に合わぬことを禁止した(例:條々二十一箇条 等)
- 自分の身にあった遊びは大切であるとした(例:遊廓・芝居・見世物 等)
- 余計な法律を削除して必要な法律のみとした。必要な仏教行為か義の心で吟味して、法律や規制は少ないほうが良いとした(例:規制緩和 温知政要・條々二十一箇条 等)
- 簡単なミスの訴状等の書類を差し戻さず受け入れるように指示した(例:條々二十一箇条 等)
- 衣服・家・持ち物等は禁制のある物以外は自由にした(例:條々二十一箇条 等)
- 風俗文化政策として歌舞伎役者風の派手な衣装行列で民間風俗文化を明るくした。徳川宗春は赤色の着物に亀甲笠を帽子として使用して白い牛を移動に使用した。名古屋に存在しなかった風俗施設の遊郭を3か所作った。ファッションリーダーを自ら担った(例:申楽(能・狂言)・歌舞伎・朝鮮通信使等の衣装 等)
- 心を込めた贈答・饗応を大切にした(例:條々二十一箇条 等)
- 庶民と上級藩士が出会う場を提供した(例:御下屋敷や市谷邸のお披露目 等)
- 商人との対話を積極的にした(例:岐阜巡行・乾御殿や御下屋敷滞在時)
- 六斎市の奨励(歴代藩主の中で、許可した例が突出して多い)
- 庶民が喜ぶことをした(例:奴振り・白牛・漆黒の馬と衣装・派手な衣装)
- 社会的な弱者を大切にした。宗春の尾張藩主だった時代の死刑廃止政策や厳しい処罰警察組織を否定する仏教愛思想で領民から釈迦如来の生まれ変わりと呼ばれていた。派手な仏教愛殿様として人気があった。(例:女性・子ども・身分の低い者の保護)
- 愛知県民への遺産として、町人によるロボット技術のからくり人形の山車保有数日本一の愛知県にした。[16]尾張藩内の毛織物従事者を増加させて名古屋の人口を5万人から2倍以上にして、町人の人口を3倍から4倍以上に人口を急増させた。[17]江戸・京都・大阪と並ぶ日本三大都市地域である名古屋の都市建設を推進して近代名古屋の基礎を築き上げた。
- 遊び娯楽重視の政策として、祭り好きの心で名古屋に豪華な歌舞伎小屋施設の建設をして江戸や京都や大阪から歌舞伎役者の舞台誘致を推進した。[18]毎日花火を打ち上げる花火大会の実施や豪華な褒美がある盆踊り祭りを盛大に実施した。[19]
- タバコ文化の記述では喫煙文化好きであった。好物の塩鮭を食べながら楽しく生きる娯楽重視思考のキセル文化人間であった。徳川宗春の喫煙行為関係のタバコ文化の記述では宗春は農民や商人と一緒にタバコを吸っていた。長生きは得をする健康思考であった。健康食事と派手文化を推進した。[20]
- 産業政策として、商人の知恵を活用して諸国に尾張藩の毛織物や陶芸品を流通させて地場産業の宣伝活動をした。江戸や大阪や京都の繁華街の店で領内で村落の村々で生産された最高傑作の作品の立派な焼き物瀬戸焼を出品して商売上手の名古屋商人を支援して陶器産業が盛んな地域の尾張藩を宣伝した。尾張一宮市の毛織物産業の育成や津島市の東洋紡産業や弥富市の金魚祭り文化の基礎となる産業の産業育成政策と商人流通宣伝政策で地場産業を育成した。[21]常滑焼・瀬戸焼・七宝焼など焼き物文化を保護して陶芸産業を育成した。花火文化や金魚産業などの祭り文化を保護して神輿や参列者の仮装で盛り上がる名古屋祭りの実施で尾張徳川家への忠誠心を維持させて経済効果を狙っていた。毛織物など地場産業を育成した。尾張名古屋藩内で毛織物産業や陶芸産業を保護した。また宗春の政策で歌舞伎役者産業や大工産業が盛んになり、名古屋流通商人が尾張藩の派手な男女関係の女性風俗文化を宣伝した。
- 医療技術政策では、高麗人参の栽培を尾張藩内で盛んにして医学技術を進歩させた。[22]
- マニフェストであり家訓でもある『温知政要』を執筆し、上級家臣に配布した。温知政要の尾張藩の家訓の思想は法律が多い国家で自由を奪う尾張藩を否定していた。民が元気になる産業政策を推進する寛容な法律支配者であった。
徳川宗春の仏教愛思想
編集- 罪人政策として、死刑執行をしなかった。
- 尾張名古屋の自由な風俗営業を認可して、風俗女性による売春文化や江戸時代の享保期の江戸幕府の德川家康以来の禁煙法令を否定した。新井白石儒学思想の禁煙法令を否定して町人がタバコを吸う喫煙者文化を推進したタバコ好きの仏教愛殿様である。宗春は真面目倫理ヒトラー思考を否定してタバコを吸っていた。タバコを吸う行為は怒りがある暴力人間から風俗自由経済思考で怒りがない人間になり長生きする。タバコを吸う行為は健康的な心になる喫煙者哲学の持ち主であった。
