スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

もっと考えてほしい、土用丑の日

2010-07-30 22:14:29 | スウェーデン・その他の社会
(でも考えようにも情報が与えられていない・・・)


26日は土用丑の日だった。ウナギの消費量が一年で一番大きい日だ。しかし、日本のテレビや新聞のニュースの見出しには「今年はウナギに異変」「今年は稚魚の不漁で価格が高騰」といった悲観的なものが目立った。

世界一のウナギの消費量を誇り、ヨーロッパからもウナギを輸入して食べ続けている日本。この資源の深刻な現状に目を向けさせる報道かと思いきや、全く期待はずれの内容だった。

ニュースの報道は、今年の稚魚の不漁の原因は産卵場所が南に100kmほど移動したために生まれた仔魚(レプトセファルス)がうまく日本行きの海流に乗れず、フィリピンやインドネシアのほうに流れていってしまった、というものだ。その後には、品薄・割高の国産品を補うために台湾や中国からの輸入が今年は多いこと、そして、わずか数年前には輸入品が敬遠されたこともあったが値段がお手頃であるため消費者が再び輸入品を選ぶようになった、という報道が続く。言ってみれば「今年は稚魚の漁獲が減少したために国産品が品薄だが、輸入が再び増えているから今年もちゃんとウナギが食べられる。良かったね!」というわけだ。自国の消費者をことを一番に考えた、なんと親切で素晴らしいニュースなんでしょう。

しかし、こんな報道は、問題の本質を突いておらず、ニュースの受け手に間違った印象を与えているとしか思えない。たしかに産卵場所が移動したというような自然現象も一つの原因だろう(ただし、ニホンウナギの産卵場所は僅か数年前に判明したことなので、それが今年に限って100km南下した、というのは推測だろう)。また、産卵場所の南下ではなく海流そのものの勢いや流れ方が変化したために、稚魚が日本に達しないということも近年指摘されている。

しかし、それと同じくらい大きな原因があるのではないだろうか?

そもそも、この偏った報道の問題は、ウナギの稚魚が少ないために養殖の生産量が減少したのが、あたかも今年に限ったことだという印象を与えている点だ。しかし、現実にはウナギの稚魚(シラスウナギ)の漁獲量はすでに1980年の時点で、最盛期の漁獲量(200トン前後)の4分の1を下回るようになり、それから早くも10年後には1980年時点の漁獲量のさらに4分の1という非常に低い水準に達し、それから現在まで低迷している。だから「今年はウナギの稚魚が不漁」と言っても、それは昨年の超低水準からさらに減ったということに過ぎない。


朝日新聞(2010年7月1日付)より


では、10年以上前から続くこの低水準の原因は何か、というと稚魚の獲りすぎ、つまり「乱獲」ということになるだろう。ウナギは日本のはるかに南方のグアム島付近の海山で生まれ、海流に乗って日本に流れ着く。そして、川を上って湖や沼に達し、そこに10~20年くらい棲む。その後、再び海に出て、もともと生まれた場所に戻り、産卵をし、一生を終える。


水産総合研究センターの資料より


卵が産み落とされ、新たな仔魚が生まれ、それが再び日本にやってくるためには、成熟した親ウナギがちゃんと産卵場所に戻って産卵できなければならない。しかし、現在では小さな稚魚(シラスウナギ)が日本や台湾、中国近海にたどり着くやいなや、ごっそりと漁獲され、養畜場に入れられ大量の餌を与えられて、わずか1年もしないうちに丸々と肥えて食卓に運ばれる。さて、人間の手を逃れて自然界で成長し、数年後、十数年後にちゃんと南方の海に戻ることができるウナギはどのくらいいるのだろうか? ウナギの稚魚の減少はそれでも、地球環境や海流の変化だけが主な原因だと言い続けるのだろうか?

