たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

刑の意味がわからないと死刑の是非もわからない

2010-07-31 22:35:05 | 時事
今週,死刑反対論者の千葉法相が始めて死刑執行を決裁し,実際の死刑に立ち会ったというニュースを聞きました。わたしは死刑執行の決裁は大臣の業務だと思うので,執行すべきだと思いますし,死刑反対なら,国会でそれを議論して刑法を変えればいいと思うので,そういう意味では今回の執行は当然のことをしたのだとは思います。ただ,いままで執行に立ち会った大臣はいないということからも,それなりに千葉法相には思うところがあったのかもしれませんが,よくわかりません。

死刑の是非については難しいのですが,現状日本には死刑の反対派は国民の大半にはなってなかったと思います。議論して国会で決めればいいとは思いますが,じゃぁ自分の意見は?というと,死刑の是非以前に日本の刑法が刑に対してどういう意味を持たせているかが良くわからないので判断が出来なくて困ってます。もしかしたら刑法のどこかにそういうことは書かれてるのかもしれませんが,あまり刑の意味というのは説明されて無いように思います。

刑の意味で考えら得るのは「罰」「犯罪抑止」「犯罪者隔離」「再発防止」「被害者(の遺族)救済」「犯罪者更正」などでしょう。これのどれかによって実際の刑が持つ意味と適切な量刑は変わるように思います。もちろん凶悪犯罪と軽犯罪では違っていてもいいとは思います。もしかしたら軽犯罪は犯罪者の更正や再発防止などの目的を持っているのかもしれません。そうであれば,犯罪者を反省させたり,職業訓練などを受けて,社会復帰をさせるのは正しいように思います。でも凶悪犯罪者の中には,とても更正を望めないような人もいます。偶然弾氏が無期懲役囚の心情を書いた本を紹介してますが,反省しない受刑者もそれなりにいるということです。

更正しない凶悪犯罪者に対しては,一市民としてのわたしの心情としては社会から隔離して欲しいというのがあります。怖いからです。死刑は犯罪者の隔離や再発防止という意味では,もっとも強力な手段ですが,終身刑でも同じことは可能です。ただし終身刑の場合はその費用を国民の税金で支払うことになります。それを国民が納得するか?ということでしょう。ただし実際は刑法は,どんなひどい犯罪でも犯罪者にそれをしようという気持ちが無かったり,精神的に異常な状態でおきていれば罪に問われないこともあります。もちろん,そういう人は病院なので隔離はされますが,期間的にも十分ではないというような話も聞きます。ということは,犯罪者の隔離や再発防止という意味では,刑法は考えられてないということなのでしょうか。

案外日本の刑法の考えは「罰」は「償い」として刑を考えているのかもしれません。罰も償いというのは漠然としていて,何を指してるのか判らないのですが,その漠然とした感じで「罪を犯した人は,それなりの辛い思いをしなければならない」という意味になります。ただし実際は最近刑務所で看守が暴行とかをすると問題になるように,犯罪者に辛い思いをさせるのも減ってるように思います。そうなるとますます刑務所の意義というのが判らなくなります。

というわけで,国会で話し合えばいいとは書きましたが,前提の思想が決まらないと刑の設計は出来ないし,そもそも最近の裁判員制度も,裁判員はどういう観点で量刑を決めればいいかわからないのでは無いでしょうか?判らないまま個人の感覚で決めるのが裁判員制度といわれればそれまでですが…。

わたしは以前も書きましたが,死刑の是非には明確な意見はまだ持ちえてません。賛成も反対も上に書いた疑問が解けて無いので判断がうまくできません。ただし冤罪があった場合に死刑は取り返しがつかないと思うので,実際は慎重に判決を出すべき量刑の様に思います。そういえば,いまひとつ「疑わしきは罰せず」も実行されて無いような気もするのですが気のせいでしょうか?。

わたしは国民に刑法の量刑の議論を起こさせるなら上に書いたような話をまずしないといけないと思ってます。千葉法相は死刑について思うところがあるんでしょうが,国民に何を訴えたいのか?今のところその意図はわたしには見えません。
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医療は人に都合良く病気を治すわけではない

