2024-12-22

インターネット日記を書きたい

インターネット日記を書きたいのである

自分けが見るのでは意味がないのである

おそらくこれは自身が周りからどう見えるのかを認識して知覚して記憶したいという欲求に近い。

この欲求は多分に内向的であり、インターネット日記を書くことと、瞑想と違わないことを示している。

私は承認欲求インターネット日記を書くのではなくて、唯々鏡を見たくて、自分の考えたことを野に放つのである

ああ、それなのに、ちょっとインターネットでつぶやいたくらいでわーっと炎上するのが世の中。

私はそういうのが嫌になって、ツイッターをやめたときからずっとインターネット日記を書くことを躊躇してきた。

昔のツイッターは気軽で良かった。

そりゃ確かにインターネットで書いていいことと悪いことがある。その区別がつくかどうかは実際にブログをやるかどうかの判断の分かれ目だろう。

私は表現方法に自信がない。プロじゃないんだから。間違うこともある。いや、プロだって言い方間違って会社謝罪文出させてるのが現実

それで自分がもし間違えたら…という心配もあるし、将来的に指摘されるのも嫌である。鏡自身が正しく現実を映して、正しいからこそ嫌なことを思わせることもあるし、これはモノのたとえだけれども、鏡を見た人が心無いことを悪意なく、あるいは正義感から言ったり迷惑から失せろと言ったりしてくるかもしれない。ああ。やめようかな。どうしようかな。でも一回やってみようか。

ここで有名な『嫌なら見るな』論というものを少し擦ってみる。少なくともここでこれを今書いてるワタシ自身については、お金もらってるわけじゃないし、ただオノレの外界に吐き出したものをしげしげと見たいだけなんだ。そういう飾らない人間自身は、虚飾のないと言ったら聞こえは良いが、そもそも見目のよいものではない。人の吐瀉物なぞそもそも汚いモノなので嫌なら見にいかない方がいんじゃないだろうか?ザッピングという活動にもそれ相応の覚悟必要なんじゃあないだろうか。困ったことに私は私の出力した生データが見たい。出力しないと見れない。こっそりと出力させてほしい。他人排出物創作物ともいう)に価値見出した人だけ、どうぞその解釈にご自身時間を使ってほしくて、それが自己体調管理であり、取捨選択であり、自由意志であり、素晴らしい生き方なのではなかろうか。他の生物のニオイを嗅いで情報を取得するまでは本能かもしれなくて、それでも脊髄反射あるいは自由選択によるモノで誰かに強制されたわけではないのだから、その後のことは自分責任を取ったら良いのでは?他人の屁を臭い臭いと言ってる時間があれば即離脱してもっと有意義なことに貴重なお時間を使ってみるのはいかがですかと誰か言っていなかったっけ?

荒らしよくないって話もある。こないだとあるマイナーSNSを試してみたらいきなりテンプレ的な荒らし画像が出てきて即アンインスコしたんだよ。悪意を持ってヘイトを叫ぶために投稿したりとか、他人にショックを与えるために荒らすのは良くないと思うんだ。普通に考えたら規約違反だし。そのSNS通報機能とか規約とかブロック機能とかないやつだった。規約があるのは大事規約を読むのも守るのも大事通報するのも大事。でも、どこから荒らしで、何から通報なの?それはもしかすると白黒つかなくて、テンプレ的な荒らしではない、新しいタイプ荒らしと思われるのも本当に嫌だなあと思って。なぜかというと、自分の吐き出したものを書き出してマジマジと見ないといけない、そうしないと超絶個人的瞑想ができないんだってことはきっと他人ソーシャル)には理解されないからなんだよね。ソーシャルでそれをするのかっていう議論になってくるよね。誰も傷つける意図がないので、してもいいはずなんだけど。理解できないことは恐ろしいもんなあ。

話がどんどん横道に逸れる。

こういうことを頭の中でぐるぐる考えている。少しは助けになったかな?

素晴らしい、チラ裏なんて言葉もあったっけ。ありがとう

裏が白いチラシの入手ができない状態10年以上続いているか文字通りのチラ裏ができないよ。でも言いたいことわかるよ。実際今日も安いペラ紙を買おうかなと思って通販サイトを見ていた。

ただ、紙に書きたいけど書けない。書いたらゴミが出る、大量のゴミが。学生時代に書いた大量の紙ゴミ実家に帰るたびにシュレッダーにかけているが全然終わらない。あまりにもプライベートなことを現実の紙に書くのはどうもよろしくない。体力もかけたくない。マジでごめん。信じられないだろうけど腱鞘炎になりそうなので勘弁してほしいんです。

あと、自分しか見ないというのはチラ裏インターネット日記とでは本質的に異なる。チラ裏感覚の鏡にはなり得ない。

たぶんすぐ消すけどありがとう

でもやっぱりこのあれだな、意識の違いというか、期待値の違いというか、無意識的なリスペクト配慮要求というか、マナーというかなんというかそういう中身とは遠く離れた皮革的なものへのリアクション情報を広く浅く求めたいところが全ての答えなんだと思う。できるだけ自分へのダメージを避け、他人への直撃を避け、トイレの壁に落書きをするようなそんな心配性で人でなしのやり方を求めて悩んでいる時点で…

でもこのやり方はきっと間違っていなくて、ソトガワに対するソーシャルリアクションは人として多分に追求するべきで、不健全でもなくて、こういうのもありなんじゃないかなあって。甘えなのかなあ。どうなんだろう。

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