帝国の衰退
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英題:Destruction キャンバスに油彩、1836年、39½ × 63½ インチ 第4作『帝国の衰退』では文明の欄熟と人間の奢りから戦争が起こり、帝国はやがて滅亡する。この画では様々な場面を描くため、画家は第3作と比べ、川のほとんど中央に移動し、少し後ろに引いた視点から描いている。画の主題は、後方から迫る嵐の中での都市の略奪と破壊である。そこでは敵の戦士を乗せた艦隊が、都市の防御軍を打ち破り、川を遡り、街に火をかけ、その住民を殺害、強姦している。そして混乱して行き惑う兵士や難民の重みに耐え切れず、かって凱旋のきらびやかな行列が渡った橋は崩れ落ちる。川の土手にある宮殿の柱の列は壊れ、上層階からは炎が吹き出している。手前にある、頭を失いながらも、まだ不確かな未来に向かうが如くに進みゆく(ボルゲーゼの剣闘士のポーズをとる)、由緒あるヒーローの像は第1作の『未開の状態』の猟師を彷彿とさせる。 この絵はおそらく455年のヴァンダル族のローマ略奪のシーンを描いたと思われる。
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帝国の衰退
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カール3世の死後、教皇によって戴冠された皇帝はイタリアのみを統治する状態になった。イタリア内外の地方領主がイタリア王位とローマ皇帝位を巡って争った。分裂した帝国は、北からノルマン人、東からマジャール人、南のシチリアや北アフリカからはイスラム帝国に攻撃され防衛面でも苦しんだ。888年の帝国分裂において38歳前後でイタリア王となっていたベレンガーリオ1世は、すぐにスポレート公グイード(カール大帝のひ孫にあたる)にとって代わられた。891年、グイードは皇帝にも戴冠された。 グイードはイタリアを事実上二分化してベレンガーリオ1世と争った。892年、皇帝は息子のランベルトを後継者として共同帝位につけることに成功した。しかし教皇が代替わりしてフォルモススとなると対立関係になった。教皇は東フランク王アルヌルフをイタリアに呼び寄せた。45歳前後のアルヌルフはイタリアを征服することに成功して896年12月に皇帝として戴冠した。 アルヌルフはイタリアを長く支配することはできなかった。リューマチのため東フランクに帰還することを余儀なくされ、マジャール人の侵攻に苦慮しながら3年後の899年に50歳前後で死んだ。東フランクは嫡子のルートヴィヒ4世(幼童王)が6歳で王位を継承した。イタリアではグイード親子が既に病死していたため復権することはなく、ベレンガーリオ1世がイタリア王として復位した。しかし、イタリアにも侵入してきたマジャール人に王は大敗してしまった。家臣および政敵からベレンガーリオは王として不適格であると見なされ、成人して20歳前後になっていたプロヴァンス王ルートヴィヒ3世(ルイ3世)が900年のパヴィアでの議会で王に選ばれた。ルートヴィヒ3世は抵抗するベレンガーリオ1世を破り、901年に教皇から皇帝に戴冠された。 ルートヴィヒ3世は東ローマ帝国と連携して帝権を増そうとした。900年頃、東ローマ皇帝の娘アンナを娶り、産まれた子供に西ローマ皇帝のカール大帝と東ローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝にちなんだシャルル・コンスタンティンと名付けた。しかしまもなくベレンガーリオ1世の反撃にあい、905年には目を潰されてプロヴァンスに追い返された。皇帝位は廃され、プロヴァンス王国も又従兄弟で同年代の摂政ユーグに乗っ取られた。イタリア王位を取り戻したベレンガーリオ1世は915年、ローマからイスラム教徒を追い出した功績により65歳位で皇帝に戴冠された。 老帝ベレンガーリオ1世の権力はイタリア北部にのみ影響を及ぼしたにすぎなかった。戴冠の数年後、再び皇帝に不満を抱く勢力が結成され、彼らはブルグント国王ルドルフ2世に支援を求めた。923年6月23日、皇帝は決定的な敗北を喫した。皇帝はマジャール人に支援を求めたが、このことで国内の支持者からも見放された。