節電条例検討へ(読売新聞)
石原知事は17日の記者会見で、コンビニ店の深夜営業をやめてもらうなどの都独自の節電条例を検討することを示唆した。
知事は「(都議会)臨時会を開いて、条例制定も考えなくてはいけない」と語った。具体的には、〈1〉午後10時以降にネオンを消す〈2〉自動販売機も夜間は消灯〈3〉コンビニエンスストアは午後10時以降閉める――といった案を示した。知事は14日、「節電啓発担当」の蓮舫行政刷新相と面会した際、「政令を出すべきだ」と政府の対応を求めていた。
石原慎太郎が常日頃より「日本人の我欲が横行している」と主張してきたのは夙に有名ですが、表面上は石原に反対する素振りを見せていながらも少なからぬ人が「おまえこそ欲にまみれている」とか「欲の皮の突っ張った同じ日本人が私たちの生命を脅かしているのだよ!」などと、石原とそっくり同じことを説いているのですから救いようがありません。他人の欲を抑え込みたがるという点では同じ穴の狢です。加えて石原は都独自の節電条例を示唆したとのこと(ちょっと取り上げる時期が遅れましたが)、詳細は上記飲用をごらんいただければと思いますが、石原に反対している「つもり」の人も同様に「コンビニを昼夜問わず日本中で営業したり飲料の自動販売機をこれほどたくさん置いたりして電気を使い続けることは電気の浪費ではないかとの問題提起をしたい」などと掲げていたのを思い出して、これまた頭が痛くなってきました。
ちょっと頭の足りない道徳家にしてみれば、夜間のコンビニ営業なんかは目の敵にしたくなるものなのでしょう。とかく深夜のサービス業には享楽的なイメージや、日本人の大嫌いな浪費のイメージがありますからね。しかし、現実はどうでしょうか。自販機は意外に細かく電力系統の切替が利くみたいで、この頃は夜間に消灯している機械が随分と増えており意外に世間の動向に敏感な様子が窺われます。まぁコンビニは照明を控えめにする程度で営業を続けているところもありますが、仮に営業を止めたとしても食品を腐らせてしまうわけにはいきませんので冷却のために常に電力を消費し続ける、ゆえに夜間営業を止めても節電効果はちょっと微妙です。そもそも夜間は計画停電の対象から外れていることからもわかるように、元から電力が余っているわけです。夜間に節電に励んだところで捨てられる電力が増えるだけで何の解決にもなりません。夜間の節電を訴えるような人は、要するにその人の奉じる道徳を世間に強要したがっているだけ、電力不足に乗じて自説の売り込みを図っているだけです。
東京電力による計画停電の影響で、首都圏で診療に支障が生じる医療機関が現れている。
医師らは「病気の発見や治療が遅れ、患者が不利益を受けてしまう」と危機感を募らせる。一方で停電対象地域にありながら停電を免れる病院もあり、不公平感も強まっている。
相模原市の国立病院機構相模原病院は、計画停電のため、緊急以外の手術をほとんど行えない状態が続いている。自家発電機を備えているが、患者の安全を考えて、予約の手術はすべて中止にしてきた。
(中略)
埼玉県吉川市の吉川中央総合病院でも、一部の患者の手術を延期した。総務課の担当者は「手術日はこれ以上延ばせず、夜間に行うしかない。2次救急指定病院は停電の対象外にするなど、もっと医療を重視してほしい」と訴える。
一方、電力不足の招いた結果として夜間労働は増加せざるを得ないようです。昼間には計画停電がある、計画停電の予定が無くとも電力需要の読み違えから予期せぬ停電に至る可能性がある、そうした中で手術を行うのは著しく危険を伴います。だからといって患者をいつまでも放置するわけにもいきません。ではどうすれば? 必然的に、電力供給に余裕があり、停電の恐れのない時間帯――すなわち深夜に手術を行うしかないという結論に至るわけです。かくして深夜に働かざるを得ない人が増え、その人達の生活を支えるためにも小売店などの深夜営業は必要性が高まっていくことでしょう。道徳家の抱くイメージからはほど遠い、深夜営業の実態がそこにはあります。
