《1》南京大虐殺の真相(要約版) http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1 《2》南京大虐殺・記者たちの証言 http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/07b0432511c5b1ba46273ea3154fe867 《3》南京大虐殺・数字で見る南京戦 http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/7af6602fc4a3e27fcbc6eaab819de7f4 《4》南京大虐殺・当時の情報の流れ http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/0553b7331aec67551f6b1efc60e38e4a 《5》南京大虐殺・ベイツレポート http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e84799
太平洋戦争では、じつは日本海軍の軍艦は致命的な欠陥を抱えていた。そのため魚雷攻撃に非常に弱く、いとも簡単に沈没していたのだ。これにより艦隊の編制に支障をきたし、戦艦大和の行動も制限されて、海軍が描いた勝利の方程式は崩壊したのである。 いったい日本の軍艦にはどのような欠陥があったのか? 歴史の謎を科学で解き明かして大好評を博した『日本史サイエンス』の第2弾を著した播田安弘氏が、専門である船舶設計の知見をもとに喝破する。 「常套句」に隠されたもの 太平洋戦争における日本の敗因は、そもそも米国と戦ったことだとは、よくいわれるところです。たしかに開戦直前の国力の差は、GNPで比べると日本は米国の約9%にすぎませんでした。これでよくも開戦したものと驚くばかりです。 しかも、日本が乏しい国力を傾けて建造した戦艦大和は、ほとんど出撃しないまま終戦直前に沈没し、戦後になってピラミッド、万里の長城と並ぶ「無
しかし、ある時から自身が洗礼を受け、宣教師たちを擁護するようになる。それは自身の保身のための策略であった。 ドイツの将軍を軍事顧問に迎えて万全の防御態勢を固めた上海戦で敗北すると、「宣伝戦」に切り替える戦略を採用する。孫子の兵法で称揚されているもので、自国の立場を有利にするプロパガンダ作戦である。 蒋介石はそのための組織を1937年11月に整えるため、国民党中央党部と国民政府軍事委員会を改組して中央宣伝部を組織する。 これは、上海戦で敗北し、南京への追撃戦が展開されている時であり、軍事力に代えて、「タイプライターで闘う」戦術への転換である。 宣伝部副部長には米国の大学を卒業し、新聞編集にも長じた董顕光を当てる。留学以前にはわずかな期間ながら、蒋介石の英語教師をしたこともあり、戦後は台湾の駐日大使となる。 また、宣伝部の下に対外宣伝を専らにする国際宣伝処を設け、その処長には大学教授で文学者の
葛根廟事件の被害者となったのは、満洲国興安総省の省都である興安街(烏蘭浩特)の住民であった。現在では中国の内モンゴル自治区となっている地域である。 戦前戦中、興安街とその近辺には、日本からの開拓移民が多く暮らしていた。土地の買収などを巡って問題が起こることもあったが、移民一人ひとりは現地の人々と交流を持ちながら平穏に生活している人たちがほとんどであった。街には神社(興安神社)や国民学校(興安在満国民学校)などがあった。 戦時中も大きな戦闘はなく、住民は静かな日々を送っていた。 現地召集によって、住民の大半は「女性・子ども・老人」に 興安街には3000人ほどの邦人が暮らしていたとされる。一時は4000人ほどまで増えた時期もあったが、戦争が長期化すると成人男性の現地召集によってその数は減少した。「根こそぎ動員」により、住民の大半は女性や子ども、老人となっていた。 こうして迎えた昭和20年8月9
第2次世界大戦直前、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人を救った陸軍中将、樋口季一郎(明治21年~昭和45年)の功績を顕彰する銅像を樋口の出身地、兵庫県南あわじ市などに建立する計画が進んでいる。12日までに孫の明治学院大学名誉教授の隆一氏を代表とする銅像建立委員会が設立された。 設立委員には、南あわじ市の守本憲弘市長や戦略論研究で世界的権威の米歴史学者であるエドワード・ルトワック氏らが名を連ね、来年秋、南あわじ市の伊(い)弉(ざ)諾(なぎ)神宮などに銅像建立を目指し、5月に一般社団法人を設立し、約2000万円の寄付を募る。 樋口中将はハルビン特務機関長だった昭和13(1938)年、ナチスの迫害を逃れソ連を通過してソ連・満州国境に逃れながら立ち往生していたユダヤ難民を満州国に受け入れ、脱出ルートを開き、救出人数は2万人とされている。 この2年後の40年、リトアニアのカウナスで杉原千畝領事代理が命
