少々長いタイトルで申し訳ない。パリのテロを受け、できるだけ多くの人に考えてもらいたいことがあり、要素を詰め込んでしまった結果である。下記では、冷静な文章が残せるように努めたい。また、IDをつい1時間前に取得したばかりのはてな新参者であるため、慣例のようなものをスルーしてしまっていたら何卒ご容赦願いたい。
つくづくFacebook社は行動が早い。 LGBTへの支持を表明するレインボーと同じように、今回のテロへの哀悼を示すトリコロールへプロフィール写真を手軽に変更できる機能がリリースされた。
ユーザーは続々と自らのプロフィール写真をトリコロールに変え、一方でそうしないユーザーはそれに対して続々とアイロニーを寄せている。自分の観測範囲内だと、「どうせ何も考えてないんだろ?」「お気軽すぎるんだよな」「で、その写真はいつ元に戻すの?」「承認欲求も大概にしろ」などなど。
レインボーブームのときから、自分はそれを「冷笑主義」と呼んでいる。これについて掘り下げればキリがないから簡潔に済ますが、「何かをする人」と「それをバカにする人」の二項対立になってしまった日本社会の象徴のような光景だと思う。「何かをする人」を下に見て、その背景や動機に何があるかを考えようとせず、一様に冷笑する行為が蔓延しているのである。
このようなソーシャルムーブメントに対する「冷笑主義」について、自分は「いい加減にしてくれよ」と思ってしまう。民主主義というのは、いつもこういう未熟なところから発展するものなのではないだろうか?小さな波が世論となり、それが政治を動かす光景を、われわれは何度も見てきたはずだ。むやみにアイロニーを飛ばすことは、民主主義の停滞につながるとさえ思う。
そもそも、SNS上でアイロニーを飛ばしたって、なんのプラスにもならないのではないか。「憎しみの連鎖を断ち切らなきゃ」とは、プリキュアも名言を生んだものである(聞きかじりゆえ、諸兄には何卒ご容赦願いたい)。
自分は前述したとおり、このようなソーシャルムーブメントには賛成の立場をとる。これだけ冷笑主義が満ち溢れている時代に、アクションを起こした人の勇気はけなされるものでは決してないと思う。
ただ、レインボーとトリコロールについては、分けて考えなければならない。レインボーを表明することは、すべての人の幸せにつながる(「傷つく人がいない」といった表現は控えるが、つまるところそうだと思う)。しかし、トリコロールを掲げることで傷つく人は、世界中にいるからだ。
下記のツイートを見てほしい。
@SaeedSato
「敬愛するパリよ、貴女が目にした犯罪を悲しく思います。でもこのようなことは、私たちのアラブ諸国では毎日起こっていることなのです。全世界が貴女の味方になってくれるのを、ただ羨ましく思います。」 シリア出身UAE在住の女性アナウンサー
つまりは、こういうことなのだ。イラクやシリアで「100人が亡くなる」といった悲惨な出来事が、この1年に何回起きたか。そしてなぜ、それらの国の国旗がFacebook上でプロフィール写真にならないのか(Facebookがアメリカのサービスであることをおいておいても)。なぜ、「#prayforsyria」や「#prayforiraq」がTwitter上でトレンドに入らないのか。
自分自身も今回テロについて調べるなかで、アフガニスタンやパキスタン、ナイジェリアなどで多くの人が亡くなっていることをはじめて知った。無知を恥ずかしく、恐ろしく思った。
「Facebookのプロフィール写真をトリコロールにする」という行為は、個人の自由だ。一個人の「哀悼の示し方」についてアイロニーや批判を飛ばしたりしてはいけないと思う。加えて、先述したように、それは民主主義の問題にもつながる。
けれど自分には、そのアイコンが、欧米世界と中東世界の分断を深めているように思えてならないのだ。
今回の事件が発生してから24時間、(日本の)ネット上で主に見られた議論は「マス・メディアに対する不信や批判」。そして次の24時間は、先述した「トリコロールブームに対する違和感や批判」であった。
本当にそれでよいのだろうか。われわれが今、情報収集し、考え、話し合うべきことは、本当にそれでよいのだろうか。自分は、そうではないと思う。この事件の本質こそに、目を向けなくてはならない。
ー軍事力行使でテロが封じ込められたとしても、それは新たな憎しみと悲劇を生むだけではないのか。かといって、平和的な対話でテロが封じ込められるのか。
ー難民を受け入れた場合、欧州は政治的にも経済的にも混乱するだろう。それがテロの温床を生むとの意見も否定はできない。しかし、受け入れないという選択肢はさらに世界を混迷に陥れるだろうし、そもそもそれは「人間として」正しいのだろうか。そして日本は、どのように行動すればよいのだろうか。
ーオバマ大統領の演説にあった”the universal values that we share”、この”WE”とはいったい誰なのだろうか。
誰も正解は分からない。政治家や学者でさえも、正しい道を示すことができない。それについて考えることは難しい。自分も、上記のような問題について情報を集めれば集めるほど、考えれば考えるほど、絶望のようなものを覚える。
繰り返すが、今われわれが見つめるべきものは、「トリコロールブームへの批判」でもなく、「メディアへの批判」でもない(これについては長期的に考えるべき問題だ)。この事件の本質について考えるのが難しいからこそ、わかりやすい別の何かに怒りをぶつけたくなってしまうが、そこで諦めたり逃げたりしてはいけない。
そのことを伝えたいという想いで、キーボードを打っている。書きたいことは山程あるが、長くなっても意味がないので、このあたりで終わりにしたいと思う。とはいえもうずいぶん長くなってしまったが、このような長文駄文を最後までお読みいただいたことに心より感謝を申し上げる。ありがとうございます。浅学菲才な部分も多くお恥ずかしいが、その点はぜひご指摘をいただければ幸いである。