ならなしとり

外来生物問題を主に扱います。ときどきその他のことも。このブログでは基本的に名無しさんは相手にしませんのであしからず。

手間をかけない情報の取捨選択法

2011-06-30 08:01:19 | 議論
 今回は、情報の取捨選択について書きます。ここで紹介するのは簡単にネットに潜む雑音を排除して確からしい情報を判別する方法です。簡易的なものが多いので、多少例外はありますが、線引きの基準としてわかりやすく手間がかからないのが利点です。引き合いに出しているのは武田邦彦氏です。
1. 権威を判断基準とした場合
 一般的に論理的思考に関する本では権威に頼った論理展開を避けるように勧められています。しかし、医者が診察するのと素人がするのとでは病気や怪我の判断の精度に差が出ます。逆に、その人が権威を持つ理由と言っている内容の間に相関がない場合(例:文学が専門なのに生物学のことについて発言する)はその人を権威として信頼するのはやめた方が良いです。とりあえず、その人を権威として信頼する前にどのような分野で業績があるのかくらいは調べましょう。その人のプロフィールでも見れば多少はわかるでしょう。
これを武田氏にあてはめますと、そもそも彼の専門分野は資源材料工学であり、生物多様性にかかわる保全生態学や進化生物学、分類学の専門家ではありません。

2. 自分の専門分野で妥当なことを言っているか
誰しも、自分の得意な分野、言い換えれば専門分野を持っていると思います。自分の専門分野においてその人がどういう発言をしているか観察してみましょう。あからさまに間違ったことを言っている場合はほかの分野でも同じ過ちを犯している可能性もあります。
武田氏は・・・・・・お察しください。これからさらに明らかになっていくと思いますが・・・・・・。

3. 根拠は明確に示されているか
 発言をするときに根拠が示されているか注意しましょう。具体的には「この人はどういう理由でこう言っているのだろう?」と念頭に置いておくとよいです。 
他者が検証しやすいよう出典を明らかにしている発言は確実性が高い傾向があります。出典をたどられて誤った引用をしていたりすれば、それが明るみに出る可能性が高いからです。普通はそういったことは論者としての信用を下げるのでまともな論者ならやりません(少なくとも頻繁に意図的に起こすとは考えにくい)。さらに訂正できる形で情報提供していれば、仮に間違ったとしても訂正を通じて確かな情報を広げることに貢献できます。
逆に、根拠のない発言はただの雑音です。無視しましょう。あくまで梨個人の経験ですが、根拠を問われてきちんと明示できるかが建設的な議論をできる人とそうでない人の境になっている気がします。
科学書であるならば、最低限グラフなどの出典の明記と巻末に参考文献の記載くらいはしてほしいものです。
ちなみに武田氏の「生物多様性のウソ」にはグラフの出典どころか巻末に参考文献すらありません。
参考文献
「哲学思考トレーニング」伊勢田哲司(2005)

信頼できる発言と信頼できない発言を見わける基準、バスビー教授のTVインタビューへの疑問

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武田邦彦の「生物多様性のウソ」を読む

2011-06-24 21:27:58 | 武田邦彦
  武田邦彦が6月の初めに「生物多様性のウソ」という本を出しました。読んでみた結論から言うと、池田清彦以下の質で参考にできる部分は皆無です。論拠を示さない発言が多くまともに取り合う価値もないし、買う必要もありません。これを読んでどうしても気になったら立ち読みで済ませましょう。
とはいえ、どこがおかしいのかよくわからない人、違和感はあるけれど言葉にできない人、実際にこの理屈でからまれてきた場合の対処法がほしい人はいると思います。
ここでは、そういった人をターゲットに武田邦彦の事実認識、論理のおかしいところを指摘していきます。
それでははじめていきましょう。

P12
「東京23区の自然は破壊されているかと?」と聞かれて「自然は豊かに残っています」と答える人はいないでしょう。皇居を除けば東京23区はコンクリート・ジャングルで大型の野生動物などは全く生きていくところがありません。


