安政の大獄とは? わかりやすく解説

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安政の大獄


あんせい‐の‐たいごく【安政の大獄】

読み方:あんせいのたいごく

安政5〜6年(1858〜1859)に、大老井伊直弼が行った尊攘(そんじょう)派への弾圧安政の仮条約や、家茂(いえもち)を14代将軍に定めたことに反対する一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)擁立派の公卿大名志士ら百余名処罰し吉田松陰橋本左内ら8名を死刑とした。→桜田門外の変


安政の大獄

読み方:アンセイノタイゴク(anseinotaigoku)

幕末安政5年から翌年にかけて井伊直弼が行った政治弾圧事件


安政の大獄

作者大佛次郎

収載図書安政の大獄
出版社朝日新聞社
刊行年月2005.6
シリーズ名大佛次郎時代小説全集


安政の大獄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/29 04:21 UTC 版)

安政の大獄(あんせいのたいごく)は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて江戸幕府が行った弾圧[1]。当時は「飯泉喜内初筆一件」または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」とも呼ばれていた[2]

幕府の大老井伊直弼老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である[3]。弾圧されたのは尊王攘夷一橋派大名公卿志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。形式上は13代将軍・徳川家定が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際には井伊直弼が全ての命令を発したとされており、家定の台命として行なわれたのは家定死去の直前である7月5日、尾張藩主・徳川慶勝福井藩主・松平慶永水戸藩徳川斉昭慶篤父子と一橋慶喜に対する隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)だけであり、大獄の始まる初期のわずかな期間に限られる。

経緯

江戸時代後期の日本には、外国船が相次いで来航した。朝がアヘン戦争に敗れると、日本国内でも対外的危機意識が高まり、幕閣では海防問題が議論される。老中・阿部正弘幕政改革を行ない、黒船来航後の安政元年(1854年)にアメリカ合衆国日米和親条約を、ロシア帝国日露和親条約を締結した。

黒船が来航した嘉永6年(1853年)には、12代将軍・徳川家慶が死去し、13代将軍に家慶の四男・徳川家定が就任するが、病弱で男子を儲ける見込みがなかったので将軍継嗣問題が起こった。前水戸藩主・徳川斉昭の七男で英明との評判が高い一橋慶喜を支持し諸藩との協調体制を望む一橋派と、血統を重視し、現将軍に血筋の近い紀州藩主・徳川慶福(後の徳川家茂)を推す保守路線の南紀派とに分裂し対立した。

そのころ、米国総領事タウンゼント・ハリスが、日米修好通商条約への調印を幕府に迫っていた。この時、幕府は諸大名に条約締結・調印をどうしたらよいか意見を聞いていた。そして、条約締結はやむなし、しかし調印には朝廷の勅許が必要ということになり、幕府も承認した。このため、勅許を受けに老中・堀田正睦に上った。当初、幕府は簡単に勅許を得られると考えていたが、梅田雲浜ら在京の尊攘派の工作もあり[要出典]、元々攘夷論者の孝明天皇から勅許を得ることはできなかった。

正睦が空しく江戸へ戻った直後の安政5年(1858年4月、南紀派の井伊直弼が大老に就任する。直弼は、無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行した。徳川斉昭は、一旦は謹慎していたものの復帰、藩政を指揮して長男である藩主・徳川慶篤を動かし、尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平慶永らと連合した。6月24日、慶永は彦根藩邸を訪れて登城前の直弼に違勅調印を詰問し、さらに将軍継嗣の発表を延期するよう要求した。直弼は自身の袂をつかんで引き止めようとする慶永を振り切り江戸城に登城した。この後、慶永は後を追うように江戸城に登城した。また斉昭父子と慶勝は直弼以下幕閣を詰問するために不時登城(定式登城日以外の登城)を冒した。直弼は「『不時登城をして御政道を乱した罪は重い』との台慮(将軍の考え)による」として彼らを隠居・謹慎などに処した。これが安政の大獄の始まりである。

一橋派であった薩摩藩主・島津斉彬は直弼に反発し藩兵5000人を率いて上洛して朝廷を守護した上で、違勅を正して一橋派の復権を指示する勅諚を得て、幕府と対峙することを計画したが、同年7月鹿児島で出兵の調練中の水当りが原因で急死、出兵・勅諚計画は頓挫する。斉彬死後の薩摩藩の実権は、御家騒動で斉彬と対立して隠居させられた父・島津斉興が掌握し、薩摩藩は幕府の意向に逆らわぬ方針へと転換することとなった。8月には、薩摩藩と協働して朝廷工作を行なっていた水戸藩及び長州藩に対して戊午の密勅が下され、ほぼ同じ時期、幕府側の同調者であった関白九条尚忠が辞職に追い込まれた。このため9月に老中・間部詮勝、京都所司代・酒井忠義らが上洛し、中心人物と目された梅田雲浜他、近藤茂左衛門橋本左内らを逮捕したことを皮切りに、公家の家臣まで捕縛するという弾圧が始まった。