2010-07-30 10:00:13 | 医療・福祉
極東ブログのインフルエンザと結核の話を読んでいて,メインの話も興味深かったのですが,最後の結核が無くなったのが,結局抗生物質の発見というよりは「栄養」が十分に取れるようになったからという話,そして実は結核は産業革命時に労働条件が悪くなって,広まった…みたいな話を読んで,なるほどねぇ…と思いました。

栄養については昔から結核を「滋養」によって治すというような話を聞いていたので,そうだろうな…とは思ってましたが,これを読むと,結核の蔓延と撲滅は医療というよりは,生活や環境の方が本質ではないのか?という気がします。

現代は病気というと,病院に行き,医者の治療を受ける。医者は切った貼ったの外科的治療か投薬による内科的治療で病気を治したり抑え込んだりしようとします。ですから,逆に患者は病気になったら病院にいって,治療で治したり抑えたりしようとします。

…ですが,実はこれは本質ではないように,わたしも薄々思ってます。病気になったら本来は安静にして,体が病気に立ち向かえる様にする。病気をならない様にするには,原因になるものを排除し,また体を鍛えたり十分に栄養を取ったりする…というのが本質ではないでしょうか?。今は病院で病気は治せると思って,熱があるのに薬で熱を下げて働くとか,働くならまだしも遊びにいくとか,そういう風に行動する人が案外多いように思います。

しかし本来はそんなに都合良く体は病気に立ち向かってはくれません。病気になれば,その時の生活が一転し,いろんな計画がおじゃんになる…っていうのは,ある意味当たり前のことなのです。

わたしは先日の日記で医療の治すことをあまりあてにしてないと書きましたが,人間の体も,また医療もそんなに人の目論みに都合良く動いてくれるとは思ってません。特に内科的治療は対処療法だったりする場合も多い様に思います。対処療法というのは,症状を和らげて結果的には体を治しているのは自分の免疫や治癒力…ということになります。ですから,病気を治しているのは,薬ではなく体なのです。

医療の発達だけを追うと,近代医療がいろんな病気を駆逐してきたように見えます。ですが,実際は医療だけで人間は病気を排除したわけではなく,生活の改善にも大きく影響されてます。医療は体が病気と戦う事を助けてるだけだという考え方も出来ます(とはいえ助けがないと体も病気に立ち向かえないので,必要な事でもあります)。

人間の体はそんなに都合良くは行きません。体の方に自分の計画をあわせて生きる方が正解な気がしてます。
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政治と個人の生活

2010-07-28 12:17:39 | 社会
ネタにマジレスになるのですが,Chikirinさんが各時代の不幸自慢を書いていて,今の時代が悪いというが昔はもっと…ということで縄文人の勝ちと書いてます。もちろん冗談だし,ここに書かれている各時代の事情も嘘だったりホントだったり,まぁそんな感じなのですが…。

そんなことを思いつつも,わたしが思うは,床屋政談や年寄の思い出話という意味では,実際にされていることはあるのかもしれないと思うけど,でも,日本人の庶民は「誰が国を治めようがたいして変わり無い」と思ってるんじゃないか?ということ。言い換えれば,お上が誰だろうがお侍が天下を取ろうが,維新だとか議員だとかが,いろいろ都合のいい事を言ってくるけど,結局年貢をもっていくだけだ。わしらはそんなことより目の前の畑を耕さないとオマンマが喰えねぇ…,とかそんな感じ。

日本人は政治に関心が低いとかちょっと前から言われてましたが,それは決して自民党の長期政権が続いたからというよりは,もともとそうなんじゃないか?という気もします。それは上に書いたように,朝廷だろうが幕府だろうが新政府だろうが,いろいろ治世のシステムは変わったのかもしれないけど,多分農民や町民レベルではたいして変わってない。もちろん国のせいで命を落としたり食うや食わずの生活をしたりとかあったんでしょうが,そもそも誰が政治をやってもいい目を観てるのは権力争いをしてる貴族とか侍とかなので,農民や町民はいい目を観ない。いい目を観ることが無ければ,不幸の程度が若干変わるだけ…って思われてしまうので,誰にも期待しなくなり,そして無関心になる。それは一方で不幸といっても,単一民族(と言われてる)国家で,政権交代が民族の入れ替えを伴わないから,国から自分達が追われる心配も無いから,というのはあるのかもしれません。もちろん国の多くが焼け野原になった太平洋戦争は,国の行いが他人事じゃないという状況を引き起こしたのだけど,戦国時代とかは全国が戦乱と言っていても,平和なときも山賊とかにおびえていた人からすると,たいして変わらなかったのかもしれません。

