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・ここでは、伊福部先生が、藝術新潮1952年7月号に掲載の「現代人のための音楽」シリーズ第7回として寄せた文書を新潮社様の諒解を得た上で全文掲載致します。 ・同シリーズはその後、1953年に新潮社一時間文庫の一冊として単行本(11月20日発行)となり、本文も所収されております。 ・「現代人のための音楽」は、バッハの音楽(青山二郎)、モオリス・ラヴェル(深井史郎)、私のベートーヴェン(田中耕太郎)、ストラヴィンスキイ(芥川也寸志)、ドビュッスイ(河上徹太郎)、ベーラ・バルトーク(吉田秀和)、プロコフィエフ(伊福部昭)、ガーシュイン(服部良一)、セザール・フランク(平尾貴四男)、ガブリエル・フォオレ(斎藤磯雄)、ダリウス・ミロー(牧定忠)、祈りの音楽(辻荘一)、ジュアン・シベリウス(渡辺暁雄)、ショスタコヴィッチ(戸田邦雄)、シェーンベルク(柴田南雄)、と当時の錚々たる方々がそれぞれ独自の作家
♪2015.3.25 NEW RELEASE♪ リース: ヴァイオリン・ソナタ Op.8-1, Op.8-2, Op.19 収録: ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調 Op.8-1 ヴァイオリン・ソナタ ハ短調 Op.8-2 ヴァイオリン・ソナタ ヘ短調 Op.19 ●Introduction 奇しくも3月下旬という卒業の時期に、リースのこの新譜を日本国内でリリースできることを、「運命と呼ばないで」ネーム担当として、またリースのきわめて個人的な1ファンとして、ちょっとしたユニークなめぐりあわせのように感じています。まだつぼみの堅い桜の木の下で、笑顔と涙と解放感に彩られた表情で校門を後にする学生たちの姿に、師ベートーヴェンから巣立ちウィーンの城門をあとにする20歳のリースの姿を重ねるとするなら、このアルバムに収められた21~25歳の頃に書かれたヴァイオリン・ソナタは、まさに彼の「卒業」後の進路のあ
フェルディナント・リース(Ferdinand Ries, 1784年11月29日受洗[1] - 1838年1月13日[2])は、ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者。ベートーヴェンのピアノの弟子であり、晩年に師の回想録「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する覚書」を執筆したことで知られる。 ピアニストとしてキャリアをスタートし、終生にわたり作曲家として活動。交響曲、ピアノ協奏曲、ピアノ曲、室内楽曲、オペラ、オラトリオなど、未出版作品を含め約300曲の作品を残した。作品の多くは死後に忘れ去られていたが、近年、急速に録音が進み、研究活動も活発化している。ベートーヴェン作品に強く影響を受けた古典派様式から出発し、初期ロマン派からロマン派に至る作風を呈している。 リースの生家があったボン小路。ベートーヴェンも同じ小路で生まれた。 神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父フラ
「ベートーヴェン4コマ劇場 – 運命と呼ばないで」刊行に寄せて。 フェルディナント・リースという音楽家について ~ありのままであること、強くあること。~ written by ネーム担当@ナクソス・ジャパン ~フェルディナント・リース(Ferdinand Ries 1784-1838)略歴~ 1784年11月、宮廷音楽一家の長男としてドイツ・ボンに生まれる。 (ベートーヴェンより14歳下。フィールド、パガニーニ、 シュポア、ウェーバーと同世代) 幼少期よりピアノ、ヴァイオリン、チェロを習う。 1801年10月、ウィーンでベートーヴェンに師事。 その後、世界各所へピアニストとしての演奏旅行を経て 1813年よりロンドンで活躍。 1824年にボンに戻ったのち、フランクフルトに在住。 作曲家としてはピアノ曲からオペラまで、全ジャンルにわたって作品を残す。 晩年、「ベートーヴェンに関する伝記的覚書