京都で捕縛された志士たちは江戸に送致され、評定所などで詮議を受けた後、死罪、遠島など酷刑に処せられた。幕閣でも川路聖謨岩瀬忠震らの非門閥の開明派幕臣が謹慎などの処分となった。この時、寛典論を退けて厳刑に処すことを決したのは井伊直弼と言われる[4][注釈 1]

安政7年(1860年3月3日桜田門外の変において直弼が殺害された後、弾圧は収束する。

文久2年(1862年5月、勅命を受け慶喜が将軍後見職に、松平春嶽(慶永)が政事総裁職に就任する。慶喜と春嶽は、直弼が行なった大獄は甚だ専断であったとして、

  1. 井伊家に対し10万石削減の追罰[注釈 2][注釈 3]
  2. 弾圧の取調べをした者の処罰[注釈 4]
  3. 大獄で幽閉されていた者の釈放
  4. 桜田門外の変・坂下門外の変における尊攘運動の遭難者を和宮降嫁の祝賀として大赦

を行なった。

幕閣では一橋派が復活し、文久の改革が行なわれ、将軍・家茂と皇女・和宮の婚儀が成立して公武合体路線が進められた。

安政の大獄は、幕府の規範意識の低下や人材の欠如を招き諸藩の幕府への信頼を大きく低下させることとなり、反幕派による尊攘活動を激化させ、江戸幕府滅亡の遠因になったとも言われている。

受刑者

死刑・獄死

隠居・謹慎

隠居・差控

御役御免・差控など

永蟄居

譴責

甲府勝手

甲府勤番への左遷

遠島

重追放

中追放

所払

永押込

  • 鮎沢力之進……鮎沢伊太夫の子
  • 鮎沢大蔵………鮎沢伊太夫の子
  • 山科正恒………御倉小舎人
  • 春日仲襄………久我家家臣
  • 森寺常安………三条家家臣
  • 長谷川宗右衛門…高松藩
  • 長谷川速水……長谷川宗右衛門の子
  • 山国喜八郎……水戸藩士
  • 海保帆平………水戸藩士
  • 加藤木賞三……水戸藩士

国許永押込

押込

  • 津崎矩子………近衛家家臣(9月28日に免除)
  • 飯田忠彦………有栖川宮家臣
  • 豊島泰盛………有栖川宮家臣
  • 高橋俊璹…………鷹司家家臣
  • 山田時章………青蓮院宮家臣
  • 富田織部………三条家家臣
  • 大沼又三郎……下田奉行手付出役
  • 飯泉春堂………飯泉喜内の養子
  • 大竹儀兵衛……水戸藩士
  • 岩本常助………幕臣
  • 藤田忠蔵………幕臣
  • 筧承三…………岡部豊常家臣
  • 勝野保三郎……勝野正道の弟
  • 勝野ちか………勝野正道の妻
  • 勝野ゆう………勝野正道の娘
  • 三木源八………水戸藩士
  • 荻信之介………水戸藩士
  • 菊池為三郎……水戸藩士

急度叱り置き

  • 山本とよ………山本貞一郎の妻
  • 山本さい………山本貞一郎の娘
  • 山本うめ………山本貞一郎の娘

手鎖

  • 伊十郎…………江戸小網町名主
  • 源助……………江戸神田町の町人
  • 源左衛門………信濃国松本町の町人

捕縛前に死去

朝廷への処分

朝廷内の処分者については『公家たちの幕末維新』を参照[5]

その他

  • 若松永福………三条家家臣、洛中洛外江戸構い(追放)
  • 世古恪太郎……伊勢松坂の酒造屋であり、紀州徳川家の御用達を務めた豪商の息子。江戸構い(追放)、紀伊殿領分所払い
  • 楢崎将作………医師。長女の楢崎龍坂本龍馬の妻。