しょっぱなからトバしてくれます。まず、東京タヌキ探検隊のタヌキ・ハクビシン・アライグマの目撃情報の集計によると、練馬区や杉並区、新宿区などでタヌキが多く見られるようです(詳しくはリンク先参照)。皇居以外でも大型の動物がいないわけではありません(こう書くとタヌキは中型動物とかいう人も来るかね)。
また、外来魚類の投棄が多くタマゾンとすら呼ばれる多摩川でも近年では天然アユの遡上が確認されています(多摩川のアユ、推定遡上数が過去最高を記録!)。アユは川と海を行き来する回遊魚ですから、川と海の両方の環境が整わなくては生息できません。むろん、侵入してくる外来生物などはありますが、一方で環境は改善されている部分もあります。
また、P20とP28にはそれぞれ生物の属の数と絶滅割合を示したという図が出てきますが、これが奇妙です。まず出典が明らかにされていません。何のデータをもとに作ったのか全く分かりません。読者がより深く理解したい場合、出典を示さないのは非常に困ります。それらしき文献を自分で調べ、判断しなければならないのですが、仮に武田氏に「こういうこと?」と聞いても武田氏が「違う」と答えたらやり直しです。
どうして武田氏は読者に意地悪をするのでしょう?
さらに、もう一つ問題があります。武田氏はこのように主張しています。


P21~22
自然界の中には時々、遺伝的に弱い「種」ができこともあり、そのような種は短い期間に絶滅します。しかし、「属」となると複数の種を含みますので、容易には絶滅しません。そこで長い歴史を見るときは「属」で整理する方が適当です。


しかし、P28ではこのようなことを書いています。


上のグラフは先に示したグラフと同じ時間の幅のものです。
カンブリア紀が始まってから3億年余り続いた古生代では、グラフのピーク(鋭い山のようになっているところ)が多く見られます。このピークは「生物種の数がどれくらい絶滅したか」を示すものですから、古生代にはしょっちゅう、生物の大量絶滅があったことがわかります。


先に示したグラフというのはP20の生物の属の数を示したというグラフのことです。
なぜ武田氏は長い歴史を見るときに適当であると自分から主張している“属”ではなく“種”で絶滅割合を評価しているのでしょう?武田氏の言葉を借りるなら、種は短い期間に絶滅するものもいますから、属で評価するより過大評価になりそうなものですが。
第一回目はこのくらいで終わります。さて、梨のSAN値は予定していた批判をすべて終えるまで持つでしょうかw



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武田邦彦と生物多様性0

2011-06-18 22:06:05 | 武田邦彦
 お久しぶりです。最近は忙しさにかまけて記事を書いていませんでした。武田邦彦が生物多様性分野で不適当なことを書き散らかしています。とうとう、「生物多様性のウソ」という本まで出版されました。今、読んでいますが、いろいろと笑える出来ですね。この本の書評はまた後程として、彼がブラックバスについてあからさまに調べていないので突っ込みを入れてみます。

「生物多様性」の偽善 ブラックバスが不人気なのは味のせい

外来種についても同様で、日本では外来種は駆除して在来種は守るのは当たり前のことのように考えられているが、そもそも日本の生物が多様なのは、四季があり、寒い地域と暖かい地域の両方から外来種が入ってきたからである。


そもそも、外来種をどういう意味で使っているのか不明。まさか、人により持ち込まれたもの以外も含んでませんか?あいにくと、外来種が入ってきて生物多様性が多様化したなんて日本どころか世界レベルでも聞いたことがありませんが。ここで言う多様化というのは単純な種数の話ではなく、生物間の相互作用、それが織りなしてきた進化的歴史も含むのですけど。外来種問題の根本である生物学的均一化についても書いてみましょうか。


日本にブラックバスが入ってきてすでに1世紀近くが経つが、この魚が嫌われるのは食べてもあまり美味しくないという理由だけである。フナより美味しくて高額で売れるのなら、喜んで繁殖させるはずである。

うん、ごめん、あなた取材してないでしょ?ブラックバスって美味しいから。皮に臭みがあると言われるので、皮をはいできちんと処理したブラックバスは淡泊で美味しいです。琵琶湖博物館のレストラン「にほのうみ」ではブラックバスの天丼がメニューにあります。僕も今までに3回食べていますが、非常に美味しいですね。琵琶湖博物館に行った際にはぜひどうぞ。
話がそれました。このような文章を書くということは、裏を返せば実際に現地に赴いて食べてみるということもせずに想像で語り、下調べも碌にしていないということです。
さて、もう一つ指摘しておきましょうか。ブラックバスが嫌われる理由というのは在来の魚類、昆虫類などを捕食するからです。漁業という面で見れば、有用魚種であるワカサギ等の捕食も含まれますか。欺瞞云々いうなら、せめてワカサギは良くてなぜブラックバスがダメなのかという論理展開の方がまだそれらしく見せられますけどね。
ブラックバス問題に口をはさむなら、せめて環境省のオオクチバス小委員会の資料に目を通さないと現在では話にもならないのですが、この人を含めブラックバス問題に異議を唱える人がそれに目を通した形跡がかけらもないのはなんとも。
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批判者が求められてしまうもの