そもそもウナギの生態についてはまだ分からないことが多い。産卵場所もわずか数年前に特定された。毎年どれだけの量の親ウナギが産卵場所に戻っているのかもデータがない。そうだとしたら、ウナギ枯渇という問題の背景にあると考えられる原因は、一つではなく複数だろう。日本のメディアはそれを多角的にしっかり伝えるべきだろう。NHK・民放とも全くダメだった。

それから、日本近海で減った稚魚の漁獲を補うべく、ヨーロッパから大量のウナギ稚魚が中国経由で日本の市場に入ってきたが、そんなヨーロッパウナギ資源量の激減のために、ワシントン条約で国際取引が規制されることになった(この理由としてももいろいろ挙げられているが、獲りすぎが大きいようだ)。その事実を知っている日本人がどこまでいるのだろうか? ヨーロッパからの輸入量が減ればそれは価格に反映される。日本のメディアは、消費者への影響として価格のことばかりを書くが、実は私たちの食文化が海外の資源の枯渇にも寄与しているという責任を、もっと論じても良いのではないだろうか?

<参考>
ウナギについては、共同通信社の科学担当記者である井田徹治氏『ウナギ - 地球環境を語る魚』(岩波新書)にまとめています。井田記者には、7月3日に慶應義塾大学で開催したシンポジウムで、パネル・ディスカッションのモデレーターをしていただきました。

スウェーデンでも専業主婦が多い職種とは?

2010-07-25 00:37:08 | スウェーデン・その他の社会
労働力率という指標がある。労働力人口のうち、どれだけの人が労働市場に参加しているかを示したものだ。ここには、就業中の人はもちろん含まれるし、失業者でも働く意思があり求職活動を続けていれば労働市場に参加していることになる。他方で、退職した人や専業主婦(主夫)はここには含まれない。

この労働力率を年齢階層別に見てみると、日本の場合は女性の労働力化率は25~29歳でピークに達し、その後30~34歳、35歳~39歳で大きく落ち込み、その後回復するという傾向がある。結婚・出産を機に労働市場から退出するM字型カーブと呼ばれるものだ。



アメリカや西欧・北欧の女性の労働力化率を見てみると、労働力化率自体が日本よりも高い水準にあるうえ、M字型カーブの傾向もあまり見られない。その中でも群を抜いているのがスウェーデンであり、30代でも非常に高い水準を維持している。

スウェーデンでは1971年夫婦単位の課税から個人単位の課税に切り替えられた。それまでは夫の給与に妻の給与が加算されて課税額が決まっていたために、様々な控除制度や累進性課税のもとでは、妻の追加的な所得が手取りにそれほどつながらなかった。しかし、それ以降は妻の稼ぎは0から数えられ、夫の所得に関係なく課税額が決まることとなり、就労インセンティブが高まることとなった。この制度改正に加え、保育施設や育児休暇制度が整備されていったおかげで、女性の労働力化率はそれ以降、大きく飛躍を遂げることになった。

既婚か未婚に関係なく、また男か女かに関係なく、自分が稼いだ分に対して税金が課せられ、課税額が決まる。誰もが働いて生計を立てることを基本とした社会であり、自分の稼得に応じて年金権が生じ、老後の年金受給額も決まる。扶養控除もなければ、年金の「第3号被保険者」に相当するものもない。自立を求める人にはよくできた制度だし、依存を求める人にとっては厳しい制度だ。

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そのような制度のおかげでスウェーデンでは当然ながら共働き世帯が多い。専業主婦という例外には、スウェーデンの居住経験に乏しかったり、言葉や職業能力の面でスウェーデンの労働需要とマッチしていない移民・難民の一部の世帯が多い。しかし、最近もう一つ別の例外がスウェーデンにもあることを耳にした。それは、外交官の配偶者だ。

確かに、夫婦の一人が外務省の職員で、国外での勤務が長く、しかも、違う国を転々としなければならない場合、配偶者も一緒について、それぞれの国で仕事をすることは難しくなる。配偶者が医療系や教職系の技能を持っていれば赴任先での仕事探しは比較的容易かもしれないが、大きな企業や組織の中でキャリアを追求するような仕事は難しいだろう。

扶養者控除や扶養者年金といった制度を既に放棄したスウェーデンでは、国外勤務手当ての上乗せや、配偶者のための個人年金の積み立てなどで、対応しているようだ。

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このことに関連して、日本の大企業などの従業員の転勤や地方勤務ローテーションを考えてみたい。問題を生み出している構造が、外交官の国外赴任とよく似ていると思うからだ。

