ひとつ まえの 記事で、対象との距離を とることが「うつくしさ」を 感じるための ひとつの条件なのだ、というようなことを かいた。対象と じぶんを きりはなすこと。対象と じぶんとの あいだに あるはずの《関係》を、わたしの 認識から けしさること。こうして わたし自身を 特権的な「みるもの」の位置に おくことで、わたしから きりはなされた対象に「うつくしさ」を みいだすことができる。 このように わたしは ときおり 世界から みずからを ひきはなし、無関係を よそおうことで、やすらぎ(慰安)を えている。ゆうやけや まちのあかりは わたしに はたらきかけてこない。それらは、わたしに なにかを といただすことを せず、また わたしを みつめかえすことを しないかぎりで、うつくしい。ゆうやけには わたしを みるための めだまが ついていないようだし、まちのあかりには しゃべるための くちが