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死刑の判決が下されたのち、『弁明』のソクラテスは、これからアテナイで起こるであろう出来事について、一つの「予言」をすると言い始める。少し長くなってしまうが、その箇所を引用しつつ、検討してみることとしたい。 「諸君よ、諸君はわたしの死を決定したが、そのわたしの死後、間もなく諸君に懲罰が下されるだろう。それは諸君がわたしを死刑にしたのよりも、ゼウスに誓って、もっとずっとつらい刑罰となるだろう。なぜなら、いま諸君がこういうことをしたのは、生活の吟味を受けることから、解放されたいと思ったからだろう。しかし、実際の結果は、わたしの主張を言わせてもらえば、多くはその反対となるだろう。諸君を吟味にかける人間は、もっと多くなるだろう。[…]そして彼らは、若いから、それだけまた手ごわく、諸君もまたそれだけ、つらい思いをすることになるだろう。」 状況を整理してみよう。ソクラテス自身が用いている比喩を継続して用
最後に、後回しにし続けてきた論点を補足しておかなければならない。 問い: 懐疑するわたしが「わたしは人殺しになるわけにはゆかない」という論理を受け入れない時には、何が起こるのか? 私たちの省察においては、すべてを飲み込むような懐疑の自己破壊的な力が振るわれる中で、「わたしは人殺しになるわけにはゆかない」という最後の一点だけが、他者の存在を疑うことのできないものとして信じることへと決断させたのだった。それでは、この一点すらをも疑う時には、一体何が起こるのだろうか。 この点に関しては、筆者の答えは非常にシンプルなものである。 答え: その場合には、わたしは思惟のうちで自死するほかないであろう。 「わたしは人殺しになるわけにはゆかない」という倫理的不可能性を飛び越してしまったら、その時にはもはや、懐疑するわたしのその懐疑を押しとどめるものは何もない。他者の存在を存在として受け止めることはできず、
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論点: いつか死ぬということを心に留めるとき、人間にできるのは、ただ天から自分に与えられた務めを果たすことだけである。 たとえば、僕個人の例でいえば、ここでこうして二日に一回ひとりで語り続けているのは、僕はこれが自分に天から与えられた務めなのではないかというのを(きちんと果たせているかどうかは別として)、今はかなり本気で信じている。 ぶっちゃけて言えば、というかぶっちゃけるも何もないんだけどさ、このブログって、アクセス数なんてもう全然ないわけである。まあ、哲学みたいなジャンルで高アクセスだったらかえってうさんくさいみたいな側面もあるとは思うのだが、まあそれでも、ほんと全然閲覧数は少ないわけである。 でも、数は少なくてもありがたいことに、僕が書いたものを読み続けてくれる人はいる。いやほんと、特にここ数年は好き勝手に書き続けてるだけだから、読んでくれている人がいることには、(いつもながら)ただ
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