日本の女性の社会進出が遅れている理由(少なくとも自分のキャリアを追及したいという意欲を持った人にとって働きにくい理由)は、一つには長い勤務時間があるだろう。共働きの二人ともが正社員として夜遅くまで職場に残って仕事をするような生活を送っていれば、家事と仕事の両立は難しいから、結局はどちらかが仕事を辞めるか、パートなどの柔軟な勤務ができる仕事で我慢せざるを得ない。

しかし、もう一つの理由として、大企業で働く従業員の会社都合による転勤・地方勤務もあるのではないだろうか。共働きの二人ともが正社員として大きな企業に勤務しており、一人は東北に一人は九州に転勤を命じられたら、結局はどちらかが自分のキャリアをあきらめるしかない。だから、転勤族の場合、一緒に移動しなければならない配偶者は定職に就き、自分のキャリアを追求することが難しくなる。日本の転勤制度は専業主婦がいるから成り立っているシステムだと言えるのではないだろうか。

スウェーデンではどうかというと、各地に複数のオフィスを持つ大きな企業でも勤務地ごとに(しかも能力ごとに)採用するため、会社の都合による勤務地移動はない。また、組織改変などで勤務地移動が必要な場合は従業員本人の希望を聞いた上で行うし、どうしても転勤が必要だとされれば、平日だけ単身赴任という方法などで解決を図る。もしくは、仕事を辞めて転職するという道も残されている。

もちろん人によっては一箇所だけの勤務地で働くことに飽き、変化を求める人もいるだろうが、そのような時は自分から企業に勤務地の変更を申し出たり、転職することになる。いずれにしろ、企業の都合だけで無理やり定期的に勤務地を移動させられることがなく、自分から主体的に勤務地を選べるという点は、共働き世帯にとって非常に重要なことではないかと思う。

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ついでに言えば、地方勤務ローテーションは地方からの人材の流出をもたらしているのかもしれない。全国展開する大企業だけが魅力的な職場というわけではもちろんないが、大学を出てから大きな企業で働いて経験を身につけたいという人も多いだろう。地方の出身者が地元でバリバリと活躍したいと思った場合、仮に魅力的な大企業が地元にも支社・支部を置いていたとしても、さあそこで仕事をしよう!と考えるのは難しい。地元採用の事務職でない限り、まずは東京もしくは本拠地で一括採用され、社内研修の後に勤務地が決められる。どこに飛ばされるか分からない。本社と地方各地の勤務地を行ったり来たりしながら中年を迎え、運が良ければ自分の地元に戻れるかもしれない。

そうすると、優秀な人材が地方にいたとしても、地元企業を選ばない限り、定着しないことになる。結局、東京に集まったり、自分の出身地とは関係ないところに定着することになることが多いのではないだろうか。

例えば、NHKの地方局のニュースを見ていても、アナウンサーは地元の人ではないようだし、取材をする記者だって他県の人のことが多い。せっかくなら地元の若い人材を使ってあげればいいのにと思う。

トライアスロン皆生大会 団体参加

2010-07-21 11:27:15 | Yoshiの生活 (mitt liv)
最近、スポーツイベントの話題が続いていますが、またスウェーデンの政治の話も続けて行きます。

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さて、鳥取・米子市で開催されたトライアスロン皆生大会。30周年記念である今年は、団体参加によるリレーも可能になったが、初めての試みとあってルールや手続きなどが確立しておらず、大会主催者側も大いに困惑していた。

さて、朝7時の水泳スタート。この日は晴天で地元の最高峰、大山(だいせん)が空にきれいに映えていた。雲ひとつなく、朝から気温がドンドン上がっていった。今年の出場者は個人参加が824人、団体参加が48組。日野川河口部の砂浜に選手が一堂に集まった(団体参加の人は水泳担当の選手のみ)。我が「チームSATO」で先陣を切る私の妹も、号砲を待ちわびる選手の中のどこかにいた。


7時の号砲と共に日本海に向かって一斉に駆け出す選手たち。まず沖合いに400mほど泳ぎ、左折した後は浜と平行に泳いで行くことになる。先頭争いをする選手に他の選手が連なって行き、きれいな長三角形ができた。そして、それが次第に左寄りに歪んで行き、先頭集団が左折を始めていく。