2011-06-10 22:28:07 | 議論
 いろいろ要求されると疲れるよねという話です。梨の暗黒面が噴出しているのでそれでもいいという方のみ推奨。
このまとめを読んで思ったことです。

Togetter - 「科学者への信頼は失われたのか?科学者達の努力と疲弊」

僕には関心のある数少ない科学者、サイエンスライターにこんなことを言っても彼らをより疲弊させるだけにしか感じられません。
大体、科学者の欠如モデル(一般人には科学的知識が不足している)では全然だめだという平川氏からして科学者にはコミュニケーション能力が不足しているという欠如モデルを使う始末。
コミュニケーションの専門家らしいですが、科学者側に伝える気あるんですかねぇ?相手はダメでも自分は使うなんてダブルスタンダードに見えますが。モチベーションの維持は科学者にゆだねてバックアップする気は疑わしく見えます。そもそもきちんとバックアップできる人なんて宝くじの一等より稀有で、無能が大手を振っているのが現状ですが。

 僕は科学系の議論は批判側(専門知を持つことが多い)にいろいろ高いものを求められるのが前々から不満でした。事実関係はともかく、交渉スキルに高潔な人格まで備えろと?人を聖人君子にでもする気ですか?聖人君子扱いってのは早い話が人として扱われなくなることだと僕は解釈していいます。不躾な質問にも答えろとか、懇切丁寧に説明しても「やっぱ感性優先させますw」な対応に耐えろとか、相手を自分と同じ人として見る気がないですよね。自分がそれをされたらという視点があるんですかね?
わかりやすい例でいえば火山の人(青プリンとも)。あの人なんか、専門資料、書籍を1Pも読む気はないけど俺に理解させてみろと言わんばかりの態度ですよ。あんなの相手にどうしろと。
科学者ないし相当する知識のある人って無償の場合ですらどんな相手もお客様と思わないといけないんですかね。大体、ニセ科学批判やる人は優しいから(梨はどうだか知らん)そこらへん(わかりやすさ、表現方法等)ある程度は汲んでくれるけど、批判者の善意に頼るしかないのであれば早晩崩壊しますよね。はっきり言って、現状の批判者は体のいいサンドバックでしかないのでは?とすら思う時があります。不満は聞いて、わかりやく教えて、でも理解させるのはそっちの責任だからねw(私が理解できないのはあなたが悪い)・・・・・・アホかと。社会的な問題を個人のモチベーションにゆだねられても息切れしますよ。聖人君子という名のサンドバックに誰が好き好んでなるか。で、このところの科学コミュニケーションの議論を見ていても、科学サイドを聖人君子化させようとするように見えて仕方ないです。

 僕としては、事実関係について厳密さを要求されるならそれなりに理解できるのですが、言葉尻を取り上げられて延々関係ないことを喋り散らされてもうんざりします。苛立ちが溜まってガス抜きすると今度はお作法のご注進が来ますしね。
よりよい方法云々いう人には「じゃあ、あなたが始めてください。無論、成果も出してください」でいいのではないですかね。いちいち真に受けていたらこちらの精神が持たない。使えそうなとこだけつまみ食いでいいでしょ。

 こういうことを言う書き手は嫌われるんでしょうが、わかりやすさや自分の世界を守るためでしか物事を判断しようとしない読者は成長しないと言っても差し支えないでしょう。わかりやすさは客観的な基準ではないし内容の妥当性と無関係に存在しうる。極端な例でいえば、小説ですよね。あれの面白さは科学的な事実とは別のところにありますし。科学的に見たら荒唐無稽だろうと面白さがそこで決まるわけではありません。自分の世界を守るためというのは逆に視野を狭める危険性があります。自分の世界観に合わなければ無視するなりその場しのぎの言い訳を重ねる場合がありますから。


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専門家の見解と熊森の大本営発表

2011-06-07 22:37:31 | 熊森
 ようやくというか、やっとドングリをクマに与えることへの専門家の見解が出ました。

「ドングリを収集し熊に与える行為」について:専門家コメント
おおむねまっとうで素人に見せる分にもさして問題ない見解でしょう。一つ個人的に気になったのが、中村 幸人教授のこの文章です。


しかし緊急避難的な一時的な持込みは継続的な持込みより影響は小さいでしょう。


熊森は継続的に大量にまいているんですが?何やってるか把握してるんですよね・・・・・・?


