会田誠さん(現代美術家) 65年生まれ。「会田誠展 天才でごめんなさい」が東京・六本木の森美術館で開催中。3月31日まで。=松本敏之撮影 ■芸術の核心を教えられた 『劇画における若者論』 [著]三島由紀夫 (『決定版 三島由紀夫全集36』に収録・新潮社・6090円) 高校1年の時、たまたま手に取ったエッセー集に、この一編が入っていました。三島由紀夫のことは「割腹した変な人」くらいにしか思っていませんでしたね。 でも、読んだらショックを受けました。あの手塚治虫の『火の鳥』を「日教組の御用漫画家になり果て」とこき下ろし、かわりに赤塚不二夫の『もーれつア太郎』を「このナンセンスは徹底的」と激賞しています。さらに「劇画ファンの若者の教養の不足を嘆く人たちは、自分たちが教養と信じてゐたものの、上げ底に巣喰(すく)つた蛆虫(うじむし)でもつくづく眺めてみるがいい」。しびれました。 手塚への批判は言い過
■破滅の気配がまとわりつく女と暮らす 〈夜の空襲はすばらしい〉 坂口安吾の同名小説を原作とする近藤ようこの『戦争と一人の女』は、こんなモノローグではじまる。太平洋戦争末期、米軍機の空襲に脅えるようになった東京で、防空壕から夜空を見上げる女。〈私は夜の空襲が始まってから 戦争を憎まなくなっていた〉 親に売られて女郎となった女は、客の男に落籍(ひか)されて酒場のマダムをやっているとき、野村という男と知りあった。女は不感症ながら淫蕩で、野村も含めほとんどの常連客と関係をもった。ある晩、女は一緒に暮らさないかと野村を誘い、〈どうせ戦争で滅茶々々になるだろうから今から滅茶々々になって 戦争の滅茶々々に連絡しようか〉と野村もこれを受けいれる。こうして戦時下にはじまった2人の生活が、敗戦直後まで描かれる。 安吾の原作は野村の視点で書かれた女の話であり、その続編は、同じ事象を女自身の眼からとらえたものだっ
がんで闘病生活を続けながら最後までヒロシマと向き合い、原爆の恐ろしさを訴え続けた中沢啓治さん。「『ゲン』はわたしの遺書」という言葉を残し、73年の人生を閉じた。 「原爆はお袋の骨まで持っていくのか」。母の火葬後、ほとんど残らなかった遺骨を目の当たりにして増幅した怒りが、原爆をテーマにした作品を描く原点になった。 1973年にスタートした「はだしのゲン」の連載。40年近くを経て、今年度から広島市の平和教育の教材に使われ始めた。今夏、朝日新聞のインタビューに応じ、中沢さんは「連載を始めた当時、漫画はばかにされ、社会的地位を得ていなかった。思いもよらず感慨深い」と語った。 自伝となる「はだしのゲン わたしの遺書」(朝日学生新聞社)を今月、出版したばかり。「わたしが伝えたいことは、すべてあの中にこめました」と結んだ。3・11後の原発事故にも触れ、「唯一の被爆国なのに、放射能のことが正しく理解されて
木次線の歴史や景観、奥深いよ おろち号存続願い地元が発信 (1/5) 島根県東部と庄原市を結ぶJR木次線のトロッコ列車「奥出雲おろち号」をもり立てようと、沿線の住民や学...
漫画「はだしのゲン」の作者で、先月亡くなった中沢啓治さんが描いた原画の複製を紹介する展示会が広島市の原爆資料館で始まり、中沢さんが生前に構想していた「はだしのゲン」の第2部の複製も初めて公開されています。 広島市出身の漫画家、中沢啓治さんは、6歳のときに被爆し家族を亡くした体験を基に漫画「はだしのゲン」を描いて、被爆の実態を伝える活動を続けてきましたが、先月19日に73歳で亡くなりました。 広島市中区の原爆資料館では、10日から中沢啓治さんが描いた漫画の原画の複製を紹介する展示会が始まりました。 会場には、代表作「はだしのゲン」や、原爆をテーマにした初めての作品「黒い雨にうたれて」など、中沢さんから寄贈された1万点余りの原画などのうち28点の複製が展示されています。 この中には、中沢さんが生前に構想していたものの完成しなかった「はだしのゲン」の第2部の原画の複製も公開されています。 第2部
未完成となった「はだしのゲン」第2部の原画。せりふだけが描かれていた。追悼展ではコピーが展示された=広島市中区、小玉重隆撮影 【清宮涼】平和記念資料館(広島市中区)で10日始まった、中沢啓治さんを悼む原画展では、絵の描かれていないせりふのみの「はだしのゲン」第2部の原画コピーも展示されている。 中沢さんが同館に寄贈した第2部の16枚のうち、絵も描かれたのは冒頭の1枚のみ。1枚は白紙で、残り14枚はせりふだけだ。今回展示されるのは冒頭から4枚。西本政文副館長(59)は「中沢先生は手が震えるなどし、漫画が描けなくなった。悔しかったと思う」と話す。 同館によると、中沢さんには10年以上前から第2部の構想があった。以前は「漫画家になったゲンが、修業が足りないのを自覚してパリに行くところで終わる」と話していたが、ここ1、2年は「ゲンが世界行脚する」と考えていた。 周囲は中沢さんに「話の筋だけでも残し