沖合いに400mと言っても、実際に目で確認すると浜からかなり離れていると感じる。妹が本当にそんな所で3kmも泳げるのか・・・。次第に不安になっていった。しかし、その妹が群集のどこにいるかも見分けがつかない状態なので、「あそこでちゃんと泳いでいる」と確認することすらできない。妹はこのような大会は初出場。しかも、これまでプールでの練習がほとんどで、実際に海でトレーニングしたことは数回しかなかったのだ。

この3kmの水泳コース。実は、1.7km地点で一度浜に上がり折り返す。だから、心配だった私は、その折り返し地点に急行した。すでに、多くの選手が上陸し、給水した後に再び海へと戻っていた。そこで20分ほど待っただろうか。浜に向かってくる選手が残り4人となったとき、その中に少し変わった動きをする選手を見つけた。他の選手がゆっくりとクロールしているのに対し、その選手は腕を見せず、頭が水面に出たり沈んだり。そう、平泳ぎだ。おそらくこの大会唯一だと思われる平泳ぎの選手が、妹だったのだ。


クロールだと力の消耗が激しい。平泳ぎのほうがマイペースに泳げると、当初から平泳ぎだけで泳ぎきるつもりだった。折り返し地点の通過時は最後から2番目。私もタイムなど競うつもりは最初から全くなかった。とにかく泳ぎ切って、次の自転車に繋いでくれればいい。1.7kmの折り返し地点で47分。2時間という制限時間はクリアできるだろうか・・・?

そんな心配も杞憂に終わった。折り返した時点で最後から2番目だった妹が、平泳ぎにもかかわらず後半戦で10人以上も追い越して、1時間27分でゴール。泳がない泳げない私にとっては想像も付かない世界だ。

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自転車を担当する父がバトンを受け継いだのは8時半過ぎ。既に炎天下の兆し。そんな中を145kmも走るのだが、コースは大山(だいせん)の山麓を駆け巡る非常にアップダウンの激しい所。前日の開会式でコースの概要を説明した審判長も「最初の部分に少し平坦な部分があるが、それ以外は登りか下りしかない」と言っていたほどだ。コースが広範囲にわたっており、残念ながら途中を観戦に行けないのが残念。


各選手が足にICチップを巻いておりタイムが自動的に計測される点は、スウェーデンの自転車大会(ヴェッテルンルンダン)やヨーテボリ・ハーフマラソン、そしてストックホルム・マラソンと同じだ。しかし、スウェーデンのこれらの大会では途中ポイントの通過時間が瞬時にオンラインで公表されたり、携帯メールに自動的に送信されるため、選手の奮戦状況が第三者に簡単に伝わるのに対し、残念ながらこのトライアスロン皆生大会では、そこまで行き届いたサービスはない。

私が得た唯一の情報は、テレビ局の撮影チームからのものだった。実は我々「チームSATO」は親子での団体参加とあって、地元のテレビ局(日本海テレビ)がドキュメンタリー番組を作るために絶えず追跡していたのだ。自転車の競技中もテレビ局の撮影班が私の父を追いかけ、ワゴンの天井からテレビカメラで撮影していた。その撮影班から私の元に入った情報は、父が猛スピードで自転車を飛ばし、エイドステーションにもほとんど立ち寄らないで先へ先へと急いでいるが、足がつったために苦労している、というものだった。しかしその後、予想よりも早く、残り50kmのところまで来ている、という未確認情報も飛び交っており、最後のマラソンを担当する私も、腹ごしらえを済ませ、早めにスタンバイしておくことにした。

さて、12時に最初の選手が自転車を終えて帰ってきた。この大会には、個人参加の選手(つまり1人で3種目すべてをこなす人)と団体参加の選手(リレー式)が一緒に参加しているが、驚いたことに最初に自転車を終えた選手の数人は、みな個人参加の選手だった。自転車を置いて着替えを済ますと、順次マラソンのスタートを切っていく。