…と書いたのも冗談でもあるんですが,ちょっとそんなことを思うこともあります。だからメディアは政権交代で大きく騒いだこの一年だったけど,多分庶民の生活の根本は,そんなに変わらないんだろうな…とわたしも冷ややかに思っていたりします。
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心変わりの足跡

2010-07-26 22:02:31 | ココロ
fujiponさんが「永遠の0」という本の書評で,戦時中の日本の大衆の身勝手さと現代の大衆の身勝手さを比べて語っているのを読んで思ったこと。

fujiponさんはワールドカップの前後で自らが岡田監督の評を変えたことを自覚していて,そこに自らの勝手さを恥じていらっしゃるようです。fujiponさんは良心的だから,こういうことを自覚して表明してますが,こういう風に,最初自らが言っていたことが,状況が変わって180度意見を変えるか,もしくは過去に自分がそういっていたことを表明できなくなるとか,そういうこと最近多いんでは無いでしょうか。

例えば1年前に政権交代が起きましたが,あの時に民主党とか鳩山代表を応援した人たち…,みなさん今でも同じ意見なんでしょうか?。その前の小泉さんや郵政民営化に対して意見は当時と今と変わって無いのでしょうか?。他にも芸能人が不祥事を起こすと,ものすごいバッシングをするのに,5年もするとその人の作品を再び楽しんでいたりすることもあります。タミフルだってあれだけ危険な薬扱いをしていたのに,去年のインフルエンザが流行りだした際には,あっさりなし崩し的に使い出したし,更にそのインフルエンザも今はたいして怖くないと思われているようだし。

もちろん状況が変わっても自分の意見を変えない人も多いでしょうし,逆に最初からどれに対しても「どうでもいい」と思っていた人も多いでしょう。でもはたから見てると,ある時にはある意見が大勢を占めていて,他の時期には前の意見を否定するような意見が大勢を占めているように見えます。単にそれぞれ違う人が声を大にしてるだけならわかりますが,同じ人がその時の大勢をみて,意見を変えている可能性もあります。

もちろんこういうことは昔から良くあったことでしょう。別に日本に限らず,どこかの政治家に扇動されて,他の国を攻撃することを熱狂的に支持するどこかの国民とかを見てると,世界中というか人間の性分の様にも思います。そういう意味では反省は出来ても,なかなかこういうことは無くならない様にも思います。

ただ思うのは,以前はそのときの個人の意見が形跡として残らなかった。誰かに話しても狭い範囲のことだし,声で伝えても,相手もはっきり覚えていなかったりします。でも今の様にブログでもメイルでも,文章として意見を表明すると,後から意見を変えてもしっかり過去の考え方は残ります。また文章にするということは,頭で漠然と思っていたことも強い表現になるし,はたまたネットで自分の意見をもっともらしくいうために,周りを見てなんとなく思うことを,あたかも自分がそう思ったんだ…強く書いてしまうことも多いです。だから,書くほうもそう書いたことをはっきり覚えているし,後で状況が変わって,以前の意見をいい続けることに支障がある状況になると,やばいなぁ…とより強く思うんでは無いでしょうか?。

わたしはこういう状況が続き,それに合わせて人間が進化したら,もしかしたら,だんだんニヒルというか物事にみんなが一歩引いた意見の書き方をする様になるかもしれないなと思います。断言しなくなり,他人事の様に書いたり…。学者が物事を断言しないといいますが,彼らも自分達の見解が絶対で無いことを意識してるから,そういう言い方をするのです。それが「知的」といえばそうなのかもしれませんが。一方で,断言しない意見は一般に受けが悪いです。