未完成となった「はだしのゲン」第2部の原画。追悼展ではコピーが展示された=広島市中区、小玉重隆撮影 【清宮涼】昨年12月に亡くなった漫画家、中沢啓治さんをしのぶ原画展が10日、広島市中区の広島平和記念資料館で始まり、未完成となった「はだしのゲン」第2部の原画のコピーが初めて一般公開された。 同館によると、中沢さんは第2部で「立派な漫画家になるゲンを描きたい」と話していた。原画は同館に16枚寄贈されたが、いつ描かれたかはわからないという。 第2部は漫画家を目指して、ゲンが列車で東京駅に到着するところから始まる。東京大空襲の孤児とゲンが友達になる構想もあったというが、絵まで描かれたのは1枚のみ。他はせりふだけが描かれ、ゲンが散髪屋で被爆者差別を受けるシーンもある。 中沢さんは、2009年には白内障などのため漫画の執筆をやめていた。同館啓発課の菊楽忍さん(54)によると、「一人ひとりの心
「漫画サンデー」(1月22日号) 1959年創刊の老舗マンガ雑誌「漫画サンデー」(実業之日本社)が、2月19日発売の3月5日号(2795号)で休刊することが8日、わかった。最盛期の90年代半ばには販売部数が30万部を超えていたが、最近は7万部まで落ち込んでいたという。 「週刊少年マガジン」「週刊少年サンデー」と同じ年に創刊した同誌は、杉浦幸雄さん、サトウサンペイさん、小島功さん、手塚治虫さん、水木しげるさんらが作品を発表。昨年12月に完結した新田たつおさんの「静かなるドン」は、88年から24年間の長期連載で人気を集めた。 関連リンク「静かなるドン」連載24年で完結へ 漫画サンデー(12/11/6)手塚治虫の未発表原稿見つかる 闇市題材、戦後の作品か(12/11/3)
広島の原爆投下直後の悲惨な状況をみずからの体験に基づいて描いた漫画「はだしのゲン」の作者の中沢啓治さんが、今月19日、肺がんのため広島市内の病院で亡くなりました。 73歳でした。 中沢啓治さんは広島市の出身で、6歳のときに被爆し、父や弟など家族3人を亡くしました。 その体験を基に、昭和48年から、原爆で家族を失った少年が力強く生き抜く姿を描いた漫画「はだしのゲン」を執筆しました。 原爆投下直後の広島の生々しい描写は内外の読者に強い衝撃を与え、発行部数は累計で1000万部を超えました。 中沢さんはその後、「はだしのゲン」の第2部を検討していましたが、長年患った糖尿病の影響で視力が衰えたため、3年前に漫画家を引退し、漫画の原画など800点以上の資料を広島市の原爆資料館に寄贈しました。 その後も映画の脚本や絵画の製作に取り組むなど、被爆の実態を伝える活動を精力的に行っていました。 中沢さんは、被
名探偵マーニーの1巻が出ました。 やっぱ面白いわこれ。 名探偵マーニー 1巻 ところで、最近の少年・青年漫画雑誌って、女性が主人公の作品が多い様な気がするのです。 具体的には、今週発売の、週刊少年チャンピオン2013年1号では、23作品中7作品が女性主人公。 「名探偵マーニー」、「侵略!イカ娘」、「あまねあたためる」、「空が灰色だから」、「ひなこの失敗」、「パンダのこ」、「スポ×ちゃん!」がそうですね。 「木曜日のフルット」は、紺先輩とのダブル主役なので0.5かもしれないけど、そこはカウントしないでおきます。 (今回のカウントは、「ドラえもん」方式で、タイトルになってるからといって主人公とは考えない。「ドラえもん」の主人公は、のび太です。) これって、多い・・・よね? と思ったので、創刊から現在まで、各年1号では女性主人公作品がどの位あったかをグラフにしてみました。 比率にするとこうなりま
有害コミック撲滅! アメリカを変えた50年代「悪書」狩り 著者:デヴィッド・ハジュー 出版社:岩波書店 ジャンル:マンガ評論・読み物 有害コミック撲滅!―アメリカを変えた50年代「悪書」狩り [著]デヴィッド・ハジュー 1950年代にアメリカン・コミックは撲滅運動に襲われた。この問題を、同時期に発生した「赤狩り」旋風と比較しながら論じたのが、本書のおもしろさである。 この時期アメリカは青少年に害をなす「悪い文化」を排除しようとした。ターゲットになったのが共産主義と漫画だった。両者に何か共通点があったのか。著者によると、赤狩りは共産主義かぶれのインテリ層を狙い撃ちにし、他方コミック撲滅は愚かな俗悪文化の浸透から保守エリート層の価値観を護(まも)る狙いがあった。だが、こうした「ベクトルの違い」を超えて双方共に、あらゆる弾圧に屈せず好きなものを護って戦い続けると決意した熱烈なサポーターを多数有し
■時の回廊 団塊世代の青春時代、雑誌「ガロ」があった。あの時代、「ガロ」は日本の漫画表現の先頭を走っていた。そこから単行本『青の時代』(1980年)が生まれ、安西水丸というイラストレーターも生まれた。日々起こる様々な事件を、自身が育った港町の風景と共に描き出した作品は、いまの安西を形作る原型となった。 ◇ 僕が平凡社に勤務していたころ、嵐山光三郎さんの小説「怪人二十面相の墓」を漫画化しました。嵐山さんが僕に「絵、描ける?」と聞いてきて「絵なら描けますが」と応じたら、「文章を書いているので一緒にやらないか」となった。その後3年間、「ガロ」に読み切りで連載をしました。この時は自分でストーリーも考えた。それが初の単行本『青の時代』になりました。 米ニューヨークで働いていたころの話を描かないかと言われたけれど、外国に行ったことのない人にとって、それはあまり興味のないこと。だったら、海があって、母が
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