く‐なん【苦難】
苦しみ
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概要
苦しみは、第一に身体的過程か精神的過程のいずれに結びついているのかに依存しているゆえに、「身体的」あるいは「精神的」と呼ばれるかもしれない。身体的な苦しみの例は、痛み、吐き気、呼吸困難、痒みである。精神的苦しみの例は、不安、嘆き、憎しみ、退屈である。
苦しみの強さは全ての程度において、つまらない軽いものから筆舌に尽くしがたい耐え難いものに至る。生じた事態の持続性と頻度の要素は、しばしばその強さに従って考慮される。
痛みに対する人々の態度は、どの程度それが、軽いあるいは重い、回避可能あるいは回避不能、役に立つあるいは役に立たない、些細あるいは重大、適切あるいは不適切、選ばれたあるいは望まれない、受け入れられるあるいは受け入れられない、と見なされるかに従って非常に変化する。
「苦痛(痛み)」 (pain) と「苦しみ」 (suffering) という語は、混同されるし注意深い取り扱いが要求される。(1) それらは、しばしば同義語であり、交換可能である。 (2) それらは、しばしば相互に対比して使用される。 (3) 一方が他方が指示する様々なものをしばしば指示する。例えば、「痛みは身体的な苦しみである」とか「苦しみは激しい身体的ないし精神的苦痛である」等々。 (4) しかし、しばしば人々はそれらを別の仕方で用いたりもする。
全ての感覚をもつ存在者は、その生存の間に、様々な仕方でしばしば劇的に、苦しみをもつ。人間的活動の全ての領域が苦しみに関するあらゆる問題に関わるわけではないが、多くの事柄がその性質や過程、起源や原因、意味や重要性、その関係する個人的、社会的、文化的行為、その救済、取り扱い、使用等々に関わっている。
哲学的、倫理学的観点
倫理学理論としての快楽主義は、善きものと悪しきものは究極的に快楽と苦痛に存していると主張する。エピクロスのような多くの快楽主義者は、快楽の追求よりも苦しみの回避を強調した。なぜなら彼らは、最大幸福が苦痛から自由で快楽のわずらわしい追求や余計な帰結から自由な平静な状態(アタラクシア)のうちにある、と主張したからである。ストア派にとって、最大の善は理性と徳のうちにあり、魂は快楽や苦痛へのある種の無関心(アパテイア)を通じて最もよくそれに到達する。結果として、この学説はもっとも悪い苦しみを前にしてさえ自制することと同一視された。
ジェレミー・ベンサムは、倫理学、政治学、経済学において大衆的な学説である快楽主義的功利主義を展開した。ベンサムは正しい行為や政策は「最大多数の最大幸福」を惹き起こすだろうものであると論じる。かれは、いかに多くの快楽と苦痛がなんらかの行為から帰結するだろうかを規定するために、快楽計算あるいは幸福計算と呼ばれる手続きを提出した。ジョン・スチュアート・ミルは快楽主義的功利主義の学説を改善し推進した。カール・ポパーは、『開かれた社会とその敵』において、功利について語る際に幸福の増進よりも苦しみの縮減を優先させる消極的功利主義を提案した。すなわち、「倫理的な観点から、苦しみと幸福、あるいは苦痛と快楽の間のいかなる対称性も存在しないと私は信じる。 (…) 人間の苦しみは助けに対する直接的な道徳的な懇願を作る。何にせようまくやっている人の幸福を拡大することに対していかなる似たような使命も存在しない」。デイヴィド・ピアースの功利主義は率直に苦しみ(ここでは、「生物学的、神経学的、心理学的諸相」の下で見よ)の廃絶を要求している。多くの功利主義者は、ベンサム以来、存在者の道徳的状態は快楽と苦痛を感じる能力に由来しており、従って道徳的行為者は人間存在の利益だけでなく動物の利益も考慮に入れる、と考えている。リチャード・D・ライダーは、そのような見解を「種差別」 (speciesism) や「苦痛主義」 (painism) の概念において展開した。ピーター・シンガーは、彼の著作『動物の解放』 (Animal Liberation) や他の著作とともに、この種の功利主義の最先端を示している。
苦しみの救済に関わる他の学説は、人道主義 (humanitarianism) である(人道支援 (humanitarian aid) や人道的社会 (humane society) も見よ)。「人道主義的な努力が感覚を持つ存在者に対する積極的な付加物を見出すところでは、幸福なるものをより幸福にするよりはむしろ不幸なるものを幸福にする。 (...) [人道主義は]、多くの社会的様態の構成要素である。現代社会においては、様々な動機が見出されるので、それ自身で存在していると言えるものはほとんどありえない」[1]。