第1位で帰ってきた選手

わたしの父は、その未確認情報によると13時ごろの到着だったので、13時にはバトンの受け渡しエリアに入って、スタンバイしていた。その時には既に団体参加の何組かが自転車からマラソンへの切り替えを済ませていた。さて、待つこと数十分。個人参加の選手が次々と自転車を終え、マラソンに移って行き、団体参加の選手も一組、また一組とバトンタッチをして行った。時刻は14時を過ぎ、14時半を過ぎていった。次第に心配になっていった。そんな時、自転車選手のリタイアの情報が入ってきたが、幸いにも別のチームだった。

そして、14時40分を回った頃、ANA(全日空)のロゴの入ったシャツを着た父の姿が見えた。ついに自転車を終えゴールだ。父に続いて、テレビ局の撮影班がカメラとマイクを担いで私のほうに向かってくる。そして、私へのバトンタッチの様子を詳細に記録に収めていく。バトンタッチと言っても、バトンを渡すわけではない。実際には、足首に巻いたICチップを外して渡すのだ。

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さあ、ついに私の出番がやってきた。目指すは境港。弓ヶ浜半島の先端だ。そこで折り返し、同じ経路をたどって再び米子市に戻ってくるコースだ。3kmを泳ぎ終え、145km自転車を終えて、やっと最後のマラソンに取り掛かった個人参加の選手とは違い、マラソンだけを担当する私は足並み軽く、快調に走っていった。この大会は私にとって2度目のフルマラソン。1度目は今年6月のストックホルム・マラソンだったが、その時は前半をハーフマラソン並みに飛ばしたために後半が続かず、苦い経験をした。その教訓を踏まえ、今回は前半で力を入れすぎないように気をつけた。自分の限界の60%を意識しながら前半を終えた。


ただ、不安要因も出てきた。実はこの大会、自転車コースもマラソンコースも交通規制がほとんどない。赤信号になると青まで待たなければならないのだ。信号に引っかかることは頻繁にはなかったものの、それでも一度止められるとそれまでのペースが乱れてしまう。足を止めたために、足の筋肉がつりそうにもなった。

実際に足がつったのは、ちょうど中間地点である落ち返し地点の直前だった。「ゲゲゲの鬼太郎」で町おこしをしている境港市の「妖怪ステーション」が折り返し地点なのだが、その100m手前で右足ふくらはぎが痙攣を起こし動かなくなった。激痛に耐えること1分ほど。するとたまたま「ねずみ男」(の着ぐるみを着た人)がやって来て、私を指差す。私も動くことができないまま「妖怪なら、何とかして助けてよ」と冗談で言うと、本当に足を軽くマッサージしてくれた。ありがとう。

この痙攣後もしばらくは順調に走ることができたものの、25kmを過ぎたあたりから足の筋肉が限界に近づいてきた。あと15km余りを走り切れるようにと徐行をするものの、足を動きを緩めた途端に、筋肉が痙攣を起こし立ち往生。そんな状態が3kmごとにやって来た。



時刻は5時半を回ったものの相変わらず暑い。今日の最高気温は35度、湿度は90%とのことだった。復路は既に走った道。余計に長く感じられる。国道431号線の直線部分が単調でしんどい。しかし、この大会の素晴らしいところは元気なボランティアの人たち。一般の人々もいるし、中学生、高校生もいる。全部で4000人ものボランティアが大会を支えていると言うが、そんなボランティアの人たちが沿道の至る所に立って交通整理をしながら声援を送ってくれる。そして、エイドステーションのたびに頭に冷たい水をかけてくれる。

テレビ局の撮影班もコースの各所に待ち構えて、私が半ばフラフラになりながら走って(歩いて)来るのを撮っていた。あるエイドステーションでは「あと10kmもないからガンバレ」というボランティアの人の声に応えて、大きく手を振りながら勢いよくその場を後にした300m後に、再び足が痙攣し、立ち往生してしまった。その一部始終もカメラが収めていた。

私の周りにいるのは、ほとんどが個人参加の人たちだ。彼らは泳ぎ、自転車を漕いだ後に、いまフルマラソンを完走しようとしている。とてつもない体力と精神力の持ち主だ。中には倒れそうになりながらも、歩いて着実にゴールに向かっている人もいる。それに対し、私は団体参加の一人。マラソンだけの参加だから、本来なら体力も残っていなければならない。それなのに、個人参加と同じくらいに疲れた顔をしている。情けない。そういえば、好調だった前半部分でも、ヘトヘトになって走っている個人参加の選手たちを次々と追い越していくことに、ある種の罪悪感を感じたものだ。このトライアスロン大会は、あくまでトライアスリートが主役のはずだ。そんな所に私みたいな団体参加の者がまぎれていてもいいのか・・・?

