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内藤湖南「応仁の乱について」1921(大正10)年8月 - 本に溺れたい
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内藤湖南「応仁の乱について」1921(大正10)年8月 - 本に溺れたい
私は人間である。ゆえに人間にかかわることで私に無縁なことは一つとしてない。 homo sum; humani nihil... 私は人間である。ゆえに人間にかかわることで私に無縁なことは一つとしてない。 homo sum; humani nihil a me alienum puto. (Terentius, Heauton Timorumenos, 163 BC) 大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります、さういふ大きな時代でありますので、それに就て私の感じたいろ/\な事を言つて見たいと思ひます。(講談社版p.64) この断定の意外さ、小気味よさ、が一万六千余字(原稿用紙40枚)ほどのこの掌編を名エッセイとさせてきている。通勤電車