班子女王とは? わかりやすく解説

班子女王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/10 15:49 UTC 版)

班子女王
第59代天皇母
皇太后 寛平9年7月26日897年8月27日

誕生 天長10年(833年
崩御 昌泰3年4月1日900年5月2日
別称 洞院后
父親 仲野親王
母親 当宗氏
配偶者 光孝天皇
子女 宇多天皇
源元長
忠子内親王
簡子内親王
綏子内親王
為子内親王
女御宣下 元慶8年4月1日884年4月29日
皇太夫人 仁和3年11月17日887年12月5日
立后前位階 従二位
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班子女王(はんし(なかこ)じょおう、天長10年(833年) - 昌泰3年4月1日900年5月2日))は、平安時代皇族光孝天皇女御宇多天皇の母、皇太后洞院后と称された。仲野親王桓武天皇皇子)の娘で、母は正一位当宗氏。寛平御時后宮歌合の主催者。

生涯

光孝天皇の親王時代からの是忠親王是貞親王、定省親王(のちの宇多天皇)、源元長忠子内親王簡子内親王、綏子内親王、為子内親王をもうける。元慶8年(884年)の夫光孝天皇即位に伴い、同年4月1日女御となる。藤原基経の異母妹の尚侍藤原淑子と親密な仲で、所生の定省王を淑子の猶子としており、この関係が夫光孝天皇の即位の一因ともされている[1]仁和3年(887年)、定省が宇多天皇として即位すると、同年11月17日皇太夫人となり、さらに寛平9年(897年)7月26日には皇太后となった。昌泰3年(900年)4月1日、68歳で崩御

脚注

  1. ^ 角田、p.131

参考文献

  • 角田文衛『日本の後宮』(学燈社 1973年(昭和48年))
  • 芳賀登 他 監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1998年、p. 861




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