今から36年前、新響が本日の「改訂版」を初演したプログラム冊子に、当時65歳であった作曲家自身が次のような言葉を寄せている。 作者は、アイヌ語でシャアンルルーと呼ぶ高原の一寒村に少年期を過しました。そこには、未だ多くのアイヌの人達が住んでいて、古い行事や古謡が傳〔伝〕承されていました。 タプカーラとは、彼等の言葉で『立って踊る』と云うような意をもち、興がのると、喜びは勿論、悲しい時でも、その心情の赴くまま、即興の詩を歌い延々と踊るのでした。 それは、今なお、感動を押え得ぬ思い出なのです。 その彼等への共感と、ノスタルヂアがこの作品の動機となっています。(以下略) この一文はその後に頒布されたCDの解説や書籍など各所に引用されているので、どこかで目にした方が多いかもしれないが、作者が少年期を過ごした「シャアンルルー」という地名らしきものが何を意味するか気になっていた。ネットを探せば「十勝平野
第145回演奏会(94年10月)プログラムより 伊福部 昭:シンフォニア・タプカーラ(1979年改訂版) 上原 誠(打楽器) “シンフォニア・タプカーラ”あるいは“タプカーラ交響曲”は伊福部昭の作曲活動の集大成である、と私は考えている。その理由として、まずこの曲が三浦洋史(現・評論家)に捧げられていることに注目したい。1926年、札幌二中に入学した伊福部が出会った同級生・三浦は、その頃既に抜きん出た音楽通だった。サティー、ドビュッシーといった当時の日本では名前すら知られていなかった音楽を次々に紹介し、西洋青楽に目覚めたばかりの伊福部に“超”カルチャー・ショックを与えただけではなく、「音楽をやる以上は作曲以外は無意味」と説いた。伊福部が後に語っている「私を作曲という地獄界に陥れたメフィストフェレス」、すなわち作曲家・伊福部昭にとってかけがえのない人に宛ててこの曲は捧げられている。 [伊福部に
1.総論 この曲集から楽譜を見ただけではラヴェルの音楽を理解することが不可能になる。当時の文化的なこと、特に文学や絵画や舞台芸術に関する幅広い理 解が必要となってくる。今回私はこれらをある程度理解したうえで解説を進める。なお、このような視点でこの曲集を解説している人を見たことがな い。おそらく弾いている人も、フランスで勉強した人を除いては、あまり理解しないで弾いていると思われる。 この曲集は、「アパッシュ」という芸術家集団に属していた人に献呈されている。この点はきわめて強く意識する必要がある。当時の パリにはそういった芸術家集団がたくさんあった。ドビュッシーは当然のこととして、ピカソやランボーもこういう集団の中で作品を発表し、批評し あって互いに成長していった。当時はエログロを否定せず、むしろ醜悪こそが美であるという過激な、一種の「あべこべな価値観」が主流であった。ラ ヴェルのこの曲集もそ
1. 資料と体験 1.1 音楽書から スコット・ロスの全曲録音の解説から抜粋して、スカルラッティの音楽の特徴を記す。 鍵盤空間 手の交差 手の素早い移動 リズム 弱拍のアクセント シンコペーション オスティナート アクセント アッチャカトゥーラ(装飾音+アクセント) クラスター 音楽の流れ 無窮動 意表を突く音楽の中断 管弦楽 反復音 トランペット、または狩のホルン 転調 長調と短調の交替 遠隔調への転調 突然の全音上昇/下降 名技性(ヴィルトゥオージティ) 音階 アルペジオ 重音 古代様式 協奏曲形式 ポリフォニック様式 通奏低音つき歌曲形式 8つの観点から、計20種類の特徴があるということだ。 この中から、あるいは別の観点から、いくつかの話題を記す。 1.2 体験 実際にスカルラッティのソナタを見て今更ながら感じたのは、 終止がほとんどオクターブであることだ。つまり、その曲が長調で終わ
1. 概観 ドメニコ・スカルラッティは1685年10月26日、ナポリで生まれた。 生年はバッハやヘンデルと同じである。 父は歌劇・歌曲で有名なアレッサンドロ・スカルラッティ。 没したのは1757年7月23日、マドリードでであった。 クラシックのピアノを習った人なら、スカルラッティという名前は知っているだろう。 書いた鍵盤楽器の全演奏時間はショパンのそれを優に超える。 数が質を決めるといういい例ではないかと思う。 リズム、和声、旋律、どれをとっても際立っている。凡作もたくさんあるのがさすがである。 2. きっかけ 私がスカルラッティにひかれるようになったのは16歳のころである。 それまでも NHK 教育テレビのピアノのおけいこで、テキストの中にのっていたのがあった(K.1, L.159)が、 そのときは特に気をつけて見ていなかった。 アンドラーシュ・シフの来日初公演のアンコールをラジオで聞い
