三重のお母さん、あなたに差し上げる2度目のお悔み状です。東京女子医大の入院手続きの場でお会いしたあなたとお嬢さん。もう40数年前のことです。
お嬢さん16歳私15歳の5月のことでした。
東京女子医大の心臓血圧研究所の病棟ができるまで、何年も待機していた人がいっぱいだったはず。
完成と共に入院した私たち小児科の子供たちは、まだガラガラあきの特別室を探検したりして手術までの日々をすごしていたのでした。
彼女と私は大人には口にすることのできない、「死の不安」について話したことが忘れられません。
2週間後には手術を終え、そしてさらに2週間で退院した私。たったそれだけの短い間の接点でしたのに、深い友情をはぐくんだのでした。
私の退院1ケ月後手術をした彼女はご両親の元に帰えれませんでした。
16歳になった私が書いた初めてのお悔み状・・・・忘れることはできません。
お母さんからの手紙の中にあった、「あなたは勝利者でした」の言葉は今でも私の心に去来するのでした。
それ以来40数年、もう一人の父と母と思い、友人に代われないけれど、いつまでも彼女を忘れないことを心に誓ってきました。
結婚してからは実家の両親に変わって、夫の両親が盆暮の贈り物を気遣ってくれ長いお付き合いが今日まで続いてきました。
そして私は命日には心の中で彼女と遊ぶのでした、16歳と15歳の子供のままに。
一昨年体調を崩したお母さんの「あいたいよー」の言葉に、最後の孝行になるかもしれないという予感を感じつつ夫と共に三重を訪れました。
お父さんの方が元気そうにみえたのに、今日届いた喪中のはがきの差出人はお母さんでした・・・・。
お母さん、私はあなたに2度目のお悔み状を差し上げるのですね。でもお母さん
お父さんと由美さんは天国で再会を喜んでいるかもしれませんよ。
今の私にはその言葉でしか、お母さんの心に沿う慰めが思い浮かびません。
私の母も今年、父の待つ天国へと旅立ちました。天寿を全うした母は今、父と共に私たちのことを見守ってくれていることでしょう。
お母さん、お父さんと由美さんが天国から見守ってくれていますから、どうぞお元気で、私のもう一人のお母さんでいてくださいね。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
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お嬢さん16歳私15歳の5月のことでした。
東京女子医大の心臓血圧研究所の病棟ができるまで、何年も待機していた人がいっぱいだったはず。
完成と共に入院した私たち小児科の子供たちは、まだガラガラあきの特別室を探検したりして手術までの日々をすごしていたのでした。
彼女と私は大人には口にすることのできない、「死の不安」について話したことが忘れられません。
2週間後には手術を終え、そしてさらに2週間で退院した私。たったそれだけの短い間の接点でしたのに、深い友情をはぐくんだのでした。
私の退院1ケ月後手術をした彼女はご両親の元に帰えれませんでした。
16歳になった私が書いた初めてのお悔み状・・・・忘れることはできません。
お母さんからの手紙の中にあった、「あなたは勝利者でした」の言葉は今でも私の心に去来するのでした。
それ以来40数年、もう一人の父と母と思い、友人に代われないけれど、いつまでも彼女を忘れないことを心に誓ってきました。
結婚してからは実家の両親に変わって、夫の両親が盆暮の贈り物を気遣ってくれ長いお付き合いが今日まで続いてきました。
そして私は命日には心の中で彼女と遊ぶのでした、16歳と15歳の子供のままに。
一昨年体調を崩したお母さんの「あいたいよー」の言葉に、最後の孝行になるかもしれないという予感を感じつつ夫と共に三重を訪れました。
お父さんの方が元気そうにみえたのに、今日届いた喪中のはがきの差出人はお母さんでした・・・・。
お母さん、私はあなたに2度目のお悔み状を差し上げるのですね。でもお母さん
お父さんと由美さんは天国で再会を喜んでいるかもしれませんよ。
今の私にはその言葉でしか、お母さんの心に沿う慰めが思い浮かびません。
私の母も今年、父の待つ天国へと旅立ちました。天寿を全うした母は今、父と共に私たちのことを見守ってくれていることでしょう。
お母さん、お父さんと由美さんが天国から見守ってくれていますから、どうぞお元気で、私のもう一人のお母さんでいてくださいね。
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