「理解」について最も重要な論点とは、この契機が可能存在という、人間の根源的なあり方を指し示している点である。 「現存在とは、なにかをなしうることをさらについでに所有しているような、目のまえにあるものではない。現存在は第一次的に、可能存在である。現存在とはそのつどじぶんがそれでありうるものであり、じぶんの可能性がそれであるとおりのものにほかならない。」(『存在と時間』第31節) 階段を上り下りする、ドアを開ける、手に取ったリモコンを操作する、等々。人間のとる行動はそのつど、自らがあらかじめ持っている存在可能を実現するところに成立する。 だからこそ、存在可能とは人間にとって「ついで」のもの、単なる付け加えなどでは全くなくて、むしろ、人間を人間たらしめている根源の構造に関わるものに他ならないのである。人間とは、可能存在である。私たちの生は、その一刻一刻に至るまでが、可能性に関わり、可能性を生きる
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