古代のロマンを一目見ようと多くの人が詰めかけた越塚御門古墳=11日午前、奈良県明日香村(渡守麻衣撮影) 飛鳥時代の女帝、斉明天皇の孫・大田皇女(おおたのひめみこ)の墓とみられる「越塚御門(こしつかごもん)古墳」(7世紀後半、奈良県明日香村)で11日、現地見学会が開かれた。日本書紀の記述を裏付ける第一級の発見に、午前中だけで1500人を超える考古学ファンが詰めかけた。 斉明天皇の墓の前にある越塚御門古墳の現地見学会場には早朝から長い行列ができ、石室を眺めた人たちは感嘆の声を上げながら、“悲運のプリンセス”とされる大田皇女の人生に思いをはせた。 同県天理市の岡田忠弘さん(65)は「文献の出来事を実際に目にすることができて感動した。近しい人と一緒にいたいという思いが伝わります」と興奮ぎみに話した。 見学会は12日も午前10時から午後4時まで開かれる。近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩約15分。駐車場はない
邪馬台国機内説の“本命”である奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡での大型建物跡の発見は、江戸時代中期の儒学者、新井白石が大和説を提唱して以来続く邪馬台国論争にほのかなゴールをかいま見せる成果となった。魏志倭人伝の解釈や発掘調査、科学力を駆使した研究の積み重ねによって、古代史最大の謎が解き明かされつつある。 「だんだん決着に近づいてきた」。畿内説を提唱する白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は強調する。 邪馬台国論争の歴史は古く、新井白石が大和説ののちに九州説を提唱し、国学者の本居宣長(もとおり・のりなが)も九州説を打ち出すなど本格化。現在は、考古学的なアプローチが中心だ。 纒向遺跡ではこの20年間、桜井市教委を中心に箸墓古墳(全長280メートル)など最古級の前方後円墳の調査を精力的に進めてきた。かつては4世紀の築造といわれたが、木の年輪幅の違いを利用して伐採年代を割り出す年輪年代
堺市北区の陵墓参考地「御廟山(ごびょうやま)古墳」が29、30の両日、現地で一般公開されることになった。宮内庁が管理する陵墓はこれまで研究者に限り公開が認められており、一般に公開されるのは初めて。 同古墳は、大山古墳(仁徳陵)など百舌鳥(もず)古墳群の一つで、応神天皇の初葬地の可能性があるとして宮内庁が陵墓参考地に指定。墳丘は宮内庁、周濠(しゅうごう)は地元自治会が管理しており、墳丘の護岸整備に向けて同庁が10月から事前調査に入ったのに合わせ、堺市が濠を調べていた。 調査の結果、古墳の全長が従来より約14メートル大きい約200メートルになることが判明。出土品から築造年代は従来の5世紀後半から中ごろにさかのぼり、墳丘のテラス部から円筒や朝顔形の埴輪(はにわ)列が確認された。 宮内庁は「御霊(みたま)の安寧と静謐(せいひつ)を守る」として、陵墓の公開を研究者に対する補修時の発掘調査見学に限定し
今城塚古墳(いましろづかこふん)は、大阪府高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。 造営時の6世紀前半では最大級の古墳である。宮内庁の治定は受けていないが第26代継体天皇の真の陵とする説が有力で、発掘調査や一般人の立ち入りが可能な大王陵になる。 摂津北部、三島平野の中央部に位置し、古墳時代後期の6世紀前半に築造された前方後円墳である。三島野古墳群に属する。墳丘の長さ190メートル、二重の濠がめぐっており、内濠、外濠を含めた兆域は340メートル×350メートルの釣鐘状の区画を呈し、淀川流域では最大規模の墳墓となっている。 古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』『延喜式』など文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した継体天皇とするのが学界の定説になっている。また、埴輪工房跡と目される生産遺跡新池
宮内庁 「どう見ても古墳だろ」 研究者 「単なる山だ」 :様々なニュースを適当に貼っていくブログサイト。無駄な感想つき。 1:番組の途中ですが名無しです 2006/12/02(土) 23:55:27 ID:2ywc7PoI0 ?BRZ(5102) 古墳か、自然の山か、論争が続いている奈良県御所市の孝昭天皇陵で5世紀代とみられる円筒埴輪(はにわ)の破片2点が見つかっていたことが分かり、同天皇陵を管理している宮内庁が2日までに、考古学研究者らに公開した。 孝昭天皇は紀元前に即位したとされるが、学界では伝説上の人物との見方が強い。 宮内庁書陵部は「孝昭天皇陵は古墳だった可能性が高まった」と話しているが、孝昭天皇と埴輪の年代は500年以上離れており、今後論議を呼びそうだ。 (後略) 産経新聞 http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/061202/bnk
倭迹迹日百襲姫命大市墓 拝所 箸墓古墳(はしはかこふん)、箸中山古墳(はしなかやまこふん)は、奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は不明だが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されている。また、笠井新也の研究以来、邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかとする学説がある[5][6]。周濠部分は国の史跡に指定されているほか[7]、一部が「箸中大池」としてため池百選の1つにも選定されている[8]。百襲姫の陰部に箸が突き刺さり、絶命したことが名前の由来である[9]。672年に壬申の乱の戦場となったが、その記事では箸陵と記されている(『日本書紀』)。 奈良盆地東南部、三輪山北西山麓の扇状地帯に広がる大和・柳本古墳群に含まれる纒向古墳群(箸中古墳群)の盟主的古墳であり、纒向遺跡箸中地区に位置する。出現期古墳の中でも
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