 間接的にはドングリが発芽・定着して成長し、森の生態系に影響を与えるのではないかという心配があります。土壌と日射、気温、降水量などの気候要因が適していれば、ドングリの発芽は促せるでしょう。人々の暮らしている暖温帯に多いドングリは常緑のカシ類、コナラやクヌギを冷温帯のいわゆるブナ林域に置いても発芽は難しいでしょう。発芽してもほかの樹種との競争に勝って成長することは厳しいと言えます。また、ドングリは昆虫による食害を受けやすく、生残の可能性も少ないものです。したがって持ち込まれたドングリが成長して森を変えてしまうことはないと思います。


たしかに森を構成するドングリがすべて他種に置き変わるということは現実的でないかもしれません。しかし、地理的に近い地域個体群間の場合の遺伝子攪乱の場合はどうするんですか?一般向けだから話をややこしくしないように省いたのだと思われますが。

 さて、次は熊森の大本営発表について。

さらなる野生鳥獣の捕殺促進拡大をはかる、環境省「第11次鳥獣保護事業計画の基本指針(案)」に対するパブリックコメント 6月10日締切

うん、多くは語りません。まぁ読んでみてくれ。辟易するから。
一つ突っ込むなら、獣害対策では予防が非常に重要ということは関わる人なら常識なんだけど、熊森はなぜかそこに触れずに“殺す”ことだけを強調しています。煽っているといってもいい。
自分たちでおびき寄せる要因を作っておいてこの発言はまさしくマッチポンプですね。
パブコメなんて内容を完全に理解していないと有効たり得ないのですが、熊森は数の暴力を使うつもりでしょう。パブコメは人気投票ではないという基本的なこともわからないようで。
このようなやり方はかつてのブラックバスのパブコメを思い出させます(そのころから熊森は外来生物駆除反対でバサーと歩調を合わせていた)。
また、無駄に善意が消費されますか・・・・・・。
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標本に意味を見出さない生物多様性祭り

2011-06-04 23:53:43 | 保全生態学
 先日、長野県のお好み焼き屋で火災が発生し、そこに収蔵してあったカブトムシなどの標本が焼失するということがありました(参照)。これに対して、「所詮、虫採りマニアの道楽だろ」的な意見(ここのブックマークにて虫の死骸は無意味等)があるので、それに対してちょっと反駁してみます。分類や標本にはこういう意義があるよということで。
分類というのは、人間が自然界を把握するために重要なことです。極端な話、食用と間違えて毒キノコを食べたら大変なことになります。分類されていれば、食用かそうでないかを見極めることも可能になります。
梨は分類学については、分岐分類をかじった程度の素人なので、間違いがあったら適宜指摘してください。
では、標本の意義について説明をしたいと思います。
1.過去の生物相を把握する
シーボルトが持ち帰り、現在、オランダのライデン博物館に収蔵されている標本は当時の西日本の魚類について知る1級の資料となっています。それだけでなく、その標本をもとにメダカをはじめとする多くの西日本の魚類に学名がつけられています。このとき、学名をつける基準となった標本をタイプ標本といいます。タイプ標本はその種を知るための重要なものさしです。
シーボルトが集めてきた標本の価値は、200年近くたった今でもゆるぎないものです。

2.外来生物の侵入を明らかにする
事例がマニアックですまないんですが、ヒルミミズという大陸産の外来生物がいます。釣り餌のエビに紛れ込んで(正確にはエビに寄生して)日本に侵入したということがわかっています。なんでそんなことが分かったかというと、標本のおかげでもあります。
これを発見した人は、ヒルミミズの侵入時期を調べるに当たり学校に年代別に保管してあったエビの標本を調べてヒルミミズに寄生されたエビの標本を見つけ出し、いつごろ侵入したのか明らかにしています。
このほかにもチョウや植物の標本は、標本が採取された当時の気候などを知る手掛かりになります。
ここまで書いておいて、重要なこと一つ忘れていました。それは、標本は的確に分類され、適切に保存される必要があるということです。的確に分類というのは、産地、採取時期、種名が明らかにされていることで、適切な管理というのは、それらが劣化、消失しないように管理されているということです。
適切に管理された標本というのは、過去の生物相を把握したり、外来生物の侵入や気候変動の兆候をつかむのに非常に有用なんですね。
このように標本というのは公的な性質の強いものです。特にタイプ標本というのは、後々まで続く学問の礎になるものです。もしも、その種の中にいくつかの種が実はいましたなんてことになれば、タイプ標本とすり合わせてどの種がどのように分類されていたのか明らかにしなければならないわけですから。
というわけで、お好み焼き屋の上にタイプ標本があるなんてことは、社会が負う責任を個人に負わせているという意味で本来はあってはいけないわけです。きちんと博物館に分類学者を配置してそこで管理するのが筋。日本は去年、国も民間も生物多様性とはしゃいでいたわけですが、足元が見えていないようではこの先の展望は望めないでしょう。
コメント (4)
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