脚注

注釈

  1. ^ 全体では吉田松陰が最後の刑死者となる。
  2. ^ 徳川四天王を祖に持ち、家康時代以来の家として、譜代大名筆頭を自他共に認めていた井伊家の減封は、聖域に手を入れるに等しい大処断である。直弼のもとで、安政の大獄で活躍した彦根藩士の長野主膳宇津木景福は藩主井伊直憲の命令で処刑された。
  3. ^ 譜代筆頭の井伊家と親藩筆頭越前松平家福井藩)の間には、江戸時代を通して家格や席次を巡る因縁があり、また両者は領地替えを画策された因縁があった。
  4. ^ 当時の五手掛を含む幕閣など。文久2年(1862年)度中期から後半に一斉に処分されている。大獄の当時の老中の間部詮勝は隠居謹慎と1万石減封、大獄の当時の京都所司代酒井忠義は隠居謹慎、大獄の当時の寺社奉行松平宗秀は酒井の後任の京都所司代となるも朝廷の圧力により赴任できないまま罷免および溜詰格に昇進していた家格の剥奪、江戸北町奉行石谷穆清は公職罷免および隠居謹慎。勘定奉行池田頼方寄合肝煎だったが、桜田門外の変に際して大老直弼の死を隠蔽した罪により肝煎を罷免され寄合になった。大目付久貝正典は2000石減封の上、免職隠居となった。京都町奉行小笠原長常は文久2年(1862年)時点では江戸北町奉行と政事改革御用掛を兼任する重用ぶりであったが、書院番頭に左遷された上で免職および隠居処分となった。
  5. ^ a b c d e 幕府の処分案で示されるも、孝明天皇により却下された。
  6. ^ 東坊城は、幕府の示した当初案では名は挙げられなかった。が、彼がかつて武家伝奏として、幕府寄りの立場で関白九条尚忠に同調した過去を追及した孝明天皇の強い意向により、永蟄居を命じられた。

出典

  1. ^ 安政の大獄』 - コトバンク
  2. ^ 戊午の大獄』 - コトバンク
  3. ^ 安政の大獄」 - ジャパンナレッジ
  4. ^ 松平春嶽「逸事史補」(松平春嶽全集編集刊行会『松平春嶽全集(1)』原書房、1973年)
  5. ^ 刑部芳則『公家たちの幕末維新』中央公論新社、2018年、56頁。 

外部リンク


安政の大獄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:41 UTC 版)

井伊直弼」の記事における「安政の大獄」の解説

詳細は「安政の大獄」を参照 安政5年1858年7月6日朝廷から幕府条約調印経緯について御三家大老の内から1名を上京させて説明せよとの沙汰書が届くが、幕府先の不時登城対す水戸尾張両家への処分大老公務繁多理由にこれを拝辞し、代わりに老中間部詮勝新任(再任)の京都所司代酒井忠義上京させることした直弼の対応に憤った薩摩藩主・島津斉彬は藩兵2,500人を引き連れて上京し御所守護し幕府の無勅許調印糺す勅許得よう計画したが、藩兵軍事調練中に飲んだに当り急逝した失意の内にある攘夷派の再起を図るべく、薩摩藩とともに水戸藩士らが朝廷働きかけ結果孝明天皇安政5年1858年8月8日戊午の密勅幕府の他、諸藩回送するようにとの添書き付き水戸藩にも下して幕府政治非難した。これは朝廷幕府無視して一藩に全国諸藩取りまとめるよう指示を出すという江戸時代幕藩体制無視した行為であった前代未聞朝廷政治関与に、幕府厳し態度取り調べ進める。長野義言からの報告により、直弼密勅降下首謀者梅田雲浜断じて所司代酒井忠義捕縛させた。 さらに、間部詮勝命じて密勅関与した人物の摘発証言収集進める中で、水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門から家老安島帯刀奥祐筆茅根与之助及び薩摩藩士・日下部伊三治宛てた密書押収して薩摩藩兵の武力による倒幕など反体制的な行為の計画露見し多数志士橋本左内吉田松陰頼三樹三郎など)や宮家堂上家家臣小林良典飯田忠彦など)が捕縛され、彼らは12月5日から翌年2月25日にかけて、3度分けて江戸へ護送された。 この間直弼水戸藩密勅返納命じ朝旨を仰ぐよう間部命じ間部による工作功を奏して安政6年1859年2月6日度重なる幕府非礼対す天皇怒り氷解したとして密勅返納命ず勅書幕府下った2月17日から4月22日にかけて、戊午の密勅関与した公卿皇族への処分順次行われ青蓮院宮尊融入道親王三条実万二条斉敬らが隠居落飾謹慎などに処された。 8月27日徳川斉昭永蟄居徳川慶篤差控徳川慶喜隠居・謹慎水戸藩連枝の3藩主譴責処分下ったまた、これに関連して11月23日忍藩主・松平忠国養嗣子・忠矩の離籍命じられた。 志士たちへの処分8月27日10月7日10月27日3度分けて行われ切腹死罪遠島重追放などの処分下った松平慶永回顧録逸事史補』には「橋本左内らについて、評定所から『流罪追放永蟄居が妥当』との意見書大老掃部頭提出されたが、数日後に『死刑』の附付いた書類戻ってきた」とあり、厳罰背景直弼意向があったことがうかがわれる処罰幕臣にもおよび、旧一橋派岩瀬忠震川路聖謨水野忠徳永井尚志らが慶喜擁立奔走していたことを罪に問われ免職などの処分受けた閣内でも直弼厳罰方針反対した老中太田資始久世広周寺社奉行板倉勝静らが免職された。さらに京都から江戸戻った後、直弼政治方針めぐって対立深めていた間部詮勝罷免された。

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