触んないほうがいいと思うなあ。
某界隈だって、2ちゃん民なら余裕のスルーです、スルーできずにブックマしちゃうのがはてな民ちゃん。
言いたいこと言えてよかったでちゅねよしよし、ってか?
っかーっ!私もよしよしして欲しいょ…
さみしい…
頭ポンポンされたい…
『してないよ、気に触ったならごめん…』
「え、ちょ…、やめないで…くれる…?」
されたい…
それぞれに順調に人生を歩んでいく2人がまぶしいと感じた。
順調っていうか、単に「降りた」だけだよ(それを世間では「大人」と呼ぶのは確かにそうだけど)
その大人の先にあるのは、世間に沢山いる、仕事引退して無気力化するおっさんとか、家族に金持ってくるゴミとして扱われるおっさんとか、図々しくて頭の悪いおばちゃんとかだ
このどちらかばかりが世の中には多すぎる。
「自殺を肯定する」「自殺を否定はしないが推奨もしない」この中間地点で物を考える思想があまりにも少ない。
もしも自殺を肯定する場合は「死ぬことは素晴らしい今すぐ死のう」まで行ってしまう。
両極端ばかりだ。
死にたいと思う気持ちを否定せず、死のうとすることを肯定し、その上で死にたいんだったら今すぐ死ぬべきだと急かす訳でもない。そんな思想が世の中には足りなすぎる。
忘年会で昔からの友達と会って、ふいに自分の中の劣等感とか自己肯定感の欠落に気づいた。
一人は女で、結婚して専業主婦。つい先日妊娠したことがわかって、その席で彼女の妊娠を祝った。
もう一人は男で、そこそこの企業に勤めていたが企業体質に問題があって、先日、公務員試験に合格し転職予定、ってことを聞かされ祝った。
俺は、2011年の氷河期世代で一度就職に失敗し、ほうほうの体でなんとか小さい公益法人に入った人間。特に今後の明るい話はない。
そんな近況を報告しあった時、昔からの長い付き合いだった二人に対して劣等感を、はじめて、明確に意識した。
なんというか、彼と彼女には落ち着きが出てきた。自分の出してきた成果、これまでの人生に対して屈託がなくなった。
昔は、この3人はどこかしら自信に欠けたところがあって、いやしい話や、汚い部分、ネガティブな部分も話せていた。
人間の弱々しくて卑しい部分を共有できる貴重な関係お互いに弱みを見せられる関係だった、と思う。
それぞれに順調に人生を歩んでいく2人がまぶしいと感じた。
俺が昔の感覚で、皮肉や斜に構えたことを言うと、苦笑されたりそれは違うと正論を返されたりした。
男のほうが特に変化(と俺が勝手に思ってるだけかな)が顕著で「俺はうだうだ言ってばかりで行動しなきゃダメだってわかったから!」というような発言が増えた。
俺に対する当てこすりもそれなりに入ってるんじゃないかと思う。気のせいだと思いたいけど。
昔、何度も二人で一晩中、人生の不安だとか、自分はこういうところがダメだよなとか、そんなことを語り合ったそいつが
俺を引き合いに出すようにそんな正論を真顔で言うようになるなんて。
世間一般的には、彼らは大人として順調に成長したのであって、それはきっと正しいことで、喜ばしいことなんだと思う。
大事な友人が大過なくそこそこに順調な人生を送って、そういった境地に到れることを嬉しく思う気持ちも、祝いたい気持ちもある。
そうすべきだとも思うし、現にそうした。
でも、一方で、ネガティブで卑屈な俺の本性の部分は、言いようもなく寂しさを感じた。
俺はあんな風に、自分のしてきたことを胸を張って発表したりできない。
羨ましくて惨めな気持ちになる。そう感じる自分の品性は実は特別に下劣なものだったのだと思えてくる。
「自分は努力してこういうことを達成した」という自信のある人が心底、とてつもなく苦手だと、この歳になってようやく気づかされた。
自分にも成功体験くらいはある。就活では散々苦労したけれど、最終的にはそこそこおカタい所に行き着くこともできた。
少なくとも客観的な事実としていくらか「これを成し遂げた」といえる記憶はあるんだ。
でも、その事実に対して胸を張ることができない。達成したという自信を持つことができない。
単なる事実関係の比較の問題じゃあなく、問題はもっと根本の、俺の価値観、感受性の歪みにあるんじゃないかと思う。
俺はどうやら、いわゆる「自尊感情」とか「自己肯定感」みたいなものが欠けていて、そこからくる劣等感や不信感に苛まれているんじゃないか。
常に自信や意欲に欠けていて、特に他人と関わることや意見を表明することへの積極性が乏しい。
自分に自信が持てなくて卑屈になり、世の中がとにかく生き苦しい。
これはもしかして、ネットでよく見かける生きづらいって症状なんじゃないかなと思って、なんとなく整理の意味も込めて、あと吐き出したくて文章にしてみた。
28のいい歳の大人が言ってていいことじゃないよなとも思うんだけど。
私は「論理的思考」が出来ない、というか何だか今一つよく分からない。一つの例として日常の物事の決定プロセスを考えてみたい。
スタバに行ってコーヒーが飲みたくなったとする。私の場合はいつも「コーヒーを飲みたい」という自分の欲望に対して、「コーヒーを飲む」という決定を頭の中で既に下しており、それに対して肯定的な理由をいくつか考える。コーヒーを飲めば頭がリフレッシュ出来て仕事の効率が上がる、だとか。
コーヒーを飲むか飲まないかを論理的に考える場合、以下の項目を順に検討して、飲むか飲まないかを決めるのだろうか。
話は変わるが、「人を殺してはいけない」というのは当たり前のことである。日本人の多くがその理由を論理的に説明出来ないにも関わらず、その教えに従っている。「こうであって欲しい」「こうあるべき」というのが最初から決められているのなら、何故論理的思考をする必要があるのだろうか?そもそも、日本人が論理的背景が無いのに物事を決めているとすれば、私達は何を基準に物事を判断しているのだろうか?
