その言葉は大体、イライラして感情的になる!! みたいなニュアンスで使われるけど、感情的になりやすいのは男性の方みたいだしね。(男性ホルモン多いせい)
「男は精液出すからだめだ」でいい。
三島は英訳に向いていないんですかね?英訳されたものが海外で評価されているので、英語としてダメなものだとは思わないのですが。いずれにせよ、英訳されたものを日本人が英語で読んだ場合には、分かりやすいものではないと思います。
エスコートは実は女性への差別的発想(男性の制御下になく好き勝手動く女は、ビッチではしたない)的な思想から発生してるけど、逆に言えば欧米の女性差別が日本のそれに比べて比較的許されがちなのは、差別する分の負担を男性が背負っているからではあるんだよな。
イスラム圏とかその辺はさらに徹底していて、マジで荷物も持たせない、座席はとにかく優先して妻を座らせる。
日本の女性差別は、色々と男性が女に甘えまくった上で発生してるから、色々と気持ち悪いが、男性が女性に依存仕切って甘え倒した社会なので、女性を切り捨てる形にはなれないという点で、そこまで酷い虐待に派生しない利点はある。
村上春樹を英語で読む。私はこれでTOEIC900点を突破しました。
小説を読むうえで大きなストレスとなることの一つに、著者が描く情景、主人公の心情、時代風景などがピンとこない、ということがあります。外国の小説の場合は、たとえ日本語に翻訳したものを読むときであっても、日本人である我々は感情移入ができず、結果として、なかなかサクサクと読み進むことができません。英語で読む場合は、これが「英語という言葉がわからない」「書かれてある内容自体がピンとこない」の二重のストレスになってしまい、英語上達のためのポイントである「多読」の障害となってしまいます。対処法は簡単です。日本人の著者が書いたものを英語で読むこと。そして自分が好きなものを読むことです。
私は昔から村上春樹が好きで、ノルウェイの森は特に、これまでにたぶん10回以上読み直しています。話の流れはほぼ完ぺきに頭に入っているので、Vintage版のノルウェイの森は簡単に読み終えることができました。これは、いままで、いろいろな英語の小説(ポール・オースターからハリー・ポッターに至るまで)にトライし断念してきた私にとって大きな自信になりました。
次に、今まで日本語でも読んだことがなかった、海辺のカフカを試してみました。これも多少は日数はかかりましたが、楽しみながら英語で読み終えることができました。同じようにして、これまでに長編・短編を何冊か読んでいます。
村上春樹の小説の主要なものはほとんど英訳されていて、Amazonなどで手軽に手に入ります。村上春樹がかなり好きな人であっても、読んでいない作品というのはあるかと思うのですが、そうしたものであっても英訳で読むことができます。自分が初めて読む小説が、それが英語で書かれているのにもかかわらず情景がすんなりと理解できる、というのはすばらしい快感です。それは、ちょうど、海外の作家の本を英語で読んだ際の、自分が理解できているのかどうかに確信が持てないもどかしさの対極にあります。
村上春樹が好きでない人は、自分の好きな日本人作家を読めばいいと思います。吉本ばななや村上龍も英訳が多く出ているのでいいと思います。三島由紀夫、安部公房、井上靖が好きなので英語で読んでみましたが、これらは私にはダメでした。時代が違う作家の文章は、英語になってしまうと、一発でピンとくる感じがなくなってしまいます。小説ではありませんが、最近のアニメや日本映画を英語吹き替えプラス英語字幕で観るという方法はよいかもしれません。
入居審査で落ちるやつはクソ経営の会社だと思ってたけど案外身近なんで支援。
上場企業に勤めていた時
入居審査なんてなかった。良い条件はあとから提案されたことが多かった。募集してない裏の情報やこれから空く非公開の情報ももらえた。
物件の申込は担当者の印鑑。つまり自分の判子でよく、契約時には契約用の印鑑で事足りた。連帯保証などつけられるわけもなくつけてくれとも言われなかった。確かに敷金は多かったが礼金や更新料も取られない。全都道府県どこかしら系列のビルがあるので支社の立上げにも物件見に行かずとも契約できる。
