非国民通信

ノーモア・コイズミ

社員のせいにするな

2010-10-11 23:00:19 | ニュース

「仕事がイメージと違う」と心療内科を受ける若者たち(J-CAST)

  心療内科の現場では、いま「職場不適応」や「出社拒否」と呼ばれる状態に陥る若者の受診が増えているのだそうだ。終身雇用や年功序列の崩壊、成果主義に追われ即戦力を要求する企業の事情など、若者を取り巻く環境は苛烈だが、精神科医の片山珠美氏は、「若者の側に全く非がないとも言い切れない」と指摘する。

「無限の可能性」教え込む弊害
――心療内科を受診した際に彼らが訴える理由の中で最も多いのが、「自分の希望と実際の業務内容がかみ合わない」(というものである。)
   おそらく、就職前は「こんな仕事がしたい」「あんなふうに働きたい」と夢をふくらませていたのだろうが、現在の雇用情勢では、希望通りの職場に就職できるのはごくわずかだし、たとえ運よく目当ての会社に入れたとしても、最初にやらされるのは雑用のような仕事である。
   それゆえ、イメージとは違う現実を見て途方にくれる。「自分はこんなことをするために会社に入ったんじゃない」と。イメージと現実は一致しないのがむしろ普通だが、それは受け入れられない。このギャップを埋めていくためには二つの選択肢しかない。
   思い描いていたイメージに少しでも近づけるように努力して現実の自分を高めていくか、それともそのイメージの方を少しずつ「断念」して現実を受け入れていくか、二つに一つだ。もしくは、その両方をすることで、ある程度のところで妥協をすることが必要になる場合もある。
   大多数の「普通の」人々は、後者の選択肢、つまり少しずつ「断念」しながら「現実適応」していかざるをえないことが多いのだが、それがどうしてもできない人が増えている。
   これも、自己愛イメージと現実の自分とのギャップを受け入れられない「成熟拒否」の一面だと思う。「あなたには無限の可能性がある」という幻想を教え込み、挫折や失敗などの「対象喪失」に直面させないことを重視してきた「けがをさせない」教育が、厳しい現実社会に耐えられない人間を数多く生み出すことになったのだと考えられる――
(片山珠美著『一億総ガキ社会 「成熟拒否」という病』光文社新書、67~68頁より)

(会社ウォッチ編集部のひとこと)
著者は、現代の日本社会には、年長者も含めた「打たれ弱さ」「他責的傾向」「依存症」という3つの問題があるという。その根源にあるのは、「なりたい自分」の自己愛的イメージと現実の自分とのギャップを受け入れられずに抱く、「自分は何でもできる」という幻想的な万能感。「断念」をして「それほどでもない」等身大の自分を受け止めることで、誇大妄想的でない地に足の着いた目標を立て、着実な努力ができるようになる。仕事への向かい方に思い悩む若手社員の参考になるだろうか。

 まぁ今さらながらの俗流若者論といった趣の記事ではありますが、引き合いに出された著書のタイトルに「一億」とあるからにはもうちょっと幅広い年代を念頭に置いているつもりなのでしょうかね。ともあれ、今回の引用元によると心療内科を受診する若者が増えていて、かつ「若者の側に全く非がないとも言い切れない」のだそうです。そして受信者増加の理由として「自分の希望と実際の業務内容がかみ合わない」というものが挙げられています。しかし当ブログで前々から指摘してきたことではありますが、職務上の希望や、どういう仕事をやりたいのかを明確にしろと要求してきたのは採用側ではなかったでしょうか。「こんな仕事がしたい」「あんなふうに働きたい」という明確なビジョンを持った学生ばかりを選別しておきながら、実際には地味な仕事ばかりやらせているのでは、不満を抱く人が増えるのは当然です。

 「『あなたには無限の可能性がある』という幻想」を教えてきたのが問題なのだと、引用元では語られています。そしてこれは「『けがをさせない』教育」の産物だとか。本当でしょうか? むしろそれは、例によって採用側の要求であるように思われます。「無限の可能性」を持った人間になりきり、それを演じきることが就職活動においては求められていないでしょうか? 編集部のコメントとして「『それほどでもない』等身大の自分を受け止めること」が必要だと説かれていますけれど、「(自分は)それほどでもない」と等身大のアピールしかしない人間が昨今の就職環境下で採用されるとはとうてい考えられないはずです。J-CASTにしたところで自社が求人を出す際にどういう人を求めてきたのか、そのくらいは振り返ってから記事を書くべきでしょう。

 そうでなくとも、「『自分は何でもできる』という幻想的な万能感」とやらに企業側が助けられてきたこともあったはずです。ここで引用したJ-CASTは週刊ダイヤモンドの受け売りみたいな記事をよく載せていて、若年層が厳しい環境に置かれているのは無能な中高年が居座っているからだ、みたいな論調も強いわけです。でもそうした論調が受け入れられるのは、若年層に「自分は何でもできる」という幻想的な万能感があってこそではないでしょうか? 自分は有能だと信じているからこそ、先行世代を追い出せば自分たちにチャンスが巡ってくると思えるものです。しかるに若年層が自分を「それほどでもない」と感じているのなら、当然のことながら中高年を追い出したところで自分たちに椅子が回ってくるなどと、そんな幻想を抱くこともなくなってしまいますよね? まぁ別に掲載誌内部で立場を統一する必要はないのですけれど、その時々の主張に合わせて都合良く要求するものを違えるのは、とうてい誠実な態度とは言えません。

 たとえばサッカーでも野球でも、同じポジションに2人もしくは3人以上の一流選手を獲得したらどうなるでしょうか。特に交代の機会が少ないGKに、若くて野心と才能に満ちあふれた選手を複数獲得すれば、試合に出られない方の選手から不満が出るのは火を見るより明らかです。昨今の職場環境もそれに近いのかも知れません。やりたいことが明確、仕事に対して強い希望を持っており、有能な人間になりきっている――そういう人ばかりが超買い手市場の中で選別されているわけですけれど、いざ会社に入れば下積み的な仕事ばかりで出世の機会にも乏しい、これでは不満を溜める人も増えるのが当たり前です。だからこそ、もう少し仕事に対して割り切った人や、自分は「それほどでもない」からと地味なポジションに甘んじてくれる人を、会 社 側 が 受け入れる必要があるように思われます。



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コメント (8)
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