- 宗春の仏教愛思想は以下である。安田文吉南山大学教授による徳川宗春の仏教愛思想の研究本の『徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君』の本の内容の調査結果である。
- 宗春は仏教愛殿様として名古屋の先祖家系の武士や商人大工職人の先祖代々の名古屋住民や新参者や老人愛と女性愛で男女や罪人全てが平等な民間活力国家にする。殿様と領民である商人や大工職人で毛織物製造技術がある農民が平等な関係で士農工商身分を否定して平等な尾張藩の名古屋社会にする仏教愛殿様であった。七寺など 大須観音の仏教文化は芝居小屋が3つもある大寺院であった。[23]。
- 質素倹約を否定して無駄な法律で厳しい質素倹約社会の享保の改革は経済効率が悪い国家になる。[24]。農民には農民の役割があり、商人には商人の役割があり、大工職人には大工職人の役目がある役目が無い人物は存在しない領民の役割を重視する仏教愛思想の慈悲慈愛の心が死刑廃止や罪人を保護する思想となった。死刑廃止の仏教愛思想で死刑執行0人の尾張名古屋殿様だった理由は冤罪は国の恥思考で冤罪防止の絶対冤罪が存在していけない温知政要の冤罪を予防する仏教愛思想である。
- 宗春は尾張名古屋の殿様であるが身分の上下関係無視の身分礼儀を無視するように農民や町人大工職人など臣下身分に身分を気にしないで一緒に喫煙をする煙管を吸う行為を許可した。慈悲慈愛で見守る忍の心の仏教愛精神を大切にしていた。宗春は多くの法律がある恐怖警察国家を否定して死刑禁止政策で罪人に職業を与えて再犯を防止した。尾張名古屋藩主時代は人の命は金で買えないという命の尊厳思想の仏教愛で死刑執行を実施せず社会的に役に立たない人間はいないと考えていた事から罪人に職業を与えた[25]。
- 人には好き嫌いがある。好みも違う。上級武士の倹約の好みを他人に好みを強制するなの思想であった。自ら出席して祭りや遊郭を楽しみ、有名な料理店や茶屋が名古屋に支店を出店するなど名古屋は繁栄した。食欲と性欲が同じ風俗女性遊郭好きの仏教愛思想であった。[26]
- 建中寺や興正寺など名古屋の仏教寺院を保護して仏教を信じていた。大須観音や養念寺など名古屋地域の仏教寺院を保護した。からくり技術の名古屋人形ロボット技術の発明で江戸時代より続く名古屋老舗企業の両口屋是清や中北薬品など名古屋企業文化を育成した[27][28]。徳川宗春は梁川産の水差しがお気に入りだった。江戸時代より続く老舗菓子屋の両口屋是清など参勤交代が制度化された頃に金色に輝く名古屋城の城下町の名古屋に饅頭を作り始めて、味噌作りや宗春尾張藩主時代は油売り商人が登場するなど名古屋老舗企業が成長した。[29]
- 女性を性犯罪から守る女性保護政策として、女性の夜間外出は暗く危険で性犯罪被害の危険があり、女性保護のため名古屋城や犬山城の城下町や名古屋及び津島の町中に行灯や提灯を設置して尾張藩士の武士による防犯パトロールを強化して派手で明るい街にした。
- 死刑禁止の仏教愛思想で人間の命の大切さを主張してどんな人間も生命に値打ちがあり、この世でいるだけの価値がある。人間は全員がこの世で生きる価値がある仏教愛思想の持主であった。
- 宗春の温知政要は適材適所を大切にして商売は商人の知恵を農業は農民の知恵を活用した。宗春の政策で尾張藩で生産された立派な焼き物を領内以外の全国の大名に名古屋商人が献上して日本全国に瀬戸焼の宣伝活動をした。徳川宗春の名言で以下の言葉があり、慈悲慈愛の心を養うことこそが名古屋の殿様である尾張藩主の生き方や商人や大工職人の第一の学問であると記述された宗春の名言があるとされる。他人の生命を大切にする仏教哲学を重視する倫理学思考の持ち主であった。人間味がある仏教愛殿様であった。名古屋の街を派手な風俗女性文化で活気づけて、名古屋尾張藩士に芝居見物を許して庶民の人気度は抜群であった[30]。
