○東京藝術大学大学美術館 興福寺創建1300年記念『国宝 興福寺仏頭展』(2013年9月3日~11月24日)
興福寺には、これまで何度も何度も行っている。もちろん、この仏頭にも何度となく対面している。しかし東京においでいただけると聞けば、それは嬉しさも格別なので、やっぱりいそいそと見に行った。開館の10時より少し早めに行ったら、チケット売り場はもう開いていて、入場を待つ人の長い列ができていた。エントランスホール内で折り返すくらい。高齢のご夫婦が多いが、若者も混じる。他人のことを言うのもナンだが、最近の日本人、仏像好きだなあ。
展示は地下2階に下りて、左右の展示室から始まる。第1展示室が混んでいたので、第2展示室から入ってみた。そうしたら、おお、『板彫十二神将』が揃っていた。旧・国宝館時代は、展示される機会が多くなかったので、たまに見ることができると、得をした気分になっていたもの。薬師如来の台座を飾っていたのではないか、という。ん? ああ、そうか、興福寺仏頭(山田寺仏頭)って薬師如来だったのかと気づく。
あらためて第1室に入りなおすと、冒頭に鎌倉風というより濃厚に宋風な弥勒菩薩像。こんなのあったかしら、としばし戸惑う。いつも国宝館においでになる「厨子入り」弥勒菩薩半跏像だが、会場では、厨子と別々に展示しているのだ。おかげで、さまざまな角度から仏像の立体感を嘆賞することもでき、ふだんは仏像に隠れて見えない部分の絵画や、細かい細工(天井に取り付けられた天女のフィギュア!)も確認することができた。
私は文書類や仏典類も興味深く見たが、それ以上に春日版の版木に感激した。興福寺には春日版の版木2778枚が伝わっているそうだ。その墨色の美しさ。また文字の筆画が太くて、これを摺ったら、黒々した紙面ができあがるだろうと想像できた。以前、印刷博物館で、春日版というのは濃い墨色が特徴と学んだ記憶がよみがえる。
思いのほか、仏画がたくさん並んでいることに驚く。大乗院伝来の『慈恩大師像』は縦242cmの大幅。でも慈恩大師本人が八尺(196.8cm)の長身だったという解説のほうに驚く。鎌倉時代の『持国天像』はカッコよかった。剣を手に岩座の上で睨みを利かせる武将図で、二匹の邪鬼を従える。戦う武士の美意識がビンビンに感じられる。解説によれば、ボストン美術館所蔵の旧永久寺真言堂障子絵(四天王像)に似ているという。昨年、日本に来ていた作品だろう、たぶん。『護法善神扉絵』は六角厨子を構成していた12枚の扉絵。黒漆の背景に彩色鮮やかな天王や諸尊の姿が美しい。どこかで見たような記憶があるのは、貞慶上人の展示で見たのかもしれない。
結局、第1、第2展示室に仏頭はいないのか(もったいぶるな)と思いながら、3階に上がる。第3展示室は、ブチ抜きの広い空間に『木造十二神将立像』を点在させ、奥に仏頭を配する。なかなか楽しい。この十二神将、どこにいらっしゃるんだっけ?としばらく考える。東金堂である。治承焼亡以前の東金堂十二神将像の再興像として造立された可能性が高いと図録にいう。私は、めずらしく「音声ガイド」を利用していたのだが、解説が「平清盛の息子・重衡によって焼かれ」「平氏によって焼かれ」と繰り返すので、苦笑してしまった。それはまあ、恨み骨髄だろうが。
