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Alles LebenとDie Weltに関するUnimmoのブックマーク (2)

  • 生きることを取り戻す:『存在と時間』序論の読解を終えるにあたって - イデアの昼と夜

    私たちは、『存在と時間』序論の核となる論理をたどり終えた。これまでの歩みを要約しておこう。 『存在と時間』序論の論理: ①「そもそも存在するとは、何を意味するのか。」哲学は、この問いをあらためて設定するべきである(存在の意味への問い)。 ②ところで、現存在、すなわち人間は、存在の問いを問うにあたって、比類のない地位を占めている。人間は存在についての理解(存在了解)を持つとともに、自分自身、自らの存在に関わる存在者として実存している(現存在の存在的-存在論的優位)。 ③従って、存在の意味への問いを問うためにも、まずは人間という存在者のあり方を、すべての先入見を捨て去りつつ、徹底的に問い直さなければならない(基礎的存在論としての、現存在の実存論的分析論)。 これから論に入るにあたって心にとどめておきたいことは、『存在と時間』を読むことは私たちにとって、私たち自身の生を根底から捉え直し、取り戻

    生きることを取り戻す:『存在と時間』序論の読解を終えるにあたって - イデアの昼と夜
  • 省察するわたしが、悪霊に向かって言いうること - イデアの昼と夜

    前回までで省察の行程をたどり終えたが、この行程に関してもう一つ、哲学上の帰結を確認しておくことにしよう。 論点: 懐疑する省察は最後の地点で、悪霊による欺きの可能性をも超えて、信を信じることの根拠を提示する。 「わたしの目に映るすべてのことは、当は、悪霊による欺きの中で見せられている幻にすぎないのではないか。」このような懐疑は非常に現実離れしたものではあるけれども、かえって私たちの日常の生を作り上げている信という契機を浮き彫りにするとも言えるのではないか。 わたしが見、聞き、感じるすべてのものは、わたしが見、聞き、感じる通りに存在する。日常的態度においては、私たちはこのようなことを当然と思い、そこに目を向けることもないけれども、当は、私たちはこのことを信じているのである。すなわち、真であるはずのものを、真であるものとして受け入れているのである。 このような信(私たちはこのような信を根源

    省察するわたしが、悪霊に向かって言いうること - イデアの昼と夜
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