- 徳川宗春が唱えた名古屋藩の徳川宗春哲学の経済法律思想は以下である。宗春は大きな愛情と寛容の心を持つ名古屋藩主となり慈忍の心を大切にした。慈忍の心は人の心や経済を明るくする派手風俗文化思想である[31]。慈の心は人には弱い心はある[25]。人間の弱点は真面目で規則正しく生活をする事が困難である事だとした。人間の真面目で規則正しく生活しない弱い心を大きな愛で見守る仏教愛思想の名古屋藩主だった。死刑廃止の仏教愛政策で見守る慈愛と慈悲の仏教思想である。仏教愛の慈悲慈愛の心を大切にした。名古屋藩主が慈悲の心で見守る思想が慈忍の慈の心がある。もう1つの慈忍の心は節度をとりもどすため温かい仏教愛で見守る忍の心である。
名古屋東照宮祭りのからくり人形山車のロボット技術と大工産業の育成
編集- 仏教愛思想で大工産業を保護して祭りによって人々を元気にさせた。名古屋東照宮祭りは7000人の行列で江戸や京都の祭りより盛大で七間町の能人形や宗春の時代は新しいからくり人形山車の改修で七間町の橋弁慶車や和泉町の雷電車や上長者町の二福神車や宮町の唐子車などの木製ロボット技術を活用した盛大な祭りであった。宗春は新しいからくり人形技術を開発する人形技術開発政策で、名古屋祭りの新しい山車専用で祭り使用のからくり人形として適合する生きている人間動作のすごいからくり技術動作の人形の製造を依頼した。[32]。
- 宗春は愛知県のロボット産業の父であり、からくり人形技術を学んだ東芝創設者の田中久重や豊田自動車産業技術など宗春のロボット産業技術は山車からくり祭りのロボット技術コンテストとして技術が応用されて、愛知県のロボット産業の基礎となった。尾張藩主として尾張入国をした宗春は徳川吉宗将軍による享保の改革以来の経済政策で享保期に自粛されていた祭りを大規模に盛大な規模で復活させた。藩士の芝居見物を許可して禁止されていた遊郭の設置を認めた。庶民や藩士の娯楽を復活させる事で名古屋の城下町を繁栄させようとした。[33]
- 愛知県名古屋地域は人形製造技術が日本一の人形産業地域となり人形産業が発達した。宗春の経済関係の遺産がきんさんぎんさん長生き老人の大須観音の長生き仏教愛思想や漫画喫茶や名古屋飯など名古屋文化となった。近現代の名古屋文化は宗春の規制緩和政策の名古屋経済関係の経済遺産である。人形がお茶を持って歩行するお茶運び人形でお茶を取る人形技術で飲んだ後に茶碗を返却すると、Uターンして戻るからくり人形を開発したからくり人形師を育成して、令和初期でもお茶を運ぶからくり人形の創作及び修理復元をしている。[34]。世界初のロボット技術であるからくり人形技術を開発した初代庄兵衛が京都から名古屋へ移り住んだ。[35]。
- 津島天王祭行事の尾張津島天王祭を名古屋でも天王祭りを実施する事とした。尾張藩主として名古屋祭事関係の宗春の祭り文化政策で名古屋の堀川で巻藁船を浮かべて名古屋天王祭りを実施する事にした[36]。名古屋天王祭りに盆踊りの褒美を出して祭りを盛大に実施した。
- 東照宮祭りの山車を新調して町人身分による提灯やろうそくの大量生産を推進して、名古屋の町人身分の着物やうちわの需要を増加させて大工職人や花火職人の町人祭事産業を育成した[37]。からくり山車技術の技術向上や仮装派手行列や盆踊り祭りの豪華褒美で楽しみを増加させる快楽産業政策で大工産業従事者や商人の楽しみを増やして勤労意欲を向上させた。徳川宗春の経済政策は民が元気なり民間活力を作る庶民元気政策でお金の流通量を急増させた。お金の流通量を急増させて田畑も元気になり生きたお金の流通業を盛んにする商人重視政策を実施した。大工産業育成の経済効果をもたらした[31]。罪人を梁川東照宮建設工事で生活職業保護をしていた。
好物と性格
編集- 祖父徳川光友が延宝7年に創設した尾張徳川家別邸の御下屋敷の敷地で徳川吉宗から拝領した高麗人参を栽培して薬草園を作った。盆踊り大会を御下屋敷で開催して町人を集めて隠居生活をした。[38]宗春は藩主の浪費が領民の活力になるが信条であった。[39]
- 尾張藩の参勤交代は祭りのような行列で宗春と家臣が歌舞伎役者の演出で民を楽しませる豪華参勤交代のサービスで江戸時代の庶民の娯楽文化となった。[40]宗春は締忍和尚を尾張へ招き、興正寺の住職に任命して、締忍和尚の話しを聞くため、寺院保護した。大須観音や七寺が集まる寺町は参拝客の買い物や芝居小屋や大道芸を楽しむ町として賑わった。宗春は風俗女性器文化の売春風俗産業を保護して風俗営業の自由を認めた。[41]宗春が浄瑠璃や芝居の上演を許した事で豊後節が発達して、名古屋歌舞伎文化としてそこから派生した常磐津節と清元節として歌舞伎文化に必要な芸能文化・名古屋の製造業やものづくり経済発達の基礎を作った。[42]
