科学や不平等について書かれた某本の訳文についての議論を見た(訳本を批判するのが主題ではないので、訳書にはリンクしません)。そこでの指摘を見る限り、訳の問題には、予備校でやるような英文読解の問題もあったが、哲学のカルチャーや術語の重みがうまく理解されていないからくるものもあったようだ。 これは、哲学の専門家でない人が哲学の本を訳すときによく出てくる問題で(上の本を訳した方は心理学者のようだ)、いくつかの例が思い浮かぶ。 マイヤーの本で、essentialism(本質主義)が「実在論」と訳されたことがあった(マイヤーは個々の種に関しては本質主義に反対するが、種カテゴリーについては実在論者なので、このように訳すとマイヤーの主張を完全に取り違えてしまうおそれがある)し、 またマイヤーの別の訳書では、scientific realism(科学的実在論)が「科学的現実主義」と訳されたこともある(当該の
やや手短に。刑事司法の手続きにおいて、被疑者取調べの過程を可視化すべきかという議論がある。要するに、取調べのようすを撮影しておくかどうか、といった問題だ。一部については実現しているが、全てを記録しなければ意味がないという有力な主張がある。これに対して、警察や検察などは、「信頼関係を損なう」というわけのわからない理由で反対している。 どうもこういう、論点をはぐらかすような議論というのは、傍から見ていて居心地が悪い。わかりにくいじゃんはっきりいえばいいのに、とか思う。まあたぶん、当事者としての立場上、いいにくいのだと思う。ならば無関係のところからというわけで、こういうことなのかな?というあたりをひとくさり書いてみる。 裁判制度というのは、真実がわからないという意味で調査手法であり、国家権力の使い方を決めるという意味でで意思決定手法でもある。そういうことをやる学問というのは法学以外にもいろいろあ
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