というわけで,発散したのでまとめると,意見がコロコロ変わるのは,人間の性かなぁ,それを避けて思慮深くなると,物事を断言できなくなる,でも受けるために断言する人もいるので,結局どういう風になって行くのかはよくわからない…という話でした。人は賢くなれるんでしょうか?
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代替医療への冷めた想い

2010-07-24 11:17:10 | 医療・福祉
最近極東ブログさんがなぜか代替医療(?)の創始者(?)の伝記みたいを書いてます。なぜだろう?とも思いますが,今行われている代替医療がどういう経緯で起ったか?ってことを記しておこうと思ってるのかも知れません。

先日も書きましたが,わたし自身は医療は日本の厚生省が認可してる医療をまずは第一に受けるべき…と思ってます。それでもダメな場合とかそれとあわせて,違う医療行為を受けるか?というと,実はいろいろ複雑な気持ちがあり,簡単には説明できないのですが,完全に否定してるわけでもありません。

先日手かざしで亡くなった子供の話を書きましたが,手かざしとかホメオパシーをやっていて,普通の医者に子供を通わずにいる親というのは少なからずいるようで,そういうのを医療ネグレクトと呼ぶそうです。しりませんでした。

少し話を変えます。わたしはいちおう自然科学を修めた人間ですが,宗教の話が好きで,一時期は結構いろんな宗教の事を表面的ではありますが調べてました。あわせて少数民族の信仰や習慣も調べたりして,その中には信仰の行為と医療等の行為が混然となってるものもありました。信仰にも言葉だけではなく,薬草とか瞑想とかを用いるものもあり,興味を持って瞑想など試したこともあります。そういうこともあり,手かざしやホメオパシー的なものはあまり勉強してませんが,頭ごなしに否定してはいません。

そもそも若い頃から,科学も宗教の一種であるとか,宗教と呼ばれるものもかっては科学だった…という風に考えてます。また人間は精神状態が身体へ与える影響が物凄く大きいので,精神をコントロールするためにまじないを用いることは,必ずしも効用がない…とも思ってません。わたしは体系的な理論の美しさよりも,実際に役に立つなら科学者でも宗教を信じてもいいし,また科学は完成されたものではないので,発展の可能性として神秘的なものからは目をそむけない…と思ってます。

ですから,ずっと健康に歳をとっていれば,そのうちわたしも代替医療とか試していたかも知れません。

ただこういう考え方は,結構自分の命が保証されているというのんきな状態では楽しく語ることができるのですが,4年前に自分がガンにかかったとわかったときは,わたしは逆にこういう医療について,とんど魅力を感じなくなりました。

理由を一言でいうと,いちおう科学を勉強し,擬似科学も楽しんでいた自分の知識を総動員して考えて,一番命が助かる事と気分が平穏になること…とした結果,それらの代替医療はわたしにとって優先順位が低くなってしまったのです。細い理由は書きませんが,確率的に考えて標準医療の方が助かる確率が高いし,費用負担的な面でも有利だと考えたということです。もちろん現代の医療も完全ではないし,日本の医療行政にもシステム的にも思想的にも賛同できない部分がある…というのもわかりました。エビデンスに基づく医療が今は良いとされますが,難病と呼ばれる病気には,確率的にはレアであるケースになってしまう事もそれなりにあります。また長期的な医療の効果は,現在の医療の認可システムでは,測りえない…とも思いました。ですから,代替医療や民間療法の中にも効果が全くない…とも言えないものも多分あるでしょう。

また,わたしは現在の医療というのは実は「治す」という点ではまだまだダメですが,「調べる」と点ではかなり優れていると思ってます。ですからわたしが病院にいくのは検査をするためと言っても大げさではありません。医療行為でガンを治すというと「切り取る」「(放射線で)焼く」とか「(体に害がある)薬で抑える」というかなり乱暴なものしかありません。しかも薬での完治は非常に稀です。自分が患者となって考えると治療という意味では結構お粗末で,癌治療にがっかりするのもわかります。コントロールできないとしても自然治癒力や回復力に頼らざるを得ないわけです。ガンの状態がどういう状態か…というのはCTやMRI等でミリ単位でわかります。治療が有効な手立てが無くても,自分の体の状態を正確に知るために,病院には行くべきだと思います。