- NPO法人宗春ロマン隊の特定非営利活動法人が作成した日本の偉人関係の本である『徳川宗春伝』では『名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君』と紹介されている。宗春は名古屋好きで家来思いで町人農民など尾張藩の庶民思いの素晴らしい殿様だったとNPO法人宗春ロマン隊が作成したの本である『徳川宗春伝』で紹介されている。八代将軍徳川吉宗公が宗春公の優秀性を認めて、宗春公も吉宗公を尊敬していたとする享保社会学研究の徳川宗春関係の歴史解釈論がある。[43]
- 宗春の仏教愛思想で民が元気になる商業流通産業が活性化された。商人や農民など庶民中心の元気な国にする尾張藩の仏教政策であった。武士も百姓農民も町人も笑って暮らせる仏教愛思想の尾張名古屋の国作りを目指した殿様である。[44]3メートルの煙管を家臣に背負わせてあるいたり、真っ白な牛の世にのってゆるゆる城内を散歩したり自己顕示欲が強い人だった。[45]
- 国家に法令が多いのは恥である。古代中世の昔の聖人釈迦仏教の聖徳太子は三法の3つの文章で国家を統治した。多数の法律文章で沢山の法律は法に背く違反者が急増する。大声で会話ができない言論自由が社会になる。法律警察国家の多数の法律が自由社会を制限をする。倹約は家系繁栄で良いが厳しい倹約法律は庶民に苦しく逆効果である。若い頃は一度や二度は過ちがあるものである。名古屋の城下町を上から下まで紅色で行列で歩き宗春と家臣が紅色で歩いた。[46]
- 兄弟身内に若死で早世が沢山いるので健康長寿を願い徳川吉宗との謁見の際に江戸幕府が薬用に栽培していた不治の病に治療効果がある高麗人参を親藩として臣下身分で贈与されて尾張藩邸内で育てていた。[47]徳川宗春が育て収穫した高麗人参は広く尾張領内に配られて徳川宗春屋敷の薬草園が名古屋で医学を学ぶ名古屋大学医学部や名城大学薬学部の基本となった。[48]
- 宗春は尾張藩一宮市の葉栗村の毛織物工業を盛んにした。百姓が見事の色合いの絹を生産して葉栗村の毛織物工業を盛んになったので百姓が見事の色合い絹を生産するようになり、宗春が尾張藩主だった時代に褒美がある寄付行為があった。葉栗村の毛織物工業を盛んになったので蚕を飼い毛織物を生産して農民が生活するようになり、飢饉など貧困生活時代の娘の売春と身売りを余裕のある食糧生産の備えと生活向上で防止させた。[49][50]
- 庶民を自由にする政策で尾張の祭りを元の規模にする祭りの大規模化で盛大な祭りにして建中寺参拝の時は派手な衣装を着て庶民を喜ばせた殿様であった。[51]多い法律国家や厳しい経済法律国家を否定していた。江戸への参勤交代で派手な行列だった宗春の行列は老中の松平乗邑による法律違反の吟味で国元帰国させて、宗春の人気と評判を悪化させる事を予測して品川宿で正装に着替える礼儀重視の行列に変化していた。[52]消費を抑制する効果があるぜいたく禁止目的の女性風俗文化を禁止する法律は庶民の元気を喪失させる民の意欲を無くす悪法とした。豪華で綺麗な着物が好きで礼儀を重視している宗春は必要に応じて正装と豪華で庶民を元気にさせる華やかな衣装を使いわけていた。[53]
- 少年時代は、猫が草を食べる様子を観察するなどしていた[54]。また、藩主の子供でありながら農民や町人と仲が良く、庶民の喜怒哀楽が理解できる少年だった[55]。
- NPO法人宗春ロマン隊の研究内容では享保16年に漆黒馬に金縁模様の衣装になり、名古屋城に入城をする。1731年に芝居小屋を許可するなど規制緩和を開始して知多郡大野へ旅行して知多温泉療養中の実母に会う。享保18年に領内の岐阜へ旅行をする。享保20年に高麗人参の尾張藩邸で宗春による栽培開始と名古屋城二の丸御殿に慈忍の間が完成する。[56]