あまり意識されてはいませんが、工場などでも電力供給に不安のある時間帯を避けて操業しているところが増えているそうです。休日に操業したり、あるいは夜間に操業したり。平日の昼間に、全員が一斉に電気を使えば電力不足で危機的状況を招きますけれど、電力を使う時間帯をずらして電力需要を均等化すれば、福島の原発が動かなくても何とかなるということなのかも知れませんね。しかし、これは当然のことながら負の影響もあるはずです。深夜勤務が常態化した場合、前立腺ガンになる可能性が3.5倍、乳がんになる可能性が1.6倍、心筋梗塞になる可能性が2.8倍に増加すると言われています。これでは放射線などよりずっと、健康に及ぼす悪影響は大きくなってしまうでしょう。「健康のためなら死んでもいい」なんてジョークがありますが、「脱原発のためなら死んでもいい」なんてのは悪い冗談に過ぎます。
日本中を覆い尽くす自粛ムードと電力不足の中で、娯楽産業は存亡の危機に瀕しています。再開の見込みが立たなかった電力食いのディズニーランドでは、特例として環境評価の手続きをスルーして自前の発電施設を作って対応しようなんて動きすらあるようです(原発でさえなければ、何でも安心安全ですからね!)。別に遊園地が動かなくても死ぬ人はいないように見えるかも知れませんが、失業して人生が立ちゆかなくなる人はたくさん出てくることでしょう。かといって行楽施設を稼働すれば世間の激しいバッシングに遭うことは必至ですし、どこかが電力を使えば別のどこかで電力が不足してしまいます。さらには突発的な停電の可能性は事故発生のリスクを飛躍的に高めるわけです。ではどうすればいいのか、やはり電力需給に不安のない時間帯、電力を消費しても他所に迷惑をかけない時間帯――すなわち深夜に営業するしかないと言うことにもならざるを得ないでしょう。
電力供給が追いつかないことが確実視される以上、電力需給が逼迫する夏場に向けて製造業や娯楽産業の大幅な夜間労働へのシフトは避けられないことが予想されます。誰もが平日の昼間に働く、全員が一斉に同じ時間帯に活動するというのは、実は贅沢なエネルギーの使い方なのです。足りない電力を行き渡らせるためには、同時に(平日の昼間に)電力を使うのを止めて、交代で(つまり昼夜交代で)電気を使うしか無くなってしまうのであり、それは地球には優しくとも人間には少なからず厳しい結果を招くものと言えます。
誰1人として清く正しく慎ましい生活を強いられることなく、誰もが豊かさを享受できるような社会を私は理想としますが、有権者の多数は何を望むのでしょうか。石原は原発推進を新たに打ち出したそうですが(どうにも「悪ぶってみた」みたいなノリを感じますが)、リスクを無視して原発推進を訴える人もリスクを無視して原発廃止を訴える人も、要するに原発に拘っているという点では同志であるように思えます。原発で事故が起こればとんでもないことになるのは今さら言うまでもありませんが、逆に原発を停止することで別のリスクを強いられるようでは元も子もないわけです。
昨今の世論は僅かな被曝にも大騒ぎする一方で、原発や放射線「以外」の要因で次々と死んでいく人のことは気にも留めていない、林業で死亡災害が発生しても平然としている一方で、原発で死亡災害が発生しようものならヒステリックに叫び始める人も多いような気がします。私は原発か原発「以外」かに関わらず危険なものはその危険性に応じて向き合うべきだと思いますが、世間の物差しは「原発か否か」にあるようです。だから原発を廃するために、原発以上に人を害するものを平然と招き入れ、そのことに全く無自覚なまま脱原発という至上命題のために幾多の犠牲を生む愚を犯そうとする人は後を絶たないことでしょう。
原発推進か廃止かは東京都知事が差配できる範囲を超えているようにも思えるだけに、それを大きく掲げる候補者は夢を語るばかりで喫緊の課題を疎かにするタイプではないかという気がしないでもありませんが、ともあれ電力不足の問題は極めて深刻です。電力不足は人間の生命に直ちに影響を及ぼすものではないように見えるかも知れませんが(熱中症で死ぬ人は確実に増えますよ!)、東日本全域の経済活動並びに社会活動に大きな枷を課すものであり、それは被災地を支援する側の体力をも着実に奪い取っていきます。深夜労働の増加で健康を損なう人も増えることでしょう。原発を推進するか廃止するかではなく、まず電力不足にどう対処するか、これが直近の課題であり、新たな首都のリーダーに突きつけられる試金石です。これを道徳論にすり替えたり東電を罵るだけで済ませたり、あるいは将来の夢を描いて「痛みに耐えよ」と説くような人は、はっきり言って不適格でしょう。脱原発は将来への課題ですが、より速やかに対処すべき喫緊の課題は他にあります。少なくとも不況時に財政再建を掲げるがごときの状況と優先順位を取り違えた主張には、明確にNO!が突きつけられるべきだと言いたいです。