一番辛かったのは30km~35km区間だったが、ボランティアの元気な声援に励まされながら、最後の7kmはほとんど歩くことなく前へ進み、19時36分にゴール。妹、父に加え、母も一緒になって、家族での伴走ゴール。もう暗くなっていた。水泳の妹が朝7時にスタートしてから12時間あまりが経過していたことになる。私のマラソン部分は、かろうじて5時間を切った。ストックホルム・マラソンよりも大幅に記録が落ちた。しかし、時間がどうだったかよりも、最後まで完走できたことが嬉しかった。

皆生トライアスロン大会

2010-07-17 23:39:50 | Yoshiの生活 (mitt liv)
私の故郷である鳥取・米子市は、日本で最初にトライアスロンの鉄人レースを開催した地。1981年から始まったこの大会も毎年規模を徐々に拡大していき、今年で30周年を迎える。
大会HP

そして、30周年を記念して今年は団体参加(リレー式)が可能となった。
7月18日(日)朝7時に水泳がスタートし、その後、自転車、そしてマラソンへと続いていきます。

レースNo.988「チームSATO」
・水泳(3km):妹
・自転車(145km):父
・マラソン(42.195km):私

予定では私は14時頃にバトンを受け継ぎ、境港へ向かって弓ヶ浜半島の外浜を走っていきます。シャツの色は蛍光黄緑です。

それから、7月17日付の「山陰中央新報」もお手元にあれば中ほどを御覧ください。

日本テレビ NEWS ZERO 「スウェーデン特集」

2010-07-16 00:50:24 | スウェーデン・その他の政治
日本テレビの夜11時台のニュース「NEWS ZERO」が今月初めに2夜にわたってスウェーデン特集を放送しました。夜も遅くの放送でしたので、見逃された方も多いと思いますが、番組のホームページ上で見ることができます。

私は「リカレント教育」がテーマとなっている「その2」でお手伝いさせていただきました。

NEWS ZERO 特集ホームページ


「スウェーデン」を知る その1 (7月1日(木)放送)

参院選焦点のひとつと言われている「消費税」。
実は日本やカナダの5%という数字は国際的にみると
低い水準と言えます。では高い国はどうでしょう。
ドイツやフランスは19%、イタリアは20%、そして
スウェーデンでは実に25%という高い数値になっています。

“福祉国家”として有名なスウェーデン。
この高い税率を採用した場合のメリットやデメリットは
どこにあるのでしょうか。あるいはこの税収はいったい何に、
どの程度使われているのでしょうか。スウェーデンでの
“人々の暮らし”を取材しながらその実態に迫りました。


「スウェーデン」を知る その2 (7月2日(金)放送)

スウェーデンでは税金や社会保険料をあわせると、
収入の3分の2ほどを国に支払うという「高負担」の国。
負担が重いと国の力は弱くなるという批判がある一方で、
スウェーデンの経済は成長し、国際競争力もあります。

とある「国際競争力」の順位表ではスウェーデンは4位、
日本は8位という評価されているデータがあります。
何がスウェーデンの“競争力”を押し上げているのでしょうか。
日本との違いはどこにあるのか、そして具体的な制度の差は
どこで生まれているのでしょうか…スウェーデンという国の
パワーの源泉とも呼ぶべき“社会システム”に切り込みます。

2010年 ヴェッテルンルンダン(300km自転車レース)・2

2010-07-12 07:14:18 | Vatternrundan:自転車レース
グレンナ(Gränna)から次のヨンショーピン(Jönköping)までの26kmほどの区間は、ヨンショーピンにかつて住んでいた時にトレーニングで何度も走ったことのある道だ。ヨンショーピンに向かう場合、全体的に下り坂が多く、しかもたいてい追い風なのでスピードが出せる。速いグループを見つけて付いて行こうと思ったものの、見つからなかったため、自分で先へ先へと急いでいたら、気づいたときには後ろに次第に金魚の糞のように隊列ができていった。列の先頭で走るのは大変。風の抵抗をまともに受けるし、プレッシャーを感じて自分のペースよりも早く走ってしまいがちだ。この段階で力を出し切ってしまっても大変だが、幸い追い風に助けられた。


