7世紀にインドを訪れた玄奘三蔵の『大唐西域記・巻十』には、提婆達多が生きながら地獄に堕していった穴がインドに残っていたこと、またベンガル地方では後期まで提婆達多派の教団が存在しており、三伽藍を要して乳酪を口にせず提婆達多の遺訓を遵奉し、過去七仏の中でも釈迦仏を除いた賢劫の三仏を信奉していた事などが記されている。また法顕三蔵も5世紀にネパール国境近くで提婆達多派の教団に遭遇したと報告している。 『増一阿含経』には、提婆達多が逆罪を犯した様子が描かれている。しかし増一は、阿含経の中でも最も後期の部派仏教による成立であり、堤婆達多が釈尊に逆心し大罪を犯したとする内容は現在の仏教学においては疑問視されている。 なお同経には、彼の末路が詳細に述べられている。彼は三逆罪を犯した後、自身の爪に毒を塗り釈迦を殺さんとするも、地中から炎の暴風が巻き起こり巻き込まれる。この刹那に提婆達多は悔いて「南無仏」と言
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