エドワード・レルフ氏 1944年生まれ。 ロンドン大学卒業。 トロント大学教授。 自分自身がその場で何を見、 考えるかを重視しながら、 コンテクストに裏付けされた科学的思考を続ける現象学的地理学、 人間主義的地理学の旗手である。 著書に『場所の現象学』(筑摩書房)がある。 はじめに 場所の概念について 都市のアイデンティティについて 場所と都市のアイデンティティをむしばむ要素----モダニズムとポストモダニズム 場所と都市のアイデンティティの計画とデザイン スライド フォーラムでの講演を京都工芸繊維大学大学院の戸國義直さんがテープ起ししたものをもとにフォーラム委員会が編集したものです。 写真はレルフ氏に改めて提供頂きました。 翻訳、 タイトル等の文責はフォーラム委員会にあります。 目次へ 次へ
あのころ、誰かと会おうと思ったら、その人が自宅にいる時を見計らって電話して待ち合わせるか、その人が来そうなところで待っているしかなかった。 だから、みんなの溜まり場に行けば、特定の誰かとはともかく他の誰かには会えたし、会いたい誰かが来るまではたまたまそこにいたその人と話すなり、それぞれ黙って他の事するなりして、その時間をなんとなく共有していれば良かった。 そうしてその場に溜まっている人たちと共有するものが、結局その中の特定の誰かとも共有しているものになり、それがだんだん増えていくことで特定の誰かとも他の人とも話が通じやすくなって、お互いがどんな人かも分かっていって、どんどんなじんだ場所になっていく。 そういう形の居心地の良さがとても性に合っていた私はやがて「いつ行っても居る人」になって、本来ならとうにそこを去らなければいけない時期が来てもそこに居続けて、新たに入って来る人とも可能な限り時間
友人に招待されて、ORKUTとmixiとgreeという3つのコミュニティサイトを使ってみる。これらは、正式には「ソーシャルネットワーク」というらしい。当初「出会い系」とも紹介されたりしたが、そういう雰囲気は(いまのところ)あまりない。とくにグーグルが運営する英語ベースのORKUTには、西洋の社交文化の雰囲気すら感じる。 具体的には、自分のプロフィールに顔写真(じゃなくてもいいんだけど)を提示しつつ、「私の友達はこの人たちです」とどんどん友達を増やしていく。メッセージを送ったり、独自のコミュニティスペースを作ったりすることが主な機能だが(mixiとgreeにはコミュニティサービスはない)、チャット機能はない。前述したように、ORKUTは英語で、mixiとgreeは日本語ベース。 これらは、知り合いからのインヴィテーションメールがないと会員になることはできなく、毎回パスワードを入力して入る。ゆ
(前回につづき、中沢さんの文章を掲載いたします) どうやら私たち現生人類の心は、 まったく仕組みのちがう、 ふたつの思考のシステムの共存として 働き続けているようなのです。 ひとつは外の環境世界の構造に 適応できるような論理 (それがアリストテレス論理というものの 本質にほかなりません) の仕組みをもって作動する言語のモジュールで、 それにしたがって生きるときには、 私たちは合理的な行動ができるようになります。 ところが現生人類の心には それとはまったくちがう、 対称性の仕組みで動く層あるいは領域があります。 ここでは、言語の論理が 分離しておこうとするものをくっつけてしまい、 ちがう意味の領域を隔てている壁を突破して、 時間の秩序からさえも自由になって、 多次元的にさかんに流動していく 知性の流れがみられます。 つまり、人類の心は、 合理的な言語のモジュールにしたがって 組織されて非対称
This webpage was generated by the domain owner using Sedo Domain Parking. Disclaimer: Sedo maintains no relationship with third party advertisers. Reference to any specific service or trade mark is not controlled by Sedo nor does it constitute or imply its association, endorsement or recommendation.
【総評】 私の隠れた出題意図は「自由の考察」だ。近代化の過程では、社会的フォーマットの構成のため、中心化・主体化・標準化が要求されるが、近代が達成されれば、脱中心化・脱主体化・脱標準化へと向かう。それを踏まえて新しい自由を提案してほしかった。 近代の社会的フォーマットは公public/私privateを軸とする。公私の中身は政治次元のofficial/unofficial、経済次元のsocial/individual、社会次元のopen/ closedで構成される。家はunofficialでindividualでclosedだからsafeなfamilyのhomeだとされる。 むろん今や嘘である。家は「社会からは視えないが家族同士は視える場所」でない。サイバー空間に繋がった家族は「社会から視えて家族からは視えない」。またカブリオレという動く個室は「社会に晒されることで自分を取り戻して安らぐ」
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く