テクニック的に極めて高度な完成度に到達しているピアニストによる全集である。技術面ではほぼ文句のつけようがない。ほとんどのピアニストが弾ききれずに減速してしまうパッセージもインテンポで弾きのける。作曲家自身の言葉より、ラヴェルのピアノ曲は基本的にインテンポで弾くべきであり、それを体現しているといってよい。また、このピアニストは強弱表現が非常に精緻なことが特徴で、楽譜に書かれたデュナーミク指示を神経質なくらい守っている。短いスパンで急激にクレシェンド/デクレシェンドする表現や、速いフレーズに付けられたエスプレッシーヴォ指示(くさび型の記号)も明確に聞かせるため、他のピアニストでは機械的に処理されやすいパッセージが有機的なうねりとなって聞こえてくる。従来のフランス流ピアニズムにロシア系ピアニズムが加わったようなタイプのピアニストのため、デュナーミクのレンジが広く、ドラマティックな表現が随所に見ら
ジャン=フィリップ・ラモーは、J.S.バッハ(1685-1750)やヘンデル(1685-1759)と同世代の、18世紀フランスにおける最大の作曲家及び音楽理論家です。その作品も音楽理論も、後世に多大な影響を与えました。 ルイ15世(1715-74在位)時代ののロココ趣味を反映したラモーのクラヴサン曲は、ベルリオーズやドビュッシー、ラヴェルなどのロマン派~後期ロマン派のフランスの作曲家に高く評価され、18世紀後半から現在まで、研究や演奏が頻繁に行われて来ました。 けれど、ラモーが最も力を注いだオペラの多くは、リュリやシャルパンティエと同様に、20世紀も後半になってようやく再演されるようになり、やっと、録音でも気軽に聴ける状態になりつつあります。 従って、専門家以外の人間が、ラモーの音楽家としての全体像をつかめるようになったのは、ごく最近の事だと言えるでしょう。実際、ラモーがなぜ偉大なのかを具
2024.10 « 123456789101112131415161718192021222324252627282930 » 2024.12 ジャン・フランセをご存知だろうか? 1912年生まれのフランスの作曲家で、管楽器を中心とした室内楽作品集などで稀にその名前を見掛けることがある。瀟洒で品の好い、耳に心地好くさわるその音楽は、残された若き日の肖像写真の(ジブリ映画の〖風立ちぬ〗の主人公のモデルのひとりとなったと思しき堀辰雄のごとき丸メガネの)、俯きがちな瘦躯と相俟って馨しき文学的な芳香を放っている。 たとえばルトスワフスキのごとき音楽を凝り固まるようにして聴き続けた耳で聴くと、何んと言ったらいいのだろう、“創造的な10年”を、大戦前夜から50年代にかけてにむかえたのかも知れない同時代的な音楽であるにしては、吃驚するほど、まるで別な時代背景を背負っているように印象の異なる音楽だが、これ
おしらせ(2023年6月) 申し訳ないことに、以下の内容は10年以上前の古いものです。新刊『アルフレッド・リードの世界 改訂版』(スタイルノート刊)で完結編に相当する内容を公開してありますので、ぜひそちらをご参照ください。 今後このページをアップデートするか全削除するかを検討します。 アルフレッド・リード作曲の《アルメニアン・ダンス》。「パート1」は1973年にサムフォックス社から、「パート2」が1978年にバーンハウス社から発売されました。 私が『アルフレッド・リードの世界』を執筆していた1980年代、リードは《アルメニアン・ダンス》に用いた民謡について「民謡集を返したので何も残っていない」と語っていましたし、私も日米の国会図書館等を検索しても手掛かりがなく、この件はすっかり諦めていました。 長い時を経た2002年2月、山形県内の高校教諭、大隅晃弘先生からこの曲の原曲についてお問い合わせ
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