- 梁川藩主時代に梁川藩の村役人で伊達家の家臣の家系から宗春家臣となった村役人家系の堀江与五右衛門から塩鮭を献上された。[57]塩鮭が好物であった。塩鮭を食べながらタバコを吸う習慣があり、徳川家康東照大権現様のご加護として、が口癖であった。[58]尾張藩主となった宗春に梁川の領民から江戸屋敷へ贈り物が尾張藩主就任の2年半後にあり、塩鮭・相馬焼・茶碗・錦手キセルと共に宗春の一頭の馬と嫡子国丸に1頭の馬が献上されて『白川』と『いろは』と名付けて尾張に連れて帰る。特産物の献上は宗春が隠居謹慎されるまで続いた。梁川牢屋の罪人を理由があり犯罪者になった罪人は軽い犯罪を無罪放免で罪人解放で厳罰化死刑を否定した仏教愛殿様であった。江戸の尾張藩邸宅で異文化を学ぶのが好きで琉球畳を使用した。[59][60]
- 梁川藩主時代に東北地方の農民支援策で百姓に道春は種もみを与えて稲は順調に育ち豊作になり餓死者が1人も出さない百姓に優しい農民仏教愛の殿様であった。[61]松平道春は部屋住みの頃からどうしたら民が楽しく生きる世の中になるか思考していた。梁川藩主時代に家臣や民から感謝の品物が沢山届く殿様であった。罪人でも働きたいものはどんどん働かせる道春の功績は今でもつつこ引き祭りとして受け継がれている。[62]
- 宗春は家臣を楽しませるため家臣の娯楽目的で家臣を江戸の遊郭に連れて行き、自分は別の間で尾張藩主となるための温知政要著書の政策立案の執筆作業と立派な仮装豪華な兜購入の準備をしていた。[63]お供の尾張名古屋藩の武士と名古屋城入場の際にべっ甲の帽子で歌舞伎役者風の派手衣装を着て町人に対して身分など気にせず煙管タバコを目の前で一緒に吸おうと親睦を深めて名古屋城に入城した。[64]
- 母の梅津の長生きを願う親孝行で優しい仏教愛殿様だったとされる。[65]教養の高い母の梅津から藩主の兄と同じ立派な武士になるように百人一首など高い教養を学んだ。学問は学ぶだけでは役に立たない教わり学び経験して繰り返す事だと藩の塾で学び薬草研究や農民百姓から米の作り方を教えてもらう少年だった。[66]
- 德川吉宗の倹約令は財政の立て直し成功や将軍就任後の目安箱や町火消しなどを評価していたが倹約は上級身分の武士がするべきである。庶民町人の消費を否定する民の元気を否定する財政出動否定の町人消費抑制策に対して宗春は反対だった。[67]。派手好きの宗春の性格は徳川吉宗の倹約令を否定し、尾張藩の派手な消費文化を推進した。莫大な財政出費により消費活性化を促す積極財政政策により、尾張藩は財政赤字になった。しかし、尾張名古屋では毎日花火が打ち上げられ、仕事や祭りの派手な文化で消費が活性化され、江戸・京都・大坂と並ぶ商業経済の大都市として成長した[68]。
- 人生を楽しみながら生きる、快楽仏教徒であった。派手好きな性格で歌舞伎役者、盆踊りの祭り文化、吉原などの風俗女性文化が好きであった。煙管文化も好きで、タバコを町人や農民と共に吸っていた[69]。
経歴
編集- 享保元年7月22日(1716年9月7日。異説12月22日(1717年2月3日)) - 従五位下に叙し、主計頭に任官
- 享保3年12月18日(1719年2月6日) - 従四位下に昇叙。主計頭如元。
- 享保14年(1729年)
- 享保15年11月28日(1731年1月6日) - 名古屋藩主となる。徳川の苗字を称する。
- 享保16年(1731年)
- 享保17年12月1日(1733年1月16日) - 権中納言に転任。
- 元文4年1月12日(1739年2月19日) - 幕府より蟄居を命ぜられる。
- 明和元年10月8日(1764年11月1日) - 薨去。戒名:章善院殿厚譽孚式源逞大居士、墓所:名古屋市東区筒井の徳興山建中寺[注釈 32]。
- 文政4年(1821年) - 孚式山王権現と称され、名古屋藩十代藩主徳川斉朝により、名古屋御下屋敷内に神として祀られる。これ以降、宗春は権現として毎年法要がおこなわれた。
- 天保10年11月5日(1839年12月10日) - 贈従二位権大納言[注釈 33]。
※参考資料:児玉幸多監修・新田完三編『内閣文庫蔵 諸侯年表』(東京堂出版、1984年発行)
家族
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- 正室なし
- 側室:海津(栄昌院)葬天徳寺
- 長女:富(理泡院)(享保9年(1724年)4月9日 - 享保18年(1733年)6月17日) - 葬天徳寺