普天間基地の東側に位置する中城村では、沖縄戦で、当時の住民の3人に1人にあたる、5,500人以上が犠牲になりました。 村のほぼ中央に位置する「161.8高地」は、単なる丘に見えるように偽装された日本軍の陣地でした。 中は、縦横無尽にトンネルで結ばれています。 アメリカ軍の沖縄本島上陸から4日後の1945年4月5日、ここに潜んでいた日本軍の部隊が、戦車をともなう600人以上のアメリカ軍を迎え撃ちました。 元陸上自衛隊戦史教官 葛原和三さん 「ガソリンが燃えたように見えますね。 完全にここは敵に制圧された。」 中城村教育委員会 稲嶺航さん 「(住民が)戦闘に巻き込まれて亡くなっている方もたくさんいるんですけど、その方たちの生死が、もっと細かく分かってくると、総合的に見えてくる。」 実は、この丘での戦いについての秘密資料が、沖縄のアメリカ軍基地内に長い間保管されていました。 この資料で分かるのは
朝日の慰安婦報道「検証記事は不十分」…橋下氏(2014年08月09日) 朝日新聞がいわゆる従軍慰安婦問題を巡る過去の報道に一部誤りがあったとする記事を掲載したことに対し、日本維新の会の橋下徹代表(大阪市長)は8日、「検証報道を見ても、自分たちが日韓関係をこじらせた責任者との認識が全くない」と改めて批判した。大阪市役所で記者団に語った。 [全文へ] 朝日の慰安婦報道「日韓関係ゆがめた」…舛添都知事(2014年08月08日) 韓国メディア朝日に追随(2014年08月07日) 与野党、朝日批判続く…慰安婦報道(2014年08月07日) 歴史認識 溝深く(2014年08月07日) 朝日慰安婦報道 日韓関係の行方…識者に聞く(2014年08月07日) 橋下氏 朝日を批判 従軍慰安婦問題(2014年08月06日) 慰安婦報道 朝日、32年後の撤回(2014年08月06日) 【社説】朝日慰安婦報道 「吉
機雷掃海(航路啓開)部隊 大東亜戦争中、日本の周辺海域には約66、000個の機雷が敷設された。その内訳は、日本海軍の 係維機雷が約55、000個、米軍の感応機雷が約11、000個である。 戦後になって、これらの機雷の掃海に従事し、主要な航路・港湾泊地を啓開、戦後の復興に大きく貢 献したのが機雷掃海(航路啓開)部隊である。 当時の機雷掃海艇 概史 戦争末期、米軍は対日反攻政策の一つとして感応機雷を敷設し、日本本土の海上封鎖により重工業の 弱体化を目的とする「飢餓作戦」を展開した。 主要な航路はことごとく塞がれ、敗戦後二ヶ月間で83隻の船舶が触雷した。当初、掃海作業の重点は、 大阪-下関間の航路確保を目的として瀬戸内海におかれ、掃海艇と現地徴用の漁船など112隻で「臨 時掃海部隊」が編成された。 その後、掃海作業は全国的に並行して進められたが、瀬戸内海では昭和23年に9隻、翌24年には6隻 の
昨日の午後9時からNHKで放映されていた、NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」第一回を、先ほど鑑賞しました(今回はちゃんと録画できました)。 (画像はNHKホームページより) ご覧になった方も多いかと思いますが、この番組は海軍の将官や佐官が昭和末期から平成初期にかけて、原宿に集まって完全非公開で行った「反省会」つまり意見交換会の録音テープを基に、戦前から戦中にかけての海軍上層部に蔓延していた「空気」や、史実のような状況および結果を招いた原因や構造についての当事者による分析などを探ろうという、全三回シリーズの第一回です。今日と明日に、第二回と第三回が放送される予定です。 「あの戦争と同じ失敗を繰り返さないため」と言いながら、交わされた意見の内容を非公開にしていたというのは、一見すると矛盾しているようにも思えますが、私は結果的にそのような完全非公開の形で会合を継続したのは正解だったと
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