もっともわたしの場合は腫瘍をゴッソリ切り取ってしまい,抗癌剤も使わず,再発するかどうかというのに賭ける状態ですから,後は状態監視しかないのです。抗癌剤をうって副作用で苦しむ方は違った考えになるかもしれません。わたしの場合は再発の確率をどう低くするかとか,再発におびえる精神にどうやすらぎをもたらすか?という意味ではエビデンスの無いことでも幾つか試したことはあります。ただこれらも基本的には自分の財布を圧迫しない程度…という風に決めています。というのも,もし再発などして,抗癌剤治療になったり,更に承認抗癌剤が効かなくなり,海外で効果があるとされている薬とかを使い出すと,湯水のようにお金が必要になるため,気のせい…である代替医療に高額なお金を投じるのは良くないと考えたからです。わたしは基本的には気分転換の代替医療は良くても,経済を圧迫するものはダメだという基準にしてます。

…というわけで,わたしの場合,自分の命に関わる病気にかかったため,むしろ代替医療とかに興味消え去ったという感じです。それでも,宗教は好きだし,自然(食)や低農薬崇拝みたいのはまだ残ってます。ただ,まぁなんとなくそういうのは,お楽しみみたいになってきたなぁ…と感じております。宗教も死んでからの話だから,まぁ死んでから考えればイイやというか(笑)。

もちろん信じている人を茶化してるつもりもないのですが,冷静に真剣に考えたら,わたしの場合はそうなる…ということです。ですから,最初に話に戻ると,楽しみとして代替医療をやっている人は否定しませんが,子供に対して医療をネグレクトしてる親にはもっと冷静に子供が助かる方法を考えてあげて欲しいと思います。前も書きましたが,医療にはずるをして得なことやライフハックみたいな話は無いと思います。広い情報をどう得るかだけで,一つのうまそうな話を盲信することでは無いでしょう。
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医療でズルをすれば得なことは無いと思う

2010-07-22 09:31:52 | 医療・福祉
子供に手かざしをし続けたが亡くなってしまったという話を読んで。

悲劇だと思うけど,こういう話って昔からあって,親の信仰の問題で輸血が出来なくて子供が亡くなったり,病気になった子供の狐や狸払いをするとかで子供を叩いたとか…そんな話昔から聞きます。だから今特に多いのか?といわれると判らないのですが,最近目に付くのはこういう手かざしにしても,先日書いた予防注射をやらない親とかとか,あと自然治癒力とかそんな少し疑似科学的な感じで世間一般の標準的な医療を子供に受けさせない大人がいるということ。

現世で不幸な目にあっても,その後幸せになるために,そういう行為が必要と信じるのであれば,そういうのもありかもしれません(もっとも,信じるのは大人ですので,大人だけで勝手にやってほしいと思いますが)。でも,どうも最近の事例を見てると信仰の問題として医療行為を逸脱するのではなく,それが科学的に正しいと信じておかしなことをやって人が結構多いんではない?とかいう気がします。少なくとも,来世での幸せのために現世で苦行をやってるわけではなく,現世での利益のためにやってるように見える例が多い気がします。

そうであれば,最初の手かざしの件も,予防接種をしないとか,自然治癒力を高めるとか,そういうのも,いくら熱心にそれをやっても,子供自体が亡くなってしまったら元もこもありません。つまり信仰よりも,間違った知識,間違った思い込みがこういう事件を起こしているわけです。

こういうのを一般に疑似科学といいますが,疑似科学の多くは通例となっている科学的見解を否定します。医療も国が定める標準治療を否定したりします。でも根本的に,国が定める治療が確率的には一番患者を助ける可能性が高いのは明らかです。どうしてそれを否定するんでしょう。こういうのを信じる人は,あたかも国の医療が嘘を言っているとか,自分達だけが知っている真実がある…とでも思っているんでしょうか。