- 三女:八千(曄徳院)(享保11年(1726年)12月8日 - 享保16年(1731年)5月17日) - 葬天徳寺
- 長男:国丸(慧運院、萬五郎)(享保14年(1729年)12月17日 - 享保20年(1735年)9月9日) - 葬傅通院
- 側室:民部(瑩光院)葬祐天寺
- 次女:補誦(凛霜院、三保)(享保11年(1726年)1月4日 - 享保20年(1735年)10月8日) - 葬傅通院
- 五女:八百(秋蔵院)(享保15年(1730年)1月13日 - 享保16年(1731年)7月12日) - 葬天徳寺
- 次男:龍治代・龍千代(圓徳院)(元文2年(1737年)11月12日 - 元文2年(1737年)12月24日) - 葬傅通院
- 側室:伊予(銀昌院)
- 側室:和泉(宝泉院、華子・阿薫)猪飼氏。阿薫の方と呼ばれる。葬七寺[75]
- 側室:おはる(貞幹院、春日野)葬建中寺[76]
- 側室:左近
- 側室:相模
- 異母兄:徳川吉通(名古屋藩第4代藩主)
- 異母兄:徳川継友(名古屋藩第6代藩主)
- 異母兄:松平義孝(名古屋藩御連枝高須藩(四谷松平)第2代藩主)
- 異母兄:松平通温
- 異母妹:松(光現院・磯) - 加賀藩主前田吉徳(吉治)正室・5代将軍徳川綱吉養女
その他、早世の兄弟姉妹が30人以上いる[注釈 35]。
史料
編集宗春に関する記録は謹慎蟄居後に幕府によりほとんど処分されたとされ、現存する資料は極めて少ない。
脚注
編集注釈
編集- ^ 江戸藩邸が大久保にあった事による
- ^ 実際に宗春が吉宗を直接批判したとする当時の一次資料は残っていない。江戸幕府の公式記録でには、むしろ吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録が散見される[2]。宗春が江戸でも尾張藩内と同じように派手な言動をとった記録は、尾張藩江戸上屋敷市ヶ谷邸を江戸庶民に開放した享保17年5月の端午の節句以外の直接的な資料はいまだ見つかっていない。
- ^ 一説では十九男。
- ^ 後に犬山城主成瀬正親家臣、200石取。
- ^ 徳川美術館に、有馬則維が要請した手紙が残されている。「通春主、有馬玄蕃頭養子となる」という一文もある[5]。
- ^ 求馬の通称は、本来は御連枝梁川藩大窪松平家の嫡子の通称。宗春が求馬を名のるのは松平義真誕生前であり、梁川藩3代藩主となる義真が生まれる前に従五位主計頭に叙任され、求馬の通称は使わなくなった。可能性として大窪松平家第二代当主松平義方(義賢)に子が出来る前であったので、不測の事態に備えて仮養子・養子にしようとした可能性がある。
- ^ 大窪松平家は断絶した。異母兄の尾張藩御連枝筆頭高須藩主松平義孝を飛び越える異例の相続であった。ただし、義孝は2年後の享保17年(1732年)に死去している。
- ^ これは上級の武士と町民の交流を果たすことが目的であった。
- ^ しかしその結果、獄中に死罪人が溢れることとなった。これらの罪人は藩主交代後に全員が処刑された。[要出典]
- ^ 享保18年9月11日から15日まで滞在。『安川文書』によれば12日の午後6時半頃、鵜飼見物に出掛けた際に宗春は舟からたくさんの花火を見物しており、この時は徳田(岐南町と思われる)より花火師が来て珍しい花火を打ち上げている。確認できる限り、これが長良川で打ち上げられた花火の最も古い記録であり、現在行われている長良川花火大会の先駆けといえるだろう。なおその直前の享保18年5月28日に、吉宗は前年に発生した飢饉等の被害者を偲び、隅田川で水神祭りを行い花火が打ち上げられたといわれている。これが現在の隅田川花火大会に繋がっていったとされているが、この話は後世の作り話だという説が有力である。
- ^ 公式記録には何も残されておらず、5月には兄で高須藩主の松平義孝の死があり、9月は詰問に出向いたと言われる滝川元長や石河政朝の出自や役職、さらに直後の鷹狩への使者が滝川元長であったことなどの状況証拠から考えると、実際にこの詰問があったかどうかは、はなはだ疑わしい。尾張藩士の手紙では五月に既にうわさが流れていたが、噂であると断じている。
