5月1日号の日経ビジネスのスペシャルリポート「限界突破集落」では、高齢者が過半数を占め、コミュニティーの消滅が危惧される「限界集落」の中で、住民や地元企業の工夫で「限界」を超えようとする挑戦を取り上げた。 都心に住んでいる人間には想像しにくいことかもしれないが、限界集落の中には最低限のインフラすら揃わないまま生活を送っている住民がいる。大分県豊後高田市の中黒土集落もその1つ。つい6年前までマンガンを基準の32倍含む「黒い水」を生活用水として使ってきた。集落を変えたのは住民自らが管理する小型浄水設備だ。 「風呂の底が見えた!!」 大分空港からクルマで1時間、国東半島の両子火山群の中にある中黒土集落(大分県豊後高田市)。ここで奇妙な歓喜の声が上がったのは2011年のことだった。 この年、初めて集落に水道設備ができたのだ。それまでは上の写真右側の「黒い水」を生活用水として使っており、風呂の底も見
兵庫県宍粟市内で耳を疑う話を聞いた。「あの山の上に、今も暮らしている家族がいるんだよ」。車では登れない長水山(585メートル、同市山崎町五十波)。山頂に95歳のおばあさんと息子夫婦の家があるという。徒歩でしか行けない山村集落は、高度成長期まで各地にあったが、現代でそんな場所があるとは…。山上の暮らしぶりを知りたくて一家を訪ねた。(古根川淳也) 市役所から車で5分ほどの五十波地区。国道29号から谷沿いの道に入ると、宍粟50名山の一つ、長水山の登山口に着いた。この先は山道を歩くしかない。登山靴に履き替え、うっそうとした杉林に分け入った。 つづら折りの坂を約40分登り、額に汗がにじみ始めたとき、先に石垣が見えた。その上部に日蓮宗信徳寺がある。庭先で声を掛けると、住職の男性(70)が笑顔で迎えてくれた。住職は母親(95)と妻(64)の3人で暮らしていた。 長水山は戦国時代に宍粟を治め、豊臣秀
報道ヘリの歴史 レシプロ時代 日本では1953(昭和28)年にTV放送が開始したが、当初ヘリは必要な時にチャーターしていた程度だったが、次第に占有契約をが結ばれるようになる。 民放では、1959年(昭和34年)にTBSが朝日ヘリコプター(朝日航洋)とベル47-Gで年間契約を開始している。 この頃は、ベル&ハウェル70DRによる手持の16mmフィルムでのニュース撮影がほとんどでした。ヘリに装備されている機材は何もなく、手持ちの無線機があれば良いほうで、飛んでいる間は糸の切れた凧のような状態でした。 空き地、河川敷、校庭などに着陸することも珍しくなく、放送局の屋上に原稿投下も平気でおこなわれていました。 ヘリの計器はアナログの最低限の物しかなく、パイロットの目と地図だけが頼りで、現在位置がわからなくなると低空で駅の看板を覗きこんだり、着陸して聞きに走ったりすることもありました。 小学校の校
※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
白頭山 福童(はくとうざん ふくどう、1903年 - 没年不詳)は、朝鮮忠清北道(現在の大韓民国忠清北道)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は朴 漢卦[1]。最高位は三段目。身長217cm・体重140kg[2]。昭和以降の力士では最も背が高い。 初土俵は1927年10月場所。この時既に身長208cm、体重132kgあり、「出羽ヶ嶽を見下ろす巨人」という触れ込みで入門した[2]。しかし、幼少時に病気をしたのが原因で背骨が曲がっていたといわれ、出世の見込みはないと判断されたが、後援会の紹介の手前断れずに入門させたとされる[2]。実際思うように活躍できず、三段目まで上がった1930年5月場所限りで廃業した[2]。期待されていた出羽ヶ嶽との取組は実現しなかった。 廃業後は劇団の旗持ちやチラシ配りを経て[3]、ダンスホールの用心棒となったが、森永製菓の社員に見込まれて[4]、1934年から19
■住所 〒762-0045 香川県坂出市元町1-10-21 ■営業時間 8時30分~19時 ■定休日 毎週火曜日 ■Tel 0877-44-2525 ■Fax 0877-46-2715 創業明治26年以来守り通した伝統の味と技。 和菓子は四季の彩りを伝えます。 当店オリジナルの洋菓子「夢無限」、銘菓「しほ所」もご好評いただいています。
旧鈴木商店OB会で、辰巳屋カネ辰鈴木商店に因み「辰巳会」が発足したのは、鈴木商店が破綻して34年後の昭和36(1961)年4月のことであった。 神戸オリエンタルホテルで第1回総会が開かれ、高畑誠一が初代会長に就任した。本部(神戸)のほかに東京、中部、四国、九州の4支部を設け、会員は、個人会員と旧鈴木商店系法人会員30数社で構成された。 辰巳会会報誌「たつみ」によれば、辰巳会が全国規模になる以前に、昭和35(1960)年には既に東京地区在住者150余名により東京辰巳会が先に発足し、続いて同年10月7日、西日本辰巳会が会員数340余名により発足。かくして昭和36(1961)年4月3日、東西辰巳会が一堂に会する名実共に「辰巳会」の発会式が行われたとある。 かつて鈴木商店の社員は、関係会社を含め25,000人にも及んだが、辰巳会発足時の500名ほどの個人会員は、年を重ねるに従い年々少なくなり、現在
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く