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藤原親信

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藤原親信
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 保延3年(1137年
死没 建久8年 7月12日1197年8月7日
改名 実輔(初名)→親房→親信
別名 坊門中納言
官位 正二位中納言
主君 近衛天皇後白河天皇→(二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇)→後鳥羽天皇
氏族 藤原北家隆家流水無瀬家
父母 父:藤原信輔、母:橘家光の娘
兄弟 信隆信保信行親信師親経弘、信覚、藤原公行室、藤原顕時室、藤原惟方
正室:信西の娘
半物阿古丸(官女)
二条定輔親兼仲経、忠遍、信弘、源通宗室、藤原朝経室、源通宗室、藤原朝定室、藤原教成室(後に藤原朝経室)
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藤原 親信(ふじわら の ちかのぶ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿右京大夫藤原信輔の四男。水無瀬家の祖。

生涯

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久安4年(1148年)に叙爵。以後、備中国伊予国等の国司内蔵頭を歴任する。兄達と同様に後白河法皇の近臣として朝廷における地歩を固め、安元2年(1176年)に太宰大弐、翌治承元年(1177年)に従三位に上り公卿に列する。しかし、治承3年(1179年)の治承三年の政変において平清盛によって解官され、一旦朝政からの退隠を余儀なくされる。翌治承4年(1180年)に復帰すると、再び院近臣としての活動に勤しみ、寿永2年(1183年)には正三位修理大夫、次いで参議に補される。寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いの直前には、法皇の意を受け平宗盛との和平交渉にも当たったと言われる。

その後も文治4年(1188年従二位、文治5年(1189年美作権守権中納言、建久元年(1190年)に正二位、建久2年(1191年)には中納言に任ずるが、これを極官として建久8年(1197年)に出家し、程なく薨去した。

妻の阿古丸ともども今様の達人として知られ、今様を愛好する後白河法皇の寵愛を受け、子・定輔も後鳥羽上皇の近臣として活躍した[1]

その子孫は中世から近世において羽林家として家格を保ち、明治維新に至っている。

官歴

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  • 久安4年(1148年)正月7日:従五位下(氏爵、当時名親房)
  • 仁平3年(1153年)3月:一条昇殿
  • 保元2年(1157年):昇殿
  • 永暦元年(1160年)2月28日:右兵衛佐
  • 永暦2年(1161年)正月5日:従五位上
  • 応保2年(1162年)正月10日:正五位下(行幸院賞。院御給)、4月7日:備中守
  • 長寛3年(1165年)正月5日:従四位下(佐労)
  • 永万2年(1166年)6月22日:右馬頭、止守
  • 仁安2年(1167年)正月5日:従四位上(鳥羽院大治二年未給)
  • 仁安3年(1168年)正月6日:正四位下(春日行啓院賞。院御給)、8月12日:伊予守
  • 嘉応2年12月30日(1171年2月6日):内蔵頭
  • 安元2年12月5日(1177年1月6日):太宰大弐、去守
  • 安元3年(1177年)正月24日:従三位、大弐如元
  • 治暦3年(1179年)11月17日:解官(治承三年の政変
  • 治暦4年(1180年)正月24日:聴朝参
  • 寿永2年(1183年)正月5日:正三位、8月16日:修理大夫、8月25日:参議
  • 寿永3年(1184年)3月27日:備前権守、12月30日:復任(父喪)
  • 文治3年(1187年)5月4日:辞大夫
  • 文治4年(1188年)正月6日:従二位
  • 文治5年(1189年)正月18日:美作権守、7月10日:権中納言
  • 建久元年(1190年)8月7日:正二位(七条院入内賞)
  • 建久2年(1191年)3月28日:中納言
  • 建久8年(1197年)7月8日:出家

系譜

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脚注

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  1. ^ 豊永聡美「二条定輔考」(初出:『東京音楽大学研究紀要』15(1991年)/改題所収:「藤原定輔」豊永『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P229-252)
  2. ^ 公卿補任』建仁元年条
先代
  -  
水無瀬家当主
初代
次代
藤原親兼