「誘惑に勝つ=自由は不自由を呼ぶ」 今日の教会クラスのテーマでした。
高校生が医者になることを自由意思で決める。それは彼が、テレビを見、野球をして遊ぶ自由を放棄する不自由を選んだことにもなると、いうのです。
人が自由意思で一つの目標を持つと、そのために不自由が生まれる・・・次には、必ずその不自由を取り去り望むままに振る舞ってこそ、人間的ではないのかとの誘惑が、出てくるというのです。
人間元祖(?)のイブに、蛇は誘惑します。
「リンゴを食べても決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となる」と。 イブは神の「この木の果実だけは食べてはいけない」との言葉に反して、誘惑に負けて、実を食べます。そして神から離れて、エデンの東に送られてしまいます。
神の子イエスにも、サタンは誘惑します。
「もし私にひれ伏して私を拝むなら、繁栄する世のすべての国々をみんな与える」と。 イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と答え、誘惑を退けます。 だからこそ神の道を突き進むという、自分の選択した道を全うすることが出来ました。
主任司祭は、自分の誘惑の体験を話しました。 「私は司祭になって数年後に、一人の人を好きになりました。迷いました。自分が自由意思で決めた道、目標である司祭の道は結婚が出来ません。 女性との結婚の道は諦めました。 今思うと、これが誘惑だったのでしょうと考えますし、自分の選択で良かったと思います」と。
結婚した夫さんは、世の中には素敵な女性が沢山いますが、その人達と恋はもう出来ません。 恋出来ない不自由と誘惑を乗り越えてこそ、結婚生活が本物になり、死ぬときに「お前と結婚してよかった。有難う」と言えるんですよねとも司祭は話します。 今日皆さんは、お友達とコーヒーを飲んで、おしゃべりで来る時間を棄て、ここに勉強にいらっしゃいました。 これもコーヒーへの誘惑を乗り越えたのです. でも将来に、コ-ヒーを諦めて勉強に来て良かったと必ず思いますよ。 と。
続けて、司祭は質問して来ます。 「皆さんも、自分の人生を賭けている目標がありますか? そしてその目標に向かって、イブの生き方をしますか? それともイエスの生き方をしますか?」と。
総司会者の私としては、最後に 「達成すれば終わってしまう、又は達成できないで挫折感を味わう目標だけでなく、決して達成をし終えることがないけれども、挫折も、裏切りもない、「神」をも目標の一つにするという話にもっていくわけです。 教会の話も時代と共に変わってきましたよ。
リンゴは、美味しそうに見えますよね。 目標が、高く高貴であればあるほど、サタンの呼びかけ誘惑は大きく、乗り越えるには、神の助け無しには無理なのでしょうと思いました。
目標が高く、大きな誘惑を乗り越えられたら、人生の満足感は凄いものなのでしょうね!!
さて、私は、目標をどこに置いていたのでしたっけ?! うん?!
高校生が医者になることを自由意思で決める。それは彼が、テレビを見、野球をして遊ぶ自由を放棄する不自由を選んだことにもなると、いうのです。
人が自由意思で一つの目標を持つと、そのために不自由が生まれる・・・次には、必ずその不自由を取り去り望むままに振る舞ってこそ、人間的ではないのかとの誘惑が、出てくるというのです。
人間元祖(?)のイブに、蛇は誘惑します。
「リンゴを食べても決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となる」と。 イブは神の「この木の果実だけは食べてはいけない」との言葉に反して、誘惑に負けて、実を食べます。そして神から離れて、エデンの東に送られてしまいます。
神の子イエスにも、サタンは誘惑します。
「もし私にひれ伏して私を拝むなら、繁栄する世のすべての国々をみんな与える」と。 イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と答え、誘惑を退けます。 だからこそ神の道を突き進むという、自分の選択した道を全うすることが出来ました。
主任司祭は、自分の誘惑の体験を話しました。 「私は司祭になって数年後に、一人の人を好きになりました。迷いました。自分が自由意思で決めた道、目標である司祭の道は結婚が出来ません。 女性との結婚の道は諦めました。 今思うと、これが誘惑だったのでしょうと考えますし、自分の選択で良かったと思います」と。
結婚した夫さんは、世の中には素敵な女性が沢山いますが、その人達と恋はもう出来ません。 恋出来ない不自由と誘惑を乗り越えてこそ、結婚生活が本物になり、死ぬときに「お前と結婚してよかった。有難う」と言えるんですよねとも司祭は話します。 今日皆さんは、お友達とコーヒーを飲んで、おしゃべりで来る時間を棄て、ここに勉強にいらっしゃいました。 これもコーヒーへの誘惑を乗り越えたのです. でも将来に、コ-ヒーを諦めて勉強に来て良かったと必ず思いますよ。 と。
続けて、司祭は質問して来ます。 「皆さんも、自分の人生を賭けている目標がありますか? そしてその目標に向かって、イブの生き方をしますか? それともイエスの生き方をしますか?」と。
総司会者の私としては、最後に 「達成すれば終わってしまう、又は達成できないで挫折感を味わう目標だけでなく、決して達成をし終えることがないけれども、挫折も、裏切りもない、「神」をも目標の一つにするという話にもっていくわけです。 教会の話も時代と共に変わってきましたよ。
リンゴは、美味しそうに見えますよね。 目標が、高く高貴であればあるほど、サタンの呼びかけ誘惑は大きく、乗り越えるには、神の助け無しには無理なのでしょうと思いました。
目標が高く、大きな誘惑を乗り越えられたら、人生の満足感は凄いものなのでしょうね!!
さて、私は、目標をどこに置いていたのでしたっけ?! うん?!