しかし、忘れてはならないのはヨンショーピンの町の直前にある大きな丘。ここが一つの難所だが、これをクリアすると大きな下り坂が待ち構えている。私はスピードを出しすぎるのが怖いので慎重に下っていると、私の横を50~60km/hでビュンビュンと追い越していく人がたくさんいた。


ヨンショーピンのエイドステーションではソーセージなどの食事も出る


ヨンショーピンのエイドステーションは3時過ぎに立ち寄った。この町に住んでいる友人が「応援するよ」と言っていたけれど、やはり朝早すぎて沿道に立ってはいなかった。3時過ぎだが空はすでに明るい。実のところ、この大会においてライトの使用が義務付けられているのは午前2時50分までだ。

ヴェッテルン湖の南端に位置するこのヨンショーピンという町は、周囲を丘や峠に囲まれ盆地のようになっている。この町に入るためには峠を越えなければならないが、この町から出るときにも峠を越える必要がある。今年は道路工事のために、まさにその峠越えの部分でコース変更があった。例年は国道から左折すると長い上り坂が待ち構えているが、今年はその左折ポイントを直進しろ、と指示が出ていた。さてどこに行くのかと思いきや、目の前に現れたのは、勾配の非常に急な上り坂だった。まるで「壁」のように立ちはだかっていた。

そして、その壁を乗り越えると今度はなだらかな下り坂が果てしなく続いていた。次第に加速していき、猛スピードを出してしまいがちだが、沿道には横断幕で「徐行」「スピード落とせ」とスウェーデン語で何度も書いてあった。その理由が間もなく分かった。延々と続く下り坂の最後に、何とロータリーがあったのだ! これは危険。スピードの出しすぎだと急にハンドルを操作したとたんに転倒する恐れもあるし、大怪我になる。大会開催者側もこのリスクは十分に認識していたため、徐行を呼びかける看板や横断幕が出ていたものの、サイクリストにどこまで届いていたのか? 実際に、今年の大会ではこのロータリーで何人か転倒したらしい。特に雨のために路面が濡れている時にスリップしたケースが多いようだ。病院に運ばれるほどのケガをした人は幸い一人に留まったとか。


長く続く下り坂を果てには・・・


ロータリーが待ち構えていた!


その後、少し起伏のある部分を走っていると、高台に差し掛かったとき視界に広がるヴェッテルン湖の向こうから朝日が昇ってきた。時刻は朝4時13分。昨年と一昨年はまさにこの時間にモータラをスタートしていたのだった。




2010年 ヴェッテルンルンダン(300km自転車レース)・1

2010-07-09 00:07:12 | Vatternrundan:自転車レース
今年で7回目の参加となるこの大会だが、今年はあまり乗り気ではない。300kmを問題なく完走するために、大会開催者は出場者に最低でも合計1000kmのトレーニングを大会までに積むことを推奨している。しかし、私は冬の間、屋内でのトレーニングをほとんどしなかったし、実際に自転車で初めて屋外を走ったのもわずか3週間前だった。トレーニングの総量はせいぜい100kmだろう。こんな状態だったから、300kmを走ろうと思えば並大抵のことではなさそうだ。

昨年と一昨年は、ヨーテボリのサイクリング・クラブの人たちと隊列を組みながら、目標タイムを目指して頑張ったが、今年はそれ以前のように一人で走ることにした。一人で走ると言っても、自分とペースの合いそうな人を見つけてその都度まとまって走ることになる。私の個人記録は昨年の11時間半というものだが、今年は14時間? 15時間? それともそれ以上かかるだろうか? とにかく、今年はタイムを目指すのではなく、完走を目指したい。時間的なプレッシャーを感じずに走りたかった。

この大会は、昨年よりもさらに規模を拡大し、21000人の枠を確保した。60人~70人ずつのスタートグループに分かれて、金曜日の19:30から土曜の朝6時頃にかけて2分間隔でスタートしていく。今年は、9時間以内のゴールを目指す「新幹線」集団のために、土曜日の朝9時~10時に特別グループのスタートが認められることになった。

