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歴史と生に関するjiangmin-altのブックマーク (15)

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    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2012/02/12
    "トルコ人の友人達は、英語世界の「トルコによるクルド人弾圧」の記事をみつけるたびに、「トルコの内閣にはクルド人と結婚している大臣が何人もいるのに、どうして、英語人はこんなに単純なんだ!」と怒るのが常"
  • 『カッコーの巣の上で』 : 西岡昌紀のブログ

    2011年12月24日21:54 カテゴリ 『カッコーの巣の上で』 * http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1806972196&owner_id=6445842 1983年の秋の事です。 その年の秋、1か月余りヨーロッパを旅する機会を得た私は、当時「共産主義」政権の支配下に在ったチェコスロヴァキア(当時)の首都プラハに10日ほど滞在して居ました。 当時のチェコは、今の若いチェコ人が想像も出来無い様な圧政の下に在りました。 人々は、暗い、絶望的な表情をし、絶えず、秘密警察の影に怯えながら暮らして居ました。 そんな当時のチェコの首都プラハに私は10日ほど滞在して居たのですが、この時のプラハ滞在は、私の人生において、当に貴重な体験と成って居ます。 そんな私のプラハ滞在中の或る日、チェコ人の友人たちが、私をオペラに連れて行ってくれました。 プラハの国民劇場でスメタナ

    『カッコーの巣の上で』 : 西岡昌紀のブログ
  • 『滝山コミューン』の衝撃 - jun-jun1965の日記

    原武史の『滝山コミューン』は、刊行当時評判がよく、講談社ノンフィクション賞も受賞し、原としては三つ目の賞になった。呉智英さんも褒めていた。ただ書評などを見ても、私には興味が湧かなかった。このたび古を購入して目を通し、やっぱり自分とは無縁だなと思いつつ、その「世界」のあまりの違いに愕然とした。 愕然としたのは、原が私と同い年で、その小学校時代のことを描いているのに、全然共感したり同時代性を感じたりすることがないからである。 「滝山コミューン」とは、原が住んでいた東久留米市の団地と、そこの第七小学校の呼び名で、政治の季節が終わった後も、なお日教組のような左翼組織に属するような教師たちの、学校運営と、それへの原の違和感が中心となっているが、妙に細かな事項も書いてあり、しかしそれもまた私の感じていたものとは違う。 原は東久留米を「郊外」と位置付けているが、私が卒業したのは越谷市立出羽小学校で、都

    『滝山コミューン』の衝撃 - jun-jun1965の日記
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    jiangmin-alt 2011/07/18
    "これで、いかに「世代論」というのが無意味であるか、ということが分かるであろう。私もいずれ、小学校時代の、地方の貧しい生徒の生活を書かねばならないと思った"
  • [書評]言葉でたたかう技術(加藤恭子): 極東ブログ

    書名に「言葉でたたかう技術」(参照)とあり、帯には「ビジネスで、外交で、日常で勝つための弁論術」とあるので、そういう技術を習得したいと思って読む人もいるかもしれないし、私もそういうなのかと思って読み始めたが、そういうではなかった。そういう小手先の技術ではないというべきだろう。むしろその技術の奥義に触れた書籍であり、一読すればなるほどこうすれば欧米人と議論しても負けることはないという秘訣を知ることができる。 あえてひと言でも言えないこともない……苦労。あるいは、努力。あるいは、根性。ど根性というべきかもしれない。第一章「アメリカでのけんか修行」ではその苦労がエキサイティングに語られている。おしんアメリカに行くといった風情でもあり、江藤淳の「アメリカと私」(参照)や須賀敦子の「ヴェネツィアの宿」(参照)なども思い出す。戦後の焼け野原のなかで学問を志した青年たちは異国の地にあって歯を

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    jiangmin-alt 2011/04/05
    "第一章の苦労譚だけでも読む価値のある本である。すごいことが淡々と書いてある。ある程度欧米というものにぶつかる人生を予感する若い人なら、ここに描かれている挿話を知らないと無駄に痛い目をして学ぶことに"
  • 東京と私 - 内田樹の研究室