- ^ 『名古屋市史』の中に所収されるその資料は江戸末期のもので、宗春当時の記録ではない。宗春時代に記されたもので尾張藩が赤字に転じたという資料はない。その資料によると、6代藩主継友と8代藩主宗勝は黒字であったとされるが、共にその藩政下では江戸上屋敷市谷藩邸が全焼しており、黒字になる可能性は限りなく低い。
- ^ この巻狩の前の数カ月間、宗春は御下屋敷で商人たちと会っていて、名古屋城二の丸に戻っていない。
- ^ 8月に、幕府が大名と旗本に遊里戯場へ出入りすることを禁じる令を出しており、その先手を打つものであった。
- ^ 緩みすぎた藩士の規律を正すものであると同時に、幕府の元文の改鋳によるインフレ政策対策として、引き締め政策に転じた。名古屋はすでにインフレ状態であり、強いインフレに陥らないように庶民を守った政策である。それと同時に、元文2年(1737年)の名古屋や岐阜の町、ならびに農村からの借財は、幕府の蓄銭禁止令に対応したものであった。借財という方法論によって、多く出回りすぎる貨幣を藩が集め、インフレを押さえたからである。
- ^ 4代藩主徳川吉通正妻の輔子は九条輔実の娘。吉通長女の千姫は九条幸教に嫁ぐ。
- ^ 6代藩主徳川継友正妻の安己は近衛家熙の次女。
- ^ 初代広幡忠幸は、尾張藩初代藩主徳川義直の猶子であり、義直の娘の京姫を正妻とする。
- ^ 尾張家御連枝川田窪松平友著正妻の伊喜姫は正親町公通の娘。
- ^ この祈祷を白い衣を着て行ったという[8]。翌年暮れに吉宗の使者に「領民の安寧が私の心の楽しみ」と述べたという記録もある[9]。
- ^ 京の大嘗会への使者である高家堀川広益が京から戻って吉宗に報告した翌日から将軍吉宗は引き篭もり、年初恒例の行事を老中に代参させている[2]。その堀川広益は、尾張藩の縁戚である広幡家の当主である広幡豊忠の実弟である。
- ^ 御三家はじめ御家門のほとんどが閉門したほどの事件があったにもかかわらず、この日の吉宗は関白一条兼香等朝廷に異例の貢物を送っている[2]。その後、一条兼香は4人の姫を水戸・紀州・一橋・清水の御三家・御三卿の御簾中として送り出し、また幕閣はこの年に霊元法皇の影響を受けた4人の和歌の名人の公卿の名前を提出させている。
- ^ 幕閣方面からは後継として、吉宗の次男の田安宗武を入れる計画もあったが、尾張藩の抵抗により断念された、という話も伝わる。
- ^ 実際は宗春治世中に既に、藩内の贅沢や奢侈を禁ずる政策が出されている。また、宗勝の質素倹約を旨とする緊縮財政政策は大成功し、藩財政は再建された。[要出典]
- ^ 吉宗側近の御側御用取次の加納久通は西之丸若年寄として健在であった。乗邑は罷免後の翌年に逝去している。乗邑が将軍吉宗の言葉さえも聞かなくなっていたほど専横があったことを匂わせる記述も存在する[2]。
- ^ 吉宗時代には既に、幕府は貨幣改鋳による貨幣流通量のと共に、金融緩和政策などを行っているが、これは大岡忠相の再三再四による献策であった。老中松平乗邑は反対していたが、元文改鋳をせざるを得なくなる。この金融緩和の後、幕府は租税の回収を強化し、各地で暴動が起き朝廷が幕府に諫言するほどであった。
- ^ 宗睦の政策は新田開発や殖産興業政策、治水工事であり、役人の綱紀粛正である。これは吉宗の施策と同じであり、また宗睦は晩年に経済の大混乱を引き起こしている。[要出典]
- ^ 浅井図南等が主導して、多数の医師が尾張藩で育つ。
- ^ また、この時に金網も撤去されたという伝もある[要出典]が、記録にはそのことは記されていない。
- ^ 慶勝は、大老井伊直弼と対立する一橋派に属しており、南紀派に対抗するため、紀州のライバルと比定できる宗春のイメージに頼った、とする説がある。
- ^ 現岐阜県各務原市鵜沼の石亀神社が、その石切場跡である。
- ^ 現在は名古屋市平和公園に移転。
- ^ 江戸時代において、死後75年を経ての贈位贈官の例はほとんどなく、宗春に対する幕府の措置は異例中の異例であった。なお、贈従一位の声も挙がったものの、林大学頭皝(檉宇)の答申では不相当とあり、結果として従二位の贈位となった[70]。ちなみに林大学頭皝(檉宇)は、松平乗邑の孫の林述斎の三男。
- ^ 元禄10年には3代藩主徳川綱誠は在江戸なので、年数からすると早産または流産か?