しかし、治承焼亡という苦難の歴史を経て再興された十二神将像には、万一再び戦乱が起こるときは、絶対に寺を守護する強い神通力が求められたという解説を聞いて、なるほどと思った。鎌倉のリアリズムが、現代人の自然主義リアリズムとは全く違う「信仰」に基づいていることを了解した。本展の「音声ガイド」には、仏頭大使1号、2号こと、みうらじゅん氏といとうせいこう氏の対談によるボーナストラックが付いている(お聞き逃しなく!)。『板彫十二神将』と『木造十二神将立像』と『仏頭』の三箇所。やっぱり、この『木造十二神将立像』のところが、いちばんテンションが高い感じがする。腰のしぼり方、ひねり方、風をはらんだ帯のなびき方。東金堂では他の仏像の影に隠れていて、よく見えないものもある十二神将を、360度、斜めからも後ろからも見られるのはすごい。私は波夷羅大将の後ろ姿が好き! 図録の写真は、実にいいところ(細部も)を切り取っているなあ。嬉しい。
そして、ようやく仏頭である。これも、360度、全方向から見ることができる。背面から見ると、頭頂部の大きな欠損が目立って痛ましいが、このまま縮小したらマグカップになりそうだ…と不届きなことを考えてしまった(すいません)。右耳部分も大きく内側に落ち込んでいる。だが、本来、完璧なシンメトリーを有する「仏の頭部」が、この損傷を受けることによって、人間的な魅力を感じるお顔になったとも言える。「人間の顔ってアンシンメントリーでしょ」と、そのことを指摘していたのは、仏頭大使1号、2号のふたり。
この仏頭が載っていた、飛鳥・山田寺の三尊像が興福寺堂衆によって運び出され、東金堂に安置された経過を九条兼実は『玉葉』に書きとめている。さすが兼実さん。ちなみに山田寺は「興福寺と対立していた京都・仁和寺の所管であった」という図録の解説を読んで、思わず後白河法皇の顔が浮かんだ。その後、応永18年(1411)の落雷で東金堂は焼失、新本尊(現在の東金堂本尊)が新たに鋳造された。忘れられていた旧本尊の頭部が発見されたのは、昭和12年(1937)10月29日のことだという。盧溝橋事件の年だ。すごいなあ、こんなことがあるものなんだな、としみじみ往古を思う。最後に白鳳仏つながり(?)で、東京・深大寺の釈迦如来倚象がいらしていた。
興福寺には、これまで何度も何度も行っている。もちろん、この仏頭にも何度となく対面している。しかし東京においでいただけると聞けば、それは嬉しさも格別なので、やっぱりいそいそと見に行った。開館の10時より少し早めに行ったら、チケット売り場はもう開いていて、入場を待つ人の長い列ができていた。エントランスホール内で折り返すくらい。高齢のご夫婦が多いが、若者も混じる。他人のことを言うのもナンだが、最近の日本人、仏像好きだなあ。
展示は地下2階に下りて、左右の展示室から始まる。第1展示室が混んでいたので、第2展示室から入ってみた。そうしたら、おお、『板彫十二神将』が揃っていた。旧・国宝館時代は、展示される機会が多くなかったので、たまに見ることができると、得をした気分になっていたもの。薬師如来の台座を飾っていたのではないか、という。ん? ああ、そうか、興福寺仏頭(山田寺仏頭)って薬師如来だったのかと気づく。
あらためて第1室に入りなおすと、冒頭に鎌倉風というより濃厚に宋風な弥勒菩薩像。こんなのあったかしら、としばし戸惑う。いつも国宝館においでになる「厨子入り」弥勒菩薩半跏像だが、会場では、厨子と別々に展示しているのだ。おかげで、さまざまな角度から仏像の立体感を嘆賞することもでき、ふだんは仏像に隠れて見えない部分の絵画や、細かい細工(天井に取り付けられた天女のフィギュア!)も確認することができた。
私は文書類や仏典類も興味深く見たが、それ以上に春日版の版木に感激した。興福寺には春日版の版木2778枚が伝わっているそうだ。その墨色の美しさ。また文字の筆画が太くて、これを摺ったら、黒々した紙面ができあがるだろうと想像できた。以前、印刷博物館で、春日版というのは濃い墨色が特徴と学んだ記憶がよみがえる。