    東京新聞に「わが町、わが友」という6回連載エッセイを書いた。 思い出に残る東京の町について書いてくれと頼まれた。 東京新聞だと、読んでいる人は限られているので、ブログで一挙公開することにした。 どぞ。 下丸子(1) 私は東京生まれだが、20 年前に東京を離れ、以後ずっと関西在住である。もちろん、今も東京にはよく行く。母や兄や娘が住んでいるし、友人たちも大勢いる。でも、「東京に帰る」という言い方はもうしない。関西に引っ越してきてから、しばらくは「東京に帰る」という言葉に実感があった。多摩川の鉄橋を渡るときには「故郷に戻ってきた」という気がした。だが、あるとき電車で西に向かっているとき、夕陽を背にした六甲の山並みのシルエットを見て「ああ、もうすぐ家だ」と思ってほっとしたことがあった。その瞬間に東京は「私の街」ではなくなった。 このコラムで私が語るのは「かつて『私の街』であった街」についての回想

  • 永田町徒然草

    ベルリンの壁が崩壊してから、昨日は満20年であった。私たちの世代にとって、ベルリンの壁の崩壊は特別の意味をもっていた。私たちの世代は、イデオロギーの対立と無縁で青春を過ごすことができなかった。左右のいずれの陣営に立とうが、イデオロギーを意識せざるを得ない時代だったのだ。ベルリンの壁の崩壊は、イデオロギーの崩壊を象徴する出来事だったのだ。 1989年11月は平成元年11月であった。自民党国会議員としては、ベルリンの壁の崩壊は、自由主義の勝利を意味していた。バブルの最後で、世の中は金回りも良かった。来ならば得意絶頂で良かったのだが、その夏に行われた参議院選挙で自民党は惨敗した。土井たか子社会党委員長が“山は動いた”と叫んだ選挙である。早晩行われるであろう総選挙を控え、私は毎日必死に活動していた。平成2年2月に行われた総選挙で、私は落選した。 以来3年半、厳しい浪人生活を過ごさざるを得なかった

    永田町徒然草
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    思いは言葉に。 はてなブログは、あなたの思いや考えを残したり、 さまざまな人が綴った多様な価値観に触れたりできる場所です。

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  • 楽しい共学時代 - ohnosakiko’s blog

    中学の屈辱 私の中学時代はジェンダーという言葉もまだない、70年代前半の昔である。テレビでは、スポ根ドラマや学園ドラマが人気だった時期。 学園ものでは、喧嘩が強いガサツな男子、秀才くん、か弱い美少女といった布陣に、可愛くて気の強い女子というものが登場し、「○○くん!謝んなさいよ!」とか「女だからってバカにしないで!」みたいな啖呵を切り、「やれやれ、女子にはかなわねえな」みたいな‥‥まあ何かそういうノリだった。別学の人は「楽しそうだなあ」、共学の人は「ないよこんなの」と思っていたのではないか。 中学の三年間を振り返ると、異性との思い出はほとんどない。特に仲のいい男子もいなかったし、気になってしょうがない男子もいなかったし、モテもしなかった。 私の心のアイドルは、教科書に写真が載っていた中原中也と、『ベルサイユのばら』のアンドレと、画家のモジリアニ(男前)。 「セカチュー」みたいな微笑ましいカ

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    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2009/03/27
    興味深い自分語り
  • 武田邦彦 (中部大学): 馬糞を片付けたのは自動車だった!

  • 閉店法とわたくし - kom’s log

    id:Romanceさんがブックマークでドイツの閉店法(Ladenschlussgesetz)に関する二年前の記事を発掘していたんで、ちょっと触れてみる。閉店法は100年以上の歴史を持つドイツの法律なのだが、この10年でずいぶんと緩和された。ちょうど私のドイツ生活とこの緩和の過程は重なっている。私の経験と閉店法のメリットデメリットなどをつらつら書こうかと思うが、ひとまずは以下が閉店法の簡単な歴史。 1900年 ドイツ帝国で閉店法施行。小売店の営業は平日の5時から21時まで許可。 1957年 旧西ドイツで閉店法施行。原則として、平日は7時から18時30分まで、土曜日は7時から14時までの営業を認めた。日曜は例外を除き営業不可。 1989年 閉店法改正。木曜日の営業が20時30分まで可能になる。 1996年 閉店法改正。平日は20時まで、土曜は16時まで可能になる。 2003年 閉店法改正。土

    閉店法とわたくし - kom’s log
  • 2004-10-25

    新幹線の「地震感知自動停止システム」の話をどこかで読んだのだが、直下型だとP波とS波の時間差がないので、意味がないってのは新幹線開通当時から変わっていないそうだ。うわー。それよりも、今回の脱線で横転しなかったのは列車が側溝にはまってそのまま直進したからなのだそうだ。ということは、側溝をしっかり掘れ、ということだよな。外れても直進するようにすればいい。 歴史に対して価値判断を避けるか避けないか、という論点がある。歴史学者にはそりゃそう、価値判断抜きに完全なる事実を記述してほしい。それが不可能なことはわかっているが、正確を期して欲しい。南京大虐殺はそもそもあったのか、なかったのか、被害者は3万人だったのか、30万人だったのか、あるいは300万人だったのか。私情を挟まず、歴史学者自身の文化的背景を滅却し、公平に判断して欲しい。私情を挟むのは司馬遼太郎のような”歴史家”にまかせればいい。 しかし、

