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【終戦記念日】なぜ日本は破滅的な戦いに挑んでしまったのか?

今月の歴史人 Part.1


第二次世界大戦は日本にとって悲劇的な大敗を喫した歴史に語り継ぐべき戦争となった。この破滅的な戦いを日本はなぜ回避できなかったのだろうか? 戦後78年が経っても議論を呼ぶ大戦のはじまりを解説する。


 

■アメリカによる石油の全面禁輸で開戦を決意

 

オアフ島・真珠湾にある戦艦ミズーリ記念館にある「戦艦ミズーリ」

 

 国際社会から孤立する日本が、アメリカとの対立を決定的としたのは、日独伊3国同盟の締結であった。

 

 日独は昭和11年11月25日に防共協定を締結していた。これはソ連を主な対象とした共産主義の封じ込め政策であったが、この防共協定を軍事同盟に発展させる構想が第1次近衛文麿(このえふみまろ)内閣のときに浮上した。3国同盟問題は続く平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣でも引き続き討議されたが、この時、米内光政(よないみつまさ)海相をはじめ海軍首脳は徹底して同盟締結に反対した。ヒトラー政権下のドイツやムッソリーニのイタリアと手を組むことは、米英との戦争につながると考えたからで、米内海相は「日本海軍は米英と戦うようには作られていない」と言明し、米英との戦争になったら勝てないと断言した。

 

 その後、昭和14年8月23日、日本に事前の断りもなしに独ソ不可侵条約が結ばれたので、3国同盟問題は立ち消えとなり、平沼内閣は総辞職した。この年の5月11日、満蒙国境のノモンハン地区で関東軍とソ連・モンゴル軍との間に武力衝突事件が発生した。戦闘は日本軍の惨敗で終わるのだが、このノモンハン事件も泥沼化した日中戦争も、当初は日本と中国、日本とソ連の紛争で、米欧列強の関心はそれほど高いものではなかった。ところが9月1日にドイツが突然ポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まるや、ドイツの同盟国・日本に対する米英の態度は一変した。

 

 昭和15年に入ると、ドイツ軍は目を見張る進撃で、英仏軍は地滑り的惨敗を繰り返した。イギリス軍はダンケルクから蹴落とされ、フランスは降伏した。日本軍の中枢部には、ドイツ軍の勝利は確実なものに映っていた。

 

 このドイツの快勝は、アジアにおいてイギリス、フランス、オランダといったヨーロッパ植民帝国の権威と勢力を失墜させた。

 

「バスに乗り遅れるな!」

 

 日本の陸軍を中心に南進論(なんしんろん)が高まり、有田八郎(ありたはちろう)外相の大東亜共栄圏建設の決意声明も発表された(6月29日)。南進論とは石油やゴム、鉱物資源など戦略物資の宝庫である東南アジアを攻略して、資源の米英依存から脱却すると同時に、欧米植民国家に代わって日本が盟主となる「大東亜共栄圏」を建設するものである。いってみれば、まもなく始まる太平洋戦争は「こうした情勢を背景にした日・英・米帝国主義列強間の東南アジア植民地の再編成をめぐる角逐(かくちく)であった」(『太平洋戦争全史』池田清編、河出文庫)。そして7月22日に発足した第2次近衛内閣は南進論を遂行するための「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」を決めた。この文書こそが、以後、太平洋戦争へと向かう日本の針路を決定づけた。

 

 昭和15年9月23日、日本軍は「援蔣(えんしょう)ルートを遮断する」ために中国側から国境を越えて仏印(フランス領インドシナ)になだれ込んだ。いわゆる北部仏印進駐である。そして4日後には日独伊3国同盟が調印された。この北部仏印進駐と3国同盟締結によってヨーロッパの戦争と日中戦争が連動し、同時に米英の対日姿勢を決定的に硬化させた。イギリスは中止していたビルマからの援蔣ルートを再開し、アメリカは将来の参戦を前提にイギリス、オランダとの共同作戦の検討に入った。

 

 すでに昭和16年4月16日から、ワシントンで「日米諒解案」をもとに野村吉三郎(のむらきちさぶろう)駐米大使とハル国務長官との間で日米交渉が行われていたが、双方に妥協する姿勢は見られず硬直状態になっていた。ことにアメリカには戦争を回避しようという積極性は見えず、戦争準備の時間稼ぎ的な姿勢さえ垣間見えた。そうした7月28日、日本政府はフランスのヴィシー政府に日本軍の南部仏印進駐を迫り、実行した。東南アジア侵攻の前進基地確保のためである。

 

 アメリカの反応は早かった。8月1日には日本の在米資産の凍結と、石油の対日全面禁輸を実施してきた。イギリスもただちに同調して在英日本資産の凍結、植民地も含めた通商航海条約の破棄を通告してきた。蘭印(オランダ領インドシナ)やオーストラリア、ニュージーランドも同調した。

 

 9月6日、日本政府は御前会議で「帝国国策遂行要領」を採択した。その要領によれば、10月下旬を目標に戦争の準備をし、10月下旬になっても日米交渉がまとまらなければ、「自存自衛(じそんじえい)」のために開戦を決意するというものだった。10月18日、東條英機(とうじょうひでき)陸軍大将を首班とする新内閣がスタートした。そして新内閣は11月5日の御前会議で、日米交渉が不調に終わった場合は、12月初旬に「武力を発動する」ことを決めたのだった。

 

■戦争忌避の世論を逆手にとった米政府

 

 では、アメリカ側はどうしていたのか。

 

 昭和15年11月以降、米海軍通信部暗号解読班=OP −20−Gは日本海軍の暗号解読に成功していたから、アメリカ政府と軍は日本の政府と軍の動きはすべて把握していた。野村大使がハル国務長官に手交した対米最後通牒の内容も、真珠湾攻撃の日本艦隊の動きもすべて事前につかんでいたと言われている。

 

 では、なぜアメリカは日本の開戦姿勢を知りながら放置していたのか……。囁かれていたのが、世論の変化への利用だった。ナチスドイツの攻勢に苦しむ同盟国英仏の期待にもかかわらず、ヨーロッパ戦線への参加忌避の世論に押されて、ルーズベルト政府は身動きが取れないでいた。そこに登場したのがハワイ真珠湾に向かう日本の第1航空艦隊( 南雲[なぐも]機動部隊)侵攻情報である。そこで、どうするか? アメリカは政府も軍も何らの対策もとらなかった。結果はご承知のごとく、米太平洋艦隊主力は奇襲攻撃され、壊滅した。

 

 アメリカ国民は燃え上がった。一夜にして「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな!)を合言葉に、日本との太平洋戦争を開始した。同時にアメリカ政府は念願のヨーロッパ戦線への参戦も表明、第2次世界大戦へと拡大していったのである

 

監修・文/平塚柾緒

歴史人2023年9月号『太平洋戦争 開戦の決断』より

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