「岩波書店が株式会社になった一年のちの、昭和二十五年五月一日、株式会社岩波映画製作所は成立した。資本金は七百万円である。私が代表取締役で、吉野馨治が常務、岩波雄二郎が取締役であった。(中略) 『岩波写真文庫』の仕事は、戦後上海から帰って、病院生活をし、その後サン・フォトという写真週刊誌をやって失敗した名取洋之助が応援していた。」 (『一本の道』 小林勇) 結果的に、『岩波写真文庫』は、名取洋之助最後の出版事業となる。この企画自体は小林勇が考え出したものだ。これからの出版社経営には、視聴覚メディアの導入が不可欠と考えた小林は、のちに記録映画の巨匠となる羽仁進を中心に、科学映画、教育映画を製作するためのプロダクション、岩波映画製作所を設立する。しかし社内で反対が多かったため、小林は岩波映画製作所をひとまず独立採算制の子会社とし、その経営を、『岩波写真文庫』の売り上げで賄おうと考えたのだ。そこ