悲観主義 (pessimism) は、アルトゥル・ショーペンハウアーがよく知られた形で述べるように、この世界を、悪化し止められない苦しみに悩まされる可能な限り最も悪いものとみなす。ショーペンハウアーは、芸術や哲学、生への意志の喪失や「苦しむ仲間」 (fellow-sufferers) についての寛容さのようなものに逃避することを勧める。フリードリヒ・ニーチェは、最初はショーペンハウアーの影響を受けたが、力への意志を称え、弱者への同情や哀れみを軽蔑し、最大の苦しみの「永遠回帰」を自ら受け入れるという全く別の態度を後に展開した。
痛みは、感覚知覚としては痛覚に集中するが、その内容の多くは苦しみ一般にも関わるのである。
脚注
- ^ Crane Brinton, article Humanitarianism, Encyclopaedia of the Social Sciences, 1937
関連項目
苦難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 23:08 UTC 版)
連邦政府に雇われたヨーロッパ系アメリカ人がブラックフットの居留地に残っていたバッファローを狩猟したため、1800年代半ばのブラックフットの食糧調達はじり貧になっていった。開拓者たちも部族の領域に侵入していた。バッファローを狩れないので、ブラックフットは連邦政府からの食料供給に頼ることを強いられた。1855年、ブラックフットのレイム・ブル酋長は連邦政府と平和条約を結んだ。レイム・ブルの条約の内容は、ブラックフットが居留地へ移動する代わりに、年間2万ドルの支援をするというものだった。 1860年には、ごくわずかなバッファローしか残っておらず、ブラックフットは完全に政府の食糧援助に依存していた。食糧が彼らのもとに到着する前に腐っていたり、または全く届かないこともしばしばあった。飢えと絶望から、ブラックフットは食糧を求めて白人を襲撃し、双方の無法者たちによる争いが起きた。 1867年、若いピーガン族の戦士オウル・チャイルドがアメリカ人の商人マルコム・クラークから数頭の馬を盗んだことが引き金となり事件が起きた。クラークはオウル・チャイルドを追跡し、報復としてオウル・チャイルドの宿営地から丸見えの場所で彼を激しく殴打し、屈辱を与えた。ピーガン族の口述の歴史によれば、クラークはオウル・チャイルドの妻を強姦したとされる。しかし、クラークはオウル・チャイルドのいとこでもあるCoth-co-co-naというピーガン族の女性と長い間婚姻関係にあった。強姦された女はその子供を産んだが、死産となったかバンドの年長者に殺されたとされる。2年後の1869年、オウル・チャイルドと彼の仲間数名は夕食後にクラークの農場を襲撃し、殺害した。彼の息子ホレスも重傷を負った。この事件の知らせを聞いた人々は激しく抗議し、フィリップ・シェリダン将軍が騎兵隊を派遣することになった。オウル・チャイルドを追跡して捕らえ罰するための騎兵隊はユージン・ベーカー少佐が率いた。 1870年1月23日、騎馬隊はピーガン族の宿営地についての情報提供を受けたが、誤って違うバンドを敵と認識してしまった。夜明けとともに、200人前後の兵士がキャンプを囲み、奇襲の準備をした。射撃号令が出る前、ヘビーランナー酋長は宿営地の上の雪が積もった崖に展開する兵士たちに警戒していた。彼は安全通行権証紙を携え、断崖の方へと歩いて行った。ヘビーランナーと彼のバンドのピーガン族はアメリカ人の開拓者や軍と友好的な関係を築いていた。ヘビーランナーはジョー・コベルに銃撃され殺害された。彼の仲間のジョー・キップは誤りに気づき、隊にシグナルを送った。彼は騎馬隊が友好的な人々を攻撃したと報告されることを恐れた。 ヘビーランナーが死んだ後、兵士たちが宿営地を襲撃した。173人のピーガン族が死亡したが、騎兵隊の死亡者は落馬して足を骨折した後に合併症で死亡した1人だけだった。犠牲者の大半は、女と子供と老人だった。若い男たちはほとんど猟に出かけていた。140人のピーガン族が捕らえられたが、すぐに解放された。