はてなキーワード: 則天武后とは
そうではない。偏見ではなくて組織力学の必然。オジサン社会は相互監視の村社会ルールで動いていて(それの是非はさておき)、男の変な奴はそもそも早い段階で弾き飛ばされてオジサン長老会に生き残れないから、オジサン長老会の会長候補は大体常識人でバランスのとれた判断ができることが多い。オジサン社会で生き残ってきたオバサンには4種類あり、①本物の傑人か、② 則天武后的な極悪か、あるいは、③オジサン長老の愛人であるか、あるいは、④アファーマティブアクション埋め枠で実力はないがスキャンダル歴がないなどの理由でぽっかり浮き上がってきた人(ただし実務をさせるとすぐにアラがでて長く務まらない)
①②の可能性はそれほど多くなくて、実際には③か④が多い。
世界史の特徴、特に日本史との最も大きな違い。それは、平均点レベルまで到達するのに時間がかかることである。
日本史は覚えたことが得点に直結する。古代のことなら古代の内容が分かれば得点できる。
だが、世界史は違う。
古代ローマのことを覚えただけでは設問のほとんどに答えられない。
例えば入試では「古代ローマの民主制と比較して現代の民主主義を考える」みたいな技能・思考を必要とする問題が出題される。ローマを覚えてもすぐには得点にならないのだ。
つまりこれは、「暗記しただけでは勝てない」ということを意味する。そして、平均点に到達するのに大きな労力がかかる。
さらに言うと、そこまで労力がかかるとなると、モチベーション維持が大変である。
とすれば、受験に備えるためには以下の条件を満たす学習を進めなければいけない。
①用語を覚えることについて
1.最低限の語句を
2.モチベが落ちる前に
3.素早く覚えきる
→「ポエニ戦争」「マグナカルタ」「則天武后」「資治通鑑」などの語句を古代から近現代まで各地域ごとにひととおり知っている状態、空欄補充ができる状態にする
②流れを押さえることについて
1.覚えた語句を
3.関連づけて理解する
→かなりざっくりした言い回しになるが、「十字軍において、最終的には聖地を奪回した状態を維持することはできなかったが、その過程でイスラームとの接触を通じてもたらされた文物や価値観は後のルネサンスにも影響した」という感じの理解。その中で人物ほかもう少し具体的な用語を付与していく。サラディン、インノケンティウス3世、ラテン帝国、アンティオキア、とか。
ここで問題となるのが、どちらにどれくらいの時間を割くのか、という点だ。しかし、当然ながら時間は有限である上、理解を「定着」させる為には②により多くの時間がかかる。
つまり何が言いたいかというと、①を終わらせて初めてスタートラインに立てるのであり、そこまでの作業を迅速に終わらせられないような人間は受験世界史の勝負の舞台に立てないから諦めろ、ということだ。
さて、先述の作業の期間の目安が二週間つまり半月であり、そのために最も有効な問題集のひとつが「スピマス」である。
詳しくは以下のサイトより。
https://www.yamakawa.co.jp/product/03077
しかし、いきなりこんなものに取り組んでも何も意味がわからないだろう。
受験期までにちゃんと通史を学べる恵まれた高校はそう多くないだろう。そこで、先述②より先にまず把握しなければいけない最低限の「流れ」を把握するのに最適なサイトがある。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/sekaishi/
20分×40回で800分。受験勉強へのトータルの時間を考えれば大した量ではない。
用語は決して多くなく、これを見ただけでは知識量としては受験に通用しない。あくまで流れを掴む用途なので、躍起になってちゃんとしたノートを取る必要はない。
各回のラストで内容を要約してくれる。それを見てなんとなく雰囲気が掴めればいい。
これらを高校の夏休みが始まるまでに終わらせられないなら受験世界史にはスタートラインにたどり着