私の当初のスタート時間は土曜日早朝の01:48だったが、余裕を持って走るために金曜日23:00に変更してもらった。私のこれまでの出場の中で一番早いスタートだ。スタートはモータラ(Motala)という小さな町。ここでは毎年お世話になっているスウェーデン人家族の家に泊めてもらう。

天候は金曜日日中は雨だったが、大会が始まる夕方から夜にかけては雨がやんだ。22:40頃にスタート地点に到着したが、曇り空が広がり、まだ薄明るい。




スタートグループごとに順序良く「檻」に入れられ、スタート



スタートはこんな感じで、2分間隔で続いていく


23時ちょうどにスタートすると最初の700mはバイクに先導されるが、まもなく国道に出ると好みのペースで自由に走れるようになる。最初はみんな慎重だ。通常はすでに最初から高速で走る超特急グループ新幹線グループがいるが、私のグループにはほとんどおらず、みんなゆっくりと走っている。たまに後発のグループの中から速い人たちが隊列を作って追い抜いていくが、その頻度は以前に比べたら遥かに少ない。なるほど、タイムを競いたい速い人たちは深夜のスタートではなく、明け方4時以降のスタートを選んでいるのだ。だから、私がスタートした23時台は比較的ゆっくりの人が多い。

最初のエイドステーション(デポ)までの40kmは30人くらいで一緒に走った。時間は深夜1時ごろ。夏至が数日後に迫っているので本来なら空は薄明かりのはずだが、雲が多いために暗い。





次のエイドステーションは78km地点にある。そこまでの区間の大部分は片側に丘や絶壁がそびえ立っているため風がなく走りやすい。毎年ここでは平均30~35km/hで飛ばす。自然発生的にできた10人ほどのグループで、次々と追い越していく。公道にもかかわらず、片側一車線をいっぱいに使って自転車が駆け抜けていく。一番端っこは鈍行の人たち。その横を快速の人たちが追い抜いていく。そして、その横をわれわれ急行グループが一列渋滞で追い抜いていく。すると、後ろのほうからさらに速い特急グループが一列渋滞で軽やかにすり抜けていく。

真夜中の公道で、耳に聞こえてくるのは「シャカシャカ」という自転車の音だけ。この不思議な感覚、そして、軽やかに追い越しを繰り返していくこの快感というのは、おそらくその渦中にいたことのある人しか分からないと思う。


丘の上からグレンナ(Gränna)の町へ向かって駆け下りていくと、低いところに貯まった冷気のおかげでヒヤリと感じる。町の中には石畳の区間が1kmほどあるが、それが思ったよりも早くやってきた。ガタガタと振動が激しく、水のボトルやライトを落とす人がたくさんいる。非常に走りにくい。おまけに、土曜日の早朝のバーやディスコが閉まる時間帯とあって、酔っ払いやタクシーが多い。それでも問題なくクリアして、グレンナの町の外れにあるエイドステーションに到着。

来日イベント 無事終了

2010-07-06 00:07:52 | コラム
超過密なスケジュールのもと、先週一週間にわたってイサベラ・ロヴィーン氏を日本に迎え、様々なイベントを開催した。企画者の一人である私にとっても非常に学ぶところの多い企画となり、ロヴィーン氏は日曜日の午前中の便で帰途に着いた。

疲れがどっと押し寄せ、私の頭の中でもこの一週間の出来事の整理がついていないものの、手元に集まりつつある写真を見ながら、過ぎた時間が懐かしく感じられる。


最初の大きなイベントは6月29日に東京大学 弥生キャンパスにて開かれた専門家勉強会





その前日である6月28日には、水産庁の記者クラブにて記者会見を行ったが、早速その翌日には「水産経済新聞」が記事にした。


7月1日には一般公開のイベントとして、六本木のスウェーデン大使館にて「水産行政シンポジウム」が開催された






水産庁の大橋氏との一対一の対談が面白かった。


そして、最終日の7月3日には慶應義塾大学 三田キャンパスにて、市民向けシンポジウムも開催された。


そのあとのお別れ会


私にとっては船橋漁協の大野さんと直接お話ができたことが、非常に貴重だった