といっても、首席卒業クラスの上澄みレベルをdisるつもりはない。
あくまでアマチュアの自分が教室の先生とか、最近だったら主に配信とかでお目にかかれる、いうなれば「量産型」卒業生のお話。
自分が習っている先生は3人目(社会人向けレッスン)だけど、幼少から高校まで習ってた1人目と2人目は藝大卒の人。
これが原体験にあって、かつ藝大卒を自称する配信者の演奏を見た感じ、ホントにこの学校出身の人って、根本が驚くほど似通っているというか、弾き方に共通点がある。
とにかく
この弾き方のメリットは、普通の人から見たらわかりやすく上手に見えて、すごい!という評価をもらえることだろう。
そして大抵の場合はそれでいいじゃん、いやそれが大事じゃんになると思う。
だから自分がこれから書くデメリットは、正直かなり逆張りな自覚はある。
ということで、上掲の弾き方の問題点を挙げると
もちろん上に書いた弾き方を出発点にして、表現の繊細さを極めるのは不可能じゃないと思うし、それを実現できている人もいるにはいる。
でも、何をどう聴かせたいのか?という根本部分を置き去りにして、最初からやたらと正確さと音の大きさだけを是とする価値観を主軸にするのは、表現として不自然過ぎるでしょっていう。
何より表現を突き詰める過程で、このままでは伝えたいことが伝わらない→伝わるよう正確に弾こう、いや弾けなきゃ気が済まない!というのが本来の上達の流れなわけで、
そういう順序も踏まえずにいきなり正確に弾け!とか、習う方からしたらなぜそんなに厳しくツッコむのか理解できないので、苦痛でしかない。
結果、こういう超面倒な技術習得ありきのプロセスに過剰適応できた人しか生き残れないし、そういうタイプの人が、後から細やかな表現を磨くのは並大抵のことじゃないというのは、この学校出身の人の演奏の多くが、
音程だけはやたら正確だけど、それ以外はインパクトだけの大味な表現だったり、細やかさを実現していてもどこかわざとらしい(≒不自然さが抜けてない)音になっていることで証明されていると感じてしまう。
ちなみに自分はそういう価値観に嫌気が差したことや、何より身体に対する負担が大きすぎてこのままでは先がないと判断したことで、より古典的な弾き方に回帰し、音大受験レベルの曲をさらいつつ楽しくやっている。
即ち
その結果、今は自分の弾き方に近い音を出してる人が多い、桐朋出身のヴァイオリン奏者をいいなーと思うようになった(習ってる先生は桐朋出身じゃありません、念の為)。
なお桐朋出身のソリストで、サイトウ・キネン・オーケストラのコンミスも務めた故・潮田益子氏は生前
無知ワイはヴァイオリンすごいとか言ってる人自体であったことないやで…😟
上澄みを除いた大学生なんてどんな華々しい経歴でもそんなもんよな