    2004-10-25
  • 言動一致は大事 - hasenkaの漂流記

    言っている事と動きが伴わないと破局を迎える。日戦争に負けたのは言動が一致しなくなったからである。江戸幕府が滅びたのも言動が一致しなくなったからである。ベネチアが滅びたのもローマが滅びたのも言動が一致しなくなったからだ。 日戦争をやるに始める事はターボエンジンの開発が至上命題だったろう。そうすればB5229も迎撃できる体制をできたしそうやすやすと空爆をされる事もなかった。それを精神論にすり替え何の有効な手を打ち出す事もできなくなっていた。もうコピーさえも出来ないほど日の産業は機能しなくなっていたのだ。 今日に必要な事はこうした方がいいと思った事を直ぐに実現できる構造である。大連立はダメというけど民主党が第一党になったらどうするんだろう。自民党がいきなり消えてなくなる訳でもないのに喩え民主が政権を取っても何も決められない国会はそのままあり続ける。その想像力がないらしい。民主がリード

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  • dfltweb1.onamae.com – このドメインはお名前.comで取得されています。

    このドメインは お名前.com から取得されました。 お名前.com は GMOインターネットグループ(株) が運営する国内シェアNo.1のドメイン登録サービスです。 ※表示価格は、全て税込です。 ※サービス品質維持のため、一時的に対象となる料金へ一定割合の「サービス維持調整費」を加算させていただきます。 ※1 「国内シェア」は、ICANN(インターネットのドメイン名などの資源を管理する非営利団体)の公表数値をもとに集計。gTLDが集計の対象。 日のドメイン登録業者(レジストラ)(「ICANNがレジストラとして認定した企業」一覧(InterNIC提供)内に「Japan」の記載があるもの)を対象。 レジストラ「GMO Internet Group, Inc. d/b/a Onamae.com」のシェア値を集計。 2023年10月時点の調査。

  • 先日新左翼系の人たちが老人になったなみたいな話をして - finalventの日記

    そろそろみなさん棺桶に片足状態になってきた。 そのあと、全共闘世代というかそのあたりの左翼さんたちがまだまだ頑張るというか、企業から離れて老後にがんばるのかもしれない。 私の世代(今50歳くらい)になるとある水準の知識人は基的に左翼だ。私の世代から10歳下になるとそういう昭和の名残の左翼は減ってきて、いわば奇妙なバックラッシュになる。バックラッシュというのは左翼というよりある種の憎悪のような異質な何かだ。 昭和の左翼とは、実は、非モテであった。 というか、モテのためにあった。階級や産業から解放されてちょっと気取ってダンパ(死語)みたいな。そしてそれが全共闘世代にコピーされてフリーセックスみたいになった。多数はモテたいから左翼になったし、左翼になることは生きることの齟齬みたいのを覆ってくれた。 私の世代くらいは知識人であることを意味したがモテではなくなりつつあった。貧乏はモテないという時代

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    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2007/05/30
    "庶民がいわゆる恋愛結婚ができるようになったのは、実際にはポスト団塊世代からだ。それ以前は各種のスペクトラムの見合いがあった"
  • 安藤百福、逝く: 極東ブログ

    安藤百福が五日亡くなった。九六歳。天命とも言うべきかもしれないが、死に際して心筋梗塞で苦しくなかっただろうか。チキンラーメンの開発者であり、カップヌードル開発の事実上の総指揮者でもある。近年の連ドラ「てるてる家族」やプロジェクトX「魔法のラーメン 82億の奇跡」などで生前から伝説化が進んでいた。確かに日的な苦労とジャパニーズ・ドリームを実現したような人生である。が、日経新聞に掲載されていた「私の履歴書」の書籍化「魔法のラーメン発明物語」(参照)を読み返すと、そうしたわかりやすいグレートマン伝説とは少し違う、昭和史を体現した興味深い人物が浮かび上がってくる。 安藤が伝説のチキンラーメンの開発に取り組んだのは私が生まれた年、昭和三二年のようだ。その時、彼は四七歳。翌年開発に成功する。ざっくり見て、安藤百福の今日の栄光のスタートは五〇歳であった。顧みて四九歳の自分には人生をやり直してチャレン

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