「モーニング」誌上で『バガボンド』の連載も復活した、日本最強のマンガ家井上雄彦氏。彼がスペインを訪れ、建築家アントニオ・ガウディの作品群と向き合って作った本『ペピータ』を切り口に、「仕事」をテーマにロングインタビューを行った。今回はその後編をお届けする。
後編からお読みいただいても分かりやすいように、冒頭は前編と重複している。すでにお読みの方はこちらからすぐに続きをどうぞ。
【前編から読む】
―― 井上さんがヤングジャンプで連載中の『リアル』の中で、「やることなすこと何もかもうまくいかない」と言っていた主人公(野宮朋美)が、「自分の今の居場所がどんなにつまらないとしても、ずっと先の未来につながっているんだ」と気づく場面がありますよね。
井上:ああ、はいはい、居酒屋で話していましたね。
―― でも、なかなかそういう実感が得られなくて、「毎日充実したい」とか、「意味のない時間を過ごしたくない」とか、私たちはつい軽く口にしてしまいます。
井上:スペインで出会った職人さんたちは、そういうことを考えてないでしょうね。
―― どうすれば日本の社会人もそうなれるんでしょうか。
井上:いや、それは僕に聞かれても(笑)。うーん、会社に勤めたことはないからな(笑)。
―― でも井上さんは会社どころじゃなくて、それこそ「自分がいないとビジネスが成り立たない」という、ものすごい仕組みの中にいらっしゃるわけです。
井上:ええ。
―― 会社員って、休んじゃえば代わりがいるんですよね。井上さんはそうはいかない。そういう意味ではもっとプレッシャーとか、悩まれるところって大きいんじゃないんでしょうか。
井上:どうですかね。悩みどころが違うかもしれないですけどね。うーん、何だろうな。難しいですね。
―― すみません、一般化することを意識されなくてかまいませんので、ご自身のお話を伺えれば。
井上:僕は何に悩んでいるのかな。うーん、悩んでいるというか、一番嫌なのはやっぱり変わらなくなることなんですよね。
「しまった、小次郎は難しすぎるぞ」
自分が例えば『スラムダンク』を書いて、「ああ、井上雄彦はバスケマンガの人だな」と世の中から見られるようになったときに、ずっとそこにいるのはもう絶対に嫌なんですよ。「じゃあ、次に行かないと」という感じになって。『バガボンド』を描いて、なぜか世間のイメージが「ストイックな人だ」みたいになってくると、もうそれ、絶対に嫌だ、って。
つまりそういうレッテル張りみたいな、「あ、この人はこういう人だね」って何か名付けられることに対する拒絶というか、「こっちでもない、あっちでもない、何かあいまいなところにいる」ことをずっと守ろうとしているんです。
ですので、変われない状況に陥りそうなことや、もっと自分のやっていることを広げたり動かしたいというときに、いろいろな事情で動かせなかったり、状況を変えられなかったり、どう動かしたらいいのかが分からない、そういうときが悩ましい時期ですね。
―― 『バガボンド』の佐々木小次郎みたいな人が理想なんでしょうか?
『スラムダンク』『バガボンド』『リアル』。マンガの王国、日本において誰もが認める頂点に立った井上雄彦氏がスペインで建築家アントニオ・ガウディの作品群と無心で向き合い『ペピータ』という本を作った。それは我々に「仕事の原点」を気づかせてくれる。
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井上:あのキャラこそ、まさに何者でもないというか、名付けようがない。そして言葉を使わないので、レッテル張りができないし、いろいろな意味を含んで存在できる。「この人はこういう人だ」と規定できないものを体現しているようなキャラとしてチャレンジができると思っていたんですけど、まあ、何せ難し過ぎますね(笑)。
―― 難しすぎる?
井上:当初、小次郎の赤ちゃん時代からやるというのと、耳が聞こえないというのは決めていました。それで見切り発車して、「しまった、彼は扱いが難し過ぎるぞ」って(笑)。
小次郎に限りませんが、たいていは計画にはないことを登場人物が始め出して、それでその人物を好きになったり、「この子は何でこうなんだろう」というのを考えだして、もともとなかった設定を考えたり、脇役のはずが主人公級になっちゃう。そういうときは最初は「我ながら無茶なことをやってるな」と思うんだけど、でもやり始めると自分が乗ってくるというか、キャラに乗せられて、こっちも乗ってくるようなところはありますね。そういうのは楽しいですね、自分で描いていて。
需要に応えるのは正しいが、本末転倒への道でもある
―― 会社員の仕事は、普通は上司や取引先からオーダーがあって、それに応えるという形になります。そう言う意味では状況を変えるのは難しいかもしれません。でも、マンガを描かれる方も、編集者なり、読者なりからの「オーダーに応えるお仕事」という面が、否応なくあるんじゃないでしょうか。
井上:はい、ありますね。それが今回、スペインに行ってちょっと自分の心に残ったことの1つです。
確かにマンガ家という仕事としては、「読者が求めるものを提供する」というのが正しい姿だと思うんです。けれど、それが勝ちすぎて、さっき言ったような自分の原初の楽しみとか、面白さとか、やっている時のわくわく感みたいなものを殺してしまっては、もう全くの本末転倒で、自分が疲弊するうえに、きっとマンガとしても駄目ですね。いいものができないと思う。自分の間合いで仕事ができなくなるからです。
相手に合わせて、相手の距離で戦っていると、自分が戦いのイメージを先取りできない、ゲームを作れない感じになってしまう。逆に相手は先の予測がついてしまう。面白いマンガって、読者が「この主人公、いったいどうなるんだ?」って思うものですけど、それができている時は、作者の方が自分の間合いで戦っている感じなんですよ。
―― 会社員でも「この仕事、面白いぞ」と思える時は、「誰がそこまでやれと言った」と言われるようなところまで突っ込んでいることが多いかもしれません。
井上:そうでしょうね、きっと。
―― 周りもその人の熱気に巻き込まれて、さらに成果が大きくなっていったり。
井上:ああ、何かが作られていくプロセスに「これは面白い」と人々が惹きつけられて、より良いものになっていく。それはマンガの連載もそうですね。読者のレスポンスは先の展開にも作用します。それは、「読者の要望に応える、顔色をうかがう」といったものではなく、より創造的なやり取りになっていく。面白いマンガの場合はきっと、作者が一方的に作っているものを見せているというより、作者と読者が一緒に作っている感覚が生まれるんでしょうね。
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