思いのほか、仏画がたくさん並んでいることに驚く。大乗院伝来の『慈恩大師像』は縦242cmの大幅。でも慈恩大師本人が八尺(196.8cm)の長身だったという解説のほうに驚く。鎌倉時代の『持国天像』はカッコよかった。剣を手に岩座の上で睨みを利かせる武将図で、二匹の邪鬼を従える。戦う武士の美意識がビンビンに感じられる。解説によれば、ボストン美術館所蔵の旧永久寺真言堂障子絵(四天王像)に似ているという。昨年、日本に来ていた作品だろう、たぶん。『護法善神扉絵』は六角厨子を構成していた12枚の扉絵。黒漆の背景に彩色鮮やかな天王や諸尊の姿が美しい。どこかで見たような記憶があるのは、貞慶上人の展示で見たのかもしれない。
結局、第1、第2展示室に仏頭はいないのか(もったいぶるな)と思いながら、3階に上がる。第3展示室は、ブチ抜きの広い空間に『木造十二神将立像』を点在させ、奥に仏頭を配する。なかなか楽しい。この十二神将、どこにいらっしゃるんだっけ?としばらく考える。東金堂である。治承焼亡以前の東金堂十二神将像の再興像として造立された可能性が高いと図録にいう。私は、めずらしく「音声ガイド」を利用していたのだが、解説が「平清盛の息子・重衡によって焼かれ」「平氏によって焼かれ」と繰り返すので、苦笑してしまった。それはまあ、恨み骨髄だろうが。
しかし、治承焼亡という苦難の歴史を経て再興された十二神将像には、万一再び戦乱が起こるときは、絶対に寺を守護する強い神通力が求められたという解説を聞いて、なるほどと思った。鎌倉のリアリズムが、現代人の自然主義リアリズムとは全く違う「信仰」に基づいていることを了解した。本展の「音声ガイド」には、仏頭大使1号、2号こと、みうらじゅん氏といとうせいこう氏の対談によるボーナストラックが付いている(お聞き逃しなく!)。『板彫十二神将』と『木造十二神将立像』と『仏頭』の三箇所。やっぱり、この『木造十二神将立像』のところが、いちばんテンションが高い感じがする。腰のしぼり方、ひねり方、風をはらんだ帯のなびき方。東金堂では他の仏像の影に隠れていて、よく見えないものもある十二神将を、360度、斜めからも後ろからも見られるのはすごい。私は波夷羅大将の後ろ姿が好き! 図録の写真は、実にいいところ(細部も)を切り取っているなあ。嬉しい。
そして、ようやく仏頭である。これも、360度、全方向から見ることができる。背面から見ると、頭頂部の大きな欠損が目立って痛ましいが、このまま縮小したらマグカップになりそうだ…と不届きなことを考えてしまった(すいません)。右耳部分も大きく内側に落ち込んでいる。だが、本来、完璧なシンメトリーを有する「仏の頭部」が、この損傷を受けることによって、人間的な魅力を感じるお顔になったとも言える。「人間の顔ってアンシンメントリーでしょ」と、そのことを指摘していたのは、仏頭大使1号、2号のふたり。
この仏頭が載っていた、飛鳥・山田寺の三尊像が興福寺堂衆によって運び出され、東金堂に安置された経過を九条兼実は『玉葉』に書きとめている。さすが兼実さん。ちなみに山田寺は「興福寺と対立していた京都・仁和寺の所管であった」という図録の解説を読んで、思わず後白河法皇の顔が浮かんだ。その後、応永18年(1411)の落雷で東金堂は焼失、新本尊(現在の東金堂本尊)が新たに鋳造された。忘れられていた旧本尊の頭部が発見されたのは、昭和12年(1937)10月29日のことだという。盧溝橋事件の年だ。すごいなあ、こんなことがあるものなんだな、としみじみ往古を思う。最後に白鳳仏つながり(?)で、東京・深大寺の釈迦如来倚象がいらしていた。