924年4月7日に皇帝は暗殺された。70代半ばであった。元皇帝派はルドルフ2世を受け入れることもなく、925年に45歳前後となっていたプロヴァンス摂政ユーグを王に選んだ。ルドルフ2世は926年にイタリアから撤退した。 ユーグはマジャール人撃退にかなりの成功を収めたが、帝位を得ることはできなかった。しかしこの時代にしてはかなり安定してイタリアを治め、931年には、5歳前後の息子ロタール2世を後継者として共同王位につけた。王はさらに親族に権力を与え、東ローマ帝国とも関係を築こうとしたが、これによって多くの敵を作った。945年、王は敵対するイヴレーア辺境伯ベレンガーリオ2世(ベレンガーリオ1世の外孫)に破れ、プロヴァンスに隠棲した。そして947年に70歳弱で死去した。イタリアに残された息子ロタール2世も950年に24歳前後で毒殺された。50歳前後のベレンガーリオ2世は19歳前後の息子アダルベルトとともにイタリア王として戴冠した。前王を毒殺した容疑により親子の政治的地位は弱体化していた。そのため新王は、前王の未亡人でルドルフ2世の娘である18歳前後のアーデルハイトに息子アダルベルトとの結婚を強制しようとした。アーデルハイトは監禁され、ドイツ王(東フランク王)オットー1世に救援を求めた。この事件がドイツ王とイタリア王を兼ねる皇帝が君臨する帝国成立の契機となる。
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帝国の衰退
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帝国の弱点が明らかになるのに年月を要した。ブラジルは1880年代にも繁栄し続け、経済も社会も大きく発展した。例えば、ブラジルにおける最初の女性の権利運動が起こり、その後数十年にわたって緩やかに進歩したのであった。ブラジルの好況に反し、ペドロ2世の手紙からは彼が年老いるにつれて厭世的になり、時事に明るくなく、将来への展望が悲観的であることが見えた。彼は皇帝としての公務を几帳面に続いたが、精彩はなく、ブラジルの安定を保つために政治に介入することもなくなった。歴史家はペドロ2世の「体制の運命への無関心」が強まり、帝政の体制が脅かされるときもそれを保護すべく行動しなかったことで、ペドロ2世は帝政の崩壊の「主要な、またはおそらく全部の」責任を負うべきと考えている。 帝国の将来を新方向に引っ張ることのできる後継者がいなかったこともブラジル皇家の長期的な展望を脅かした。ペドロ2世の継承者は長女のイザベル皇女であったが、彼女は女帝になることを予想しておらず、そう望んでもいなかった。ブラジル憲法は女性が帝位を継承することを許可したが、当時のブラジルは伝統的な男性主体の社会であり、国家元首には男性君主こそふさわしいと広く考えられた。ペドロ2世、統治層、既成勢力の全てが女性継承者を不適当と考えており、ペドロ2世自身は2人の息子(アフォンソ(英語版)とペドロ・アフォンソ(英語版))の死と男性後継者の不在を帝国が破滅する運命にあるとの証と見ている節があった。 もはや帝位に執着のない疲れ切っていた皇帝、帝位を継承する欲求のない継承者、皇帝の国務に関する役割への不満が日に増していた統治層は全て帝政を崩壊に導いた。帝政の制度を崩壊させる手段はやがて軍部の中から現れた。共和主義はエリート層の一部を除いてブラジルで広範な支持を得たことはなく、地方からの支持は少なかった。しかし、軍部の後進や中間層の士官の間で共和主義と実証主義が広まったことは帝政への脅威になった。彼らは共和政をとる独裁体制が自由派の君主制より優れているとして、独裁体制を支持した。軍部の不満は1880年代の小規模な不服従に始まったが、皇帝は関心を持たず、政治家も政府の軍部への権威を再樹立できなかったため、軍部の不服従は時がたつにつれて規模が増大した。 フランスの支持を得て成立したメキシコ第二帝政が1867年に崩壊したことで、ブラジル帝国はラテンアメリカ唯一の君主制国家になり、その状態は1889年まで22年間続いた。
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