同じような事務所の引っ越し担当を行ったが、全く異なった世界だった。元増田と同じように審査には通らない。裏の情報どころか物件の値段も露骨にあげられる。会社の代表者が連帯保証につくのは当然で、足りなければ知り合いや家族で同じように保証人をたてられないかと頼まれる。無理やり頼み込んだ親族は今も元気なのだろうか?申込には会社の実印を求められ、決算の公開を当然のように指示、敷金はもちろん10ヶ月程度だが礼金やら更新料、紹介手数料などが加算される。とくに言われるのが信用調査情報。設立数年の企業は信用度が低いらしく一等地のビルは借りられない。
イケハヤにいらっとする人たちの気持ちも、とってもわかるけどね
源氏物語の存在を論拠に日本は女性を性奴隷する文化なんかない、と訴え出ようとするアレな人達がいることを考えると、多分色々と手遅れ。
元発言が書き換わってるみたいなのでもういいです。
主張を捻じ曲げた、と言われるほど大意に違いがあるとは思えません。
普通のサラリーマンみたいに、毎日自然と顔を合わす人が、いない。
客商売だから、何するにも評判とかイメージに繋がってしまうから、下手なことが出来ない。
いっそ有名人だったら、向こうから人が集まってくるのかもしれない。
どこへ行っても、私のことをどこかで見かけたことがある程度の人・・と出逢ってしまう。
私は、お一人様は平気だ。
とか、思われるのが怖くて、出られない。
知り合いが来そうなイベントに1人でいって、
「あそこの社長、ぼっち」みたいなイメージ持たれたら・・と思うと、怖くて行けない。
そこで、いっそネットで知り合ったような、全然接点がない人と友達になる。
それはそれで楽しいけれど、点と点って感じのまま、
自分のネットワークは広がらないから、「ぼっち感」は消えないまま。
所属欲求が満たされない。
家庭以外にもそれぞれのコミュニティを持っていて、
そこでよろしくやっている感じ。
元々、人を遊びやらに誘うのが苦手だけど、
20代の頃は周りのみんなも遊びやら仲間やらに飢えていて、
しょっちゅう飲み会やらキャンプやらに誘われて、自然と友達になれた。
色々考える必要もなく、
初めての異業種交流会にぽんと飛び込んで仲良くなれた。
自分でも色々企画した。
そういう不慣れなイベントを「一緒にやろう!」とノッて来てくれる仲間がいた。
「50人規模のクリスマスパーティを開催する」みたいな、
社会の薬にも毒にもならないような、意識だけは高いイベントを企画して、
仲間同士でのいざこざがあったり、
頼んだ仕事をやってくれないとか、
それが30代も近づくと、
そんなことしてても経費で赤字のリスクがあるだけで儲かるわけでもないし、
苦労した割には感謝されないし、
そういうイベントごとにももう飽きが来て、
純粋に「みんなで集う楽しさ」みたいなものが感じられなくなっていった。
おんなじ労力かけるなら、仕事にかけた方が、見返りもある。
ただの仲間が増えても何にもならない。
それより仕事に繋がる人脈をつくろう。
そういう打算が勝って行ったように思う。
それで、仕事の繋がりばっかりが増えていって、
お客さん=友達みたいな数年を過ごして30代半ばになった。
だけど、それはそれで、言えないことや気苦労が多くて疲れる。
すると今度は、また、ただの友達がほしくなった。
けれど、ふと周りを見回しても、思い当たる人がいない。
20代の頃あんなにたくさんいた、
「知人以上友達未満」の人たちは、いったいどこに行ったんだろう?
いや、実際は、
彼らはどこにも行ってなくて、
今も変わらずどこかの飲み会にいたり、家庭に入って子育てしたりしてるんだろう。
その繋がりが切れてしまっているだけで、消えたわけじゃない。
でも、私の目から見れば、消えたも同然だ。
気軽に、飲みとか遊びに誘える友達がいない。
新しくつくろうにも、そこにはお互い何らかの目的がある場合が多くて、
そういうのを抜きにした「ただの友達」を作ることの難しさ。
意識して作ってこなかったことがいけなかったんだろうか。
そこにいたころ、お客さんからはたいてい「いいところですよねー」って言ってもらえてたんだけど、
毎回毎回同じことを思うのだけれど、成功しか許されない行動を「チャレンジ」と表現するのどうなんだろう。挑戦というのは、ほぼ失敗するもんだと思うのだけれど。ほぼ成功する行動をチャレンジと呼んでいいのかという逆説的な疑問も浮かぶ。インタビューは四半期ごとだから、その期間で結果の出る内容しか設定できないし。半年、1年、3年かかるような目標には価値がないのか。
大きな目標を1年、半年、四半期に分解して段階的に処理していけばいいのかもしれないけれど、それでも途中の失敗は許されないし。別に「挑戦したけど失敗したね」と慰めてほしいわけじゃないけれど、特に途中で助けてくれるわけでもないし。ほったらかしなんだよなぁ。