もちろん医療行為が個人に効くレベルまで落とすと標準に当てはまらないケースはたくさんあります。医者によっては誤診をすることもあるでしょう。でも,わたしが思うのは,だからといって秘密の方法はありません。医療にズルをすれば得をするということは無いと思います。医者の言うことが信用できなければ,他の医者の意見を聞くか,自分で医療論文などを読んで,勉強するしかありません。自分の健康のために,子供のために人とは違った努力をしたいのであれば,怪しい意見に耳をかすのではなく,現代の医療を深く調べる方向で努力をすべきでしょう。

もちろん,現代の医療が100%正しいとは限りません。20年経てば誤ったといわれる治療を今やってるかもしれません。でも,だからと言って正しい方法が,その辺に落ちているわけでもないのです。
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予防注射

2010-07-20 23:27:43 | 医療・福祉
ちょっとネットで話題になっていたのですが,予防注射を受けなくてはいけない理由を理解できない親がいるらしい。どうも最近現代医療をあえて無視して,民間療法とか,自然に任せる人がいるようですが,自然に任せていたら,昔の様に死ぬ人増えますから…。

そういう妙な信仰もあるんですが,どうも最近薬害とかが話題になりがちで,集団接種で感染したとか,タミフルで死んだとか,レアな情報があたかもよく起きることの様に伝えられるので,予防接種に過度に不安を持つ人もいるんでしょう。まぁインフルエンザワクチンもギランバレー症候群とか副作用がまったく無いわけじゃないのでしょうけど,そういえば,去年の新型インフルエンザで,タミフルの警戒なんてあっさり吹っ飛びましたね。

わたしの考えを書くと,予防接種をうつにしてもうたないにしても,どちらにもリスクはあります。どっちのリスクが高いかだけ。予防注射が危険と思う人は,稀に起きた副作用や事故を見て,注射が危険だと思うんでしょうが,予防接種を受けないことでさらされている危険がまったく目に入ってないわけです。わたしは日本の厚生省が奨めている予防接種や,自治体が子供への接種を奨めている予防接種は基本的はうつことのリスクよりうつメリットの方が多いのだと信じてます。奨めてなくて,自己解決をするような予防注射も,ある程度海外での接種状況や,日本での評判とか医者の意見とかそういうのを調べて,海外…とくに西洋で標準的にうたれているものであれば,まぁうったほうがいいのかな…と思ったりもしてます。もっとも感染症は地域性があるので,あまり意味が無いものもあるのかもしれません。

どんどん注射を打てばいいとも思ってなくて,副作用のリスクもあるから線引きは難しいなとは思っております。

もっとも今書いたのは自分の子供に対してで,自分の体に関していうと,インフルエンザのワクチンなんて今年はじめに多分20年位ぶりにうったくらいだし,風邪を引いてもあまり薬も飲まないし,わたし自身は,わりと自然治癒をなるべく優先させるというスタイルです。ただ,これは自分の体の状態を常にわかっていて,いざとなったら,病院に駆け込むとか,簡単な熱さましだけはすぐに飲めるようにしておくとか,そういう心の準備をしてるから…っていうのもあるし,まぁある種の無茶振りでもあるので,あくまでも自分の話。そんな冒険みたいのを,いくら自分の子供にでもさせられないと思います。

というわけで,特に子供に関しては標準的な医療行為をうけさせるのがいいんじゃないですかね。そのためには何が標準かをよく知っておく必要があります。
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一票の格差を計算する単位は何?

2010-07-19 17:05:11 | 時事
先週の選挙の結果を受けて都市部と地方の一票の格差について語っている人が,ちょっと今目立ちます。おそらく今回の選挙,全国区の比例代表での得票は民主党の方が多いのに,地方の方で民主が票を落として大敗に結びついたということで,そういうことを書いているのでしょう。

でも,実際は地方区と全国区で両方とも同じ政党に入れたかどうかはよくわかりません。それと前回の衆院選では民主党はむしろ地方で伸びて政権をとったわけで,比例区で一位だった民主が負けたからってその選挙が変…と言い出すのもちょっとな…とは思います。