- ^ 記録により数が異なっている。
出典
編集- ^ a b 『御系譜』『系譜』(共に名古屋叢書三編)第一巻所収
- ^ a b c d 『徳川実紀』
- ^ 『徳川実紀』『尾藩世記』『金府紀較』『尾張藩御日記頭書』『尾張徳川家系譜』より
- ^ 近松茂矩著『昔咄』『圓覺院様御伝十五箇条』
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- ^ 日本の特別地域 特別編集78 これでいいのか愛知県 18ページ(地域批評シリーズ) 岡島慎二 (著), 土屋コージン (著)
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- ^ 小野将「近世後期の林家と朝幕関係」(『史学雑誌』第102編第6号、1993年6月)
- ^ 名古屋叢書三編『尾張徳川家譜』による
- ^ 安藤香織「「建中寺墓地改装日誌」について」(『金鯱叢書』第48輯、徳川美術館、p.69)
- ^ “(尾州)徳川家系図”. なごやコレクション、83コマ目. 2024年1月1日閲覧。
- ^ “真野氏手扣”. なごやコレクション、24コマ目. 2023年12月7日閲覧。
- ^ “名古屋寺院誌”. なごやコレクション、600コマ目. 2023年12月23日閲覧。
- ^ “萩園遺稿”. 2023年12月23日閲覧。
関連書籍
編集- 大野健『宗春躍如』(上・中・下)kindle版 ASIN B07CN7ZHTQ, B07CVYZ4NN, B07D2C6NGV
- 北川宥智『徳川宗春 〈江戸〉を超えた先見力』 風媒社 ISBN 978-4-8331-0563-7
- 清水義範『尾張春風伝』(上・下)幻冬舎 ISBN 4877281908、ISBN 4877281916
- 海音寺潮五郎『吉宗と宗春』文藝春秋 ISBN 4167135329
- 矢頭純『徳川宗春』海越出版社 ISBN 4876971838
- 高橋和島 『尾張葵風姿伝‐徳川宗春』テレビ愛知 ISBN 978-4876972197
- 『尾張名古屋異聞』
- 千田龍彦『尾張なごや傑物伝』 風媒社 ISBN 978-4-8331-0554-5
- 豊田有恒「尾張名古屋異聞」 - 『異聞・ミッドウェー海戦 タイムパトロール極秘ファイル』角川書店 ISBN 9784041377307 に収録。宗春の政策はタイムトラベラーによるものという短編。
- 早見俊『密命将軍 松平通春』コスミック出版 ISBN 978-4774762548 - 民を救うための目安箱を進言した通春に目を付けた吉宗からの依頼で市井に下り庶民のため世直しを行う徳川宗春の若き日を描く作品。
演じた俳優
編集- 滝田裕介(大岡越前 第1、2部 1970年 - 1971年、TBS)
- 大瀬康一(大岡越前 第3部 1972年 - 1973年、TBS)
- 菅野菜保之(大岡越前 第4部 1974年 - 1975年、TBS)
- 入川保則(大岡越前 第10部 1988年、TBS)
- 青山良彦(大岡越前 第11部 1990年、TBS)
- 中尾彬(暴れん坊将軍 I - VII 1978年 - 1982年、1983年 - 1987年、1988年 - 1997年、テレビ朝日) ※この作品では、権力亡者・自己保身の権化のように描かれており、「知らん!余は何も知らん!」が決まり文句であった。
- 成田三樹夫(暴れん坊将軍II、テレビ朝日) ※1度のみの登場であり、結果的に中尾の代役の形になっている。
- 西岡徳馬(暴れん坊将軍VIII、暴れん坊将軍IX 1997年 - 1999年、テレビ朝日) ※西岡は同局で放送された『殿さま風来坊隠れ旅』で2代後の藩主・宗睦を演じている。
- 中井貴一(八代将軍吉宗 1995年、NHK大河ドラマ)
- 神田正輝(痛快大名徳川宗春〜吉宗に挑んだ男 1996年、テレビ愛知)
- 萩原流行(炎の奉行 大岡越前守 1997年、テレビ東京)
- 国広富之(米将軍・吉宗に挑んだ男 1998年、テレビ大阪)
- 栗塚旭(逃亡者 おりん 2006年、テレビ東京)
- 夏原遼(大岡越前2時間スペシャル 2006年、TBS) ※前名の通春を名乗っている。
- 山田純大(徳川風雲録 八代将軍吉宗 2008年、テレビ東京)
- 渡辺大(大岡越前 2014年、2024年、NHKBS時代劇)
- 須賀健太(金の殿 〜バック・トゥ・ザ・NAGOYA〜 2017年、CBCテレビ)※この作品では徳川宗春が現代の名古屋市にタイムスリップする架空設定の歴史ラブコメディドラマとなっている。
史実上の誤解として、しばしば、徳川宗春は徳川吉宗と将軍職を争って敗れたとされ、上記の『暴れん坊将軍』や『大岡越前』でも長きにわたりそのように描かれていた。両シリーズとも、その部分が後に訂正されている。