こうご‐ねんじゃく〔カウゴ‐〕【庚午年籍】
庚午年籍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 21:15 UTC 版)
646年(大化2)改新の詔を発布して今後の政治改革の方針を示した(しかし、今日では改新の詔は後世作られたものとするのが通説である)。 647年(大化3)から664年(天智3)までの間に一括投棄された飛鳥京の木簡に「白髪部五十戸、◎十口」とある。◎は「師」の旁が「皮」の文字(鍬)。五十戸を単位として行政的に把握する試みが進められていたことを示している。この統一的造籍、行政的村落把握を実施するには、体系的な法が必要である。弘仁格式序に「天智天皇元年に至り、令二十二巻を制す、世人所謂近江朝廷之令也」と伝える。これがいわゆる近江令である。 明日香の石神遺跡から「(表)乙丑年十二月 三野国ム下評 (裏)大山五十戸造 ム下部知ツ」と記された木簡が出土した。これによって、庚午年籍よりも前の665年に、評里(五十戸)制が施行されており、おそらくは造籍のなされていたであろうことが明らかとなった。常陸国風土記などによれば、立評作業が大化5年(649年)と白雉4年(653年)に行われており、『日本書紀』白雉3年4月の「是の月、戸籍を造る。凡そ五十戸を里とし、里ごとに長一人」という記事も、一概に捨てがたい。 『日本書紀』には670年(天智9)二月条に「戸籍を造り、盗賊と浮浪とを断ず」とみえる。これが日本で最初の全国的な戸籍で「庚午年籍」とされる。畿内はもちろん、西は九州から東は常陸、上野まで造籍の実施されたことを示す。氏姓を確定する台帳の機能を果たしたものと思われる。 「庚午年籍」は現存しておらず、全国的に全ての階層の人民を対象にして造籍したのかどうかも疑われている。つまり、氏や姓を持つ首長や豪族の民までも把握できたのかということである。しかし、その後の六国史の記事で、かなり下層の人々の改姓訴訟や、あるいは良賤訴訟の際にも、庚午年籍が証拠として参照されている。また、承和6年(839年)には、左右京職并びに五畿内七道諸国に、庚午年籍を写し進ることが命ぜられ、それらが中務省の庫に納められたところをみると、初めての全国(当時の)全階層の戸籍としてよいようである。
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