少しへんな言い方をすると,選挙のルールは最初から決まってるわけで,負けたからルールを変えるのは変ということです。

まぁそれはそれとして選挙の結果に関係なく,一票の重さが違うと言う話はあります。以前違憲判断が最高裁からでたのって,是正されたんでしたっけ?。そのときの判決をわたしは読んで無いのですが,違憲であるというのは憲法のどこに触れたんでしょう?。

ちょっと思ったのが一票の重さというのが,成人の一人という単位ですべて平等…と考えると確かに都心の一票は地方の一票より不当に軽い…ということになります。でももし,一票の重さが,その人が住んでいる家や,もしくは生活圏の広さという土地の広さで測られるとしたら,東京の面積は地方の面積より遥かに狭いので,票が軽いのは当然だ…ということになります。

もちろんこの考えが変なのはわかります。財産で選挙権が得られた明治の頃とかは「普通選挙」といわれていなかったように,土地の所有によって参政権が変わっていたら,それは今風の民主主義ではないといわれるでしょう。でも一方で,日本の様に極端に首都圏に人口が集まっている場合,もし本当に人一人単位で政治力が決まっていたら,日本中の広大な土地の利用法は都市部に住んでいる人たちの都合で決まってしまう…ということになってしまうように思え,それもいいんだろうか?…という気もします。

一方で国連を見ると国連の投票権は常任理事国を除けば,ほかは国単位になります。国の人口も面積も関係なく,どんなに小国でも一票になります。これもちょっとどういう理屈?という気もしますが,国という単位で,それぞれ事情が違うのだから,同じ一票を持つべきだという理屈なのかもしれません。日本の都道府県や自治体の区切りも,まぁ民族とか土地柄の単位とも思えないのですが,でもそれぐらいが一つの事情…であれば,やっぱり最低そこには一つの政治力が必要になるようにも思います。

今,地方は生活圏の崩壊みたいな問題を抱えていたり,自治体の経済的破綻も起きてます。こういう時期に,地方の事情を省みない国政が行われていいんだろうか?と思ったりもします。

まぁぶっちゃけ,もし今の人口格差で各都道府県に最低一つの議員を割り振りつつ,国民一人が持つ票の重さを等しくしようとしたら,多分国会議員をもっと増やさないといけないのじゃないですかね?。でもみんな議員を減らしたほうがいいっていうんですよね。なんとも矛盾してるようにも思うんですが:-p。
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政治家の知事,官僚の大臣

2010-07-18 15:36:01 | 時事
宮崎の口蹄疫の件は以前も書いたけど,ずっと追っていて,最近は東国原知事のTwitterとかを読んでいたりします。

なので今回の種牛処分で国ともめた件については,ちょっと前から知事の意見も読んでました。で,今回もこのリンクした社説にたいして知事本人が意見を書いています。メディアの記事に関して本人が意見を書いたのをネットで見れるというのは,非常に「今」的で凄いなぁと思いました。

さて,この一連の騒ぎ,わたしは口蹄疫の発生のときからずっと知事を応援していたので,知事よりの意見になってしまいますが,それでも少し今回の種牛を残すという嘆願の戦略は少し弱いな…と思ってました。行政が例外を認められない…というのも行政の性質上はその通りで,行政に例外を認めさせるには,例外ではないという様な何らかの理論武装が必要で,その部分が東知事の戦略としては弱いなと思っていたのです。ですが,今回の知事のブログを読むと,県が引き取るということで,先に処分を逃れた種牛と同じ扱いにするという理論立てだったことがわかります。なるほどとは思いましたが,やはりまずは種牛を残したいという気持ちが強くて,理論立てが荒くなって無いだろうか?とも思いました。

ただし行政としてはそうであっても,政治の世界では特例はいくらでもあり得ます。また政治の都合で,うまく(?)理屈にならない理屈を立てることも可能です。そうやってBSE発生国の牛だって20ヶ月以下であれば輸入できるのです;-p。

今回の口蹄疫で東知事は非常に根気強く,いろんな農家の人に会って話を聞いているように感じてます。ですから,生の当事者の声を聞いて,行政的な決まりよりも現実の世界や現場の気持ちを優先してるように感じました。これは政治家としては正しい姿です。知事は行政長ですが,選挙で選ばれるので政治家でもあります。選挙で知事を選ぶということは,杓子定規な決まりに基づいて県政をするのではなく,有権者の声を聞けということでしょう。そういう意味でいうと,知事の今回のブログはその県民の想いを受けているという意味で,非常に政治家としての力を感じました。