同じ職場で働いている10歳下の女の子が、新しい恋愛を見つけた!って喜んでたんですね。
でも、あんまり祝えないんですよこれが。
前の彼氏(以下K)からはDVやら浮気やらで散々な目にあってたのに、
依存っていうんでしょうかね、だめなのわかっていても、
何回も別れてはKとより戻すってのを繰り返してたようなんですね。
それで、周りの協力もあって、ようやく抜け出せたんですが、
今度の彼氏ってのが、バツ1で20歳上だっていうじゃないですか…。
「やさしいんですう~」っていうけど20歳下の子抱けるならそりゃやさしいでしょうよ…。
本人は結婚したいらしいんですけど。
大きなお世話だし、考えすぎだとは思うけど、飲み屋でナンパしてくる男だと、
そういえば昔そんなことを習った気もしますし、実際その通りでしょうね。
0.999...と1と1.000...はすべて誤差の範囲内なんで全部同じ。
2人みたことがある。
1人はキモオタ丸出しのデブ。こいつはセフレ何十人もいる、求愛ラインクッソきまくってる。1日3人以上抱く。
1人はチビのニキビ面。こいつもどこでもナンパしてやりまくって100人くらいの女回してる。
ブサイクと書いたが、脂性とかはあるけど、清潔感がなくは無い。無くはないと書いたが、触ってもベタベタしなさそうなだけ。
2人に共通してることは
① ドキュン(殴ったり、いいかげんな理屈でキレル)
② 他人を攻撃する言葉をいいまくる(とにかく近くの気弱そうな奴を見つけてちょっとでも気持ち悪いところあればなじる)
③ 『ドキュンな俺が少し気を使ってやってるぜ?』って感じで女に接する
④ 会話がつまらない、会話術無し、状況を自分の都合のいいように解釈するような言葉選び(状況が自分に都合がいいぞと宣言することで女を持ってくる)
⑤ カラオケ、バーで飲んでる途中、飯食ってる帰り、車の中でキスして好きだといって、セックスに誘う
なるほどなあって思う。確かにこれでついていかない女はいないだろう。
なぜなら、女は保身が重要な動物だから、逆らったら暴力を受けそう、あるいはその後悪いことが怒りそうっていう『ストレス』を回避しようとするけど、その回避先が男を怒らせずセックス。しかもセックスしたら女はなびく。
つか、女を気遣ったらダメだわ。気遣ったら女は利益を得ようとする。快楽でなく、ストレスを与えるべきだ。
そば食って、ネトゲで年越し。
何でワークアウト中だとプレイリスト内でのシャッフル機能が使えないの???
昨日はいつもより早く起きて、いつもより念入りに身支度をして、いつもより少し早く家を出た。
気分も良かったので、朝ごはんでも食べて出勤しようかなーと思ってたら、猫が轢かれていた。
ご機嫌で家を出て一分で沈む。つらい。
いつもなら素通りするけど、なんとなく素通りができなくてコンビニへ。
飲み物を買って、一番大きな袋に入れてもらって猫の元へ戻る。
大きくて綺麗な猫だった、首輪は無かったけれど痩せてなかったから飼い猫かもしれない。
死んだ猫は猫の形をした肉じゃなく、やっぱり猫だった。
目を閉じてやりたかったけど、上手くできなかった。
口から血を流していたけど体は綺麗だったので、袋を裏返してできるだけ直接触れないようにして袋に入れる。
体の裏側には血がべったりと付いていて、当たり前だけどやはり猫は死んでいた。
なんとか苦しくないような体勢で袋に入れて、とりあえず道の隅に置く。
このまま公園にでも埋めてやれればいいのだけれど、出勤中なのでそんな時間も無い。スコップも無いし。
ゴミ捨て場に置いておくのも猫に失礼な気もするし、そもそも猫の死体は何ゴミなのか分からない。
犬の散歩中のおばさんが声を掛けて教えてくれたので、区役所に電話する。
受付時間の30分前だったので、その場の住所を控えて猫をその場に置いて出勤する。
道で猫が轢かれていたので回収して欲しいとの旨を伝えると、シジュウですね、と言われた。
死獣ってことだと思う。向こうとしては仕事なんだろうけどずいぶんドライなもんだなぁと思った。
その場の住所や連絡先を伝えて電話を切る。
仕事帰り、猫はいなくなっていた。役所の人が回収してくれたのだろう。
コンビニで買った少し良い猫缶を置いて手を合わせる。
少し迷ったけど、缶は開けずにそのまま置いておく。
別の猫が食べに来てまた轢かれたら立ち直れない。
良いこととか悪いこととかより、これはもう自己満足だ。
でもなんとなく、あの猫が今まで生きてきてここで死んだことを、誰かがちゃんと知ってあげるべきだと思う。
翌朝、猫缶は無かった。血の跡はまだ少し残っていた。
ジバニャンみたいな感じであの猫がこの道に居ればいいのになーと思ったけど、
多分、明日にはその猫のこと忘れてるのだと思う。
でも、今はまだ、彼がなかなか素敵な体をした猫だったことは覚えているから。
お疲れさん、どうぞ安らかに。