宿営地や所有物を破壊された彼らは亡命者となり、フォートベントンへ向かったが、多くが凍死した。 大虐殺の報告は徐々に東部にも認知され、連邦議会の議員やメディアを憤慨させた。ウィリアム・シャーマン将軍は殺害されたのはほとんどがマウンテン・チーフに率いられた戦士だと報告した。政府の公式な調査は行われず、大虐殺があった場所を示す記念碑も存在しない。ウンデット・ニーの虐殺やサンドクリークの虐殺と比較して、マライアスの大虐殺は広く知られていないままである。しかし、ユリシーズ・グラント大統領は陸軍がインディアン事務局を引き継ぐことを承認せず、インディアン事務局の堕落を食い止めるように提案した。グラント大統領はネイティブアメリカンとの平和政策を遂行するために、多数のクエーカー教徒をインディアン事務局に任命した。 クリー族とアシニボイン族もバッファローの減少に苦しんでいた。1850年までにはバッファローはもっぱらブラックフットの領域だけにしか見られなくなっていた。それゆえ、1870年にアイアン同盟の複数のバンドは戦闘を始めることによって、獲物を見つけるための最後の努力をした。彼らは天然痘で弱体化したブラックフットを倒し、ウープアップ砦近くの宿営地を襲撃することを期待した。しかし、レスブリッジ近くで起きたベリー川の戦いでブラックフットに敗れ、300人以上の戦士が死んだ。冬になると飢えのためにブラックフットと交渉することを余儀なくされ、最終的かつ永続的な和平が結ばれた。 連邦政府はブラックフットに不利な影響を与える法案を通過させた。1874年、連邦議会はブラックフットとの話し合いをせずに居留地の境界を変更することを投票で決定した。ブラックフットが失った土地の代替地や補償を受けることはなかった。カイナイ族、シクシカ族、ピーガン族はカナダへ移動し、南ピーガン族(ピクニ)だけがモンタナ州に残った。 1883年から1884年にかけての冬は政府からの物資も届かず、バッファローもいなくなったため、「飢餓の冬」として知られるようになった。冬の間に600人のブラックフットが餓死した。 ネイティブアメリカンをヨーロッパ系アメリカ人の生活様式に同化させる目的で、政府は1898年に部族政府を廃止し、伝統的な宗教や慣習を禁止した。ブラックフットの子どもたちはインディアン寄宿学校に入らされ、部族の言葉を話すことも、慣習を守ることも、伝統的な衣装を着ることも禁止された。1907年、居留地の土地を各家庭の主へ割り当て、部族の共有地を廃止して家族ごとに農業を営むことを奨励する政策を連邦政府は承認した。各家庭は65ヘクタールの農地を受け取り、部族が必要な土地より余分な残りは政府が公表し、開拓のため公売にかけられた。割り当てられた土地は、不毛な平原で農業をするにはあまりに狭すぎた。1919年の干ばつでは穀物が枯れ、牛の価格が上昇した。多くのネイティブアメリカンは割り当てられた土地を売却することを強いられた。 1934年、フランクリン・ルーズベルト政権はインディアン再編成法を可決し、土地の割り当てを中止し、部族が彼ら自身の政府を選択することを許可した。また、部族の文化を守ることも認められた。
※この「苦難」の解説は、「ブラックフット族」の解説の一部です。
「苦難」を含む「ブラックフット族」の記事については、「ブラックフット族」の概要を参照ください。
「苦難」の例文・使い方・用例・文例
- 彼の妻の献身で彼は苦難を切り抜けた
- 彼らは苦難の生活を強いられた
- 十字架を背負う,苦難に耐える
- 苦難に耐える
- 人生の苦難
- 彼は苦難によく耐えた
- 苦難の道,いばらの道
- 彼は歯を食いしばって苦難に耐えた
- 戦争中のあらゆる苦難
- あなたは、さまざまな苦難を乗り越えて、結婚にたどり着きました。
- この100年、ユダヤ人ほど苦難をなめてきた民族はいないだろう。
- 彼女は勇敢でほがらかで、いつも自分の苦難などは問題にしなかった。
- 彼女はどんな苦難にも耐えられる人だ。
- 彼らは戦争中非常な苦難に耐えねばならなかった。
- 彼らはその苦難と損失のついて知ってしまった。
- 彼は多くの苦難を経験しなければならなかった。
- 彼は多くの苦難を経験した。
- 彼は若い時分に多くの苦難を味わった。
- 彼は若いころ多くの苦難を受けた。
- 彼は若いころの苦難を経験した。
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