一方で山田農水大臣の方。この人も確か国会議員だと思うんですが,この行政的な杓子定規の対応,しかも非常に権力をかざしている態度は一体何なんだろうな…と思いました。次官がこういう態度をするなら判るんですが。

官僚批判,政治主導を訴えて政権をとった民主党だと思うんですが,当事者の声をまったく聞かない非常に官僚的な大臣を輩出してる様に思います。
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技術者として必要なことは全てラジコンで学んだ

2010-07-15 22:11:16 | 所感
タイトルは嘘です(笑)。わたしがラジコンにはまった頃の話。70年代後半ぐらいかな。タミヤが電動ラジコンを出し,しばらくは効果で手が出なかったのですが,お年玉を貯めて(タミヤじゃなかったけど)電動ラジコンカーを買ったり,(親に出資してもらい)飛行機を買ったりしました。

当時わたしは小学校から中学に上がるくらいで,電動ラジコンは創成期でした。最初に出たラジコンはジュラルミンの一枚板のフレームに,タイヤの軸とモータと乾電池がついただけという代物。デフギアは最初からついていましたが,変速機能もなくオンオフのみ,ベアリングもついてませんでした。

でも実態としてこれでラジコンブームが起き,巨大なマーケットが出来たので,様々なメーカが参入して,性能を競いました。立ち上がりの分野なので,その技術も目に見えて理解しやすく子供でも納得性が高いものでした。

例えば先のベアリングもそうですし,スピードが多段変速になり無限変速に変わりました。これはスイッチから可変抵抗に変わったからでニクロム線の上を電極が動くのを見て,こうやって抵抗が変わるのかを理解しました。シャーシもジュラルミンからFRPやグラファイトに変わり,軽いだけではなく,強度も強く,金属より樹脂の方が強いというのも子供心に不思議に思った気がします。ネジも空気抵抗を減らすために丸山のネジから,皿ネジに変わたっとか,バッテリも乾電池からニッカド電池に変わり,mAhという単位をおぼえたりしました。サスペンションがつき始めると,そのダンパーの構造を理解して,サスは跳ねない方が良く,そのためにオイルとかの流体で抵抗をつけるといいというのもおぼえました。

一方わたしは飛行機も持っていたし,そっちはエンジンだったので,そちらの方も雑誌とかで読んでいて,2サイクルと4サイクルの原理を理解したり,ちょうどラジコンでチャンバーのマフラーが出た時期だったので,音が小さくなりパワーも出るということが可能であることを知ったりとか,新しい構造の紹介で,原理を知り,技術のおもしろさを知ったのでした。

実はその後高校にはいるとバイクの方をいじったので,更にバイクの方で技術的なことを習得していったのですが,ラジコンで学んだことは非常に多かった気がします。

一方でいまラジコンとかも電気式で飛行機やヘリもあり車もあります。構造がかなり複雑です。またロボットもあり,プログラムを自分でいじったりも出来るようです。高度になった反面,子供に構造を理解できるのだろうか?と不安になります。子供は仕組みを理解するより,魔法の箱と呪文の様におぼえるのではないか?…等とも思います。

もっとも子供は柔軟ですから,これはこれで技術的なポイントをしっかり押えたりするのかも知れません。まぁ昔は構造がわかりやすい…と言っても,だからといってわたしが電球や金属素材その物をつくっていたわけでもありません。タイヤのゴム(スポンジですが)や電池だって出来合いのものを選択して使ってました。わたしにとって金属やゴムという原料だったものが,今の子供にはチップ…であり,それをどう組み合わせるか,そういうものにはどういう性質的制約があるのかはきちんと理解するのかも知れない…とは思います。

まぁ出来れば,チップを模したものを自分でつくれるくらい…の理解があれば,どんなところに行ってもやっていけるかも知れませんが,最先端技術でおぼえることが多い現在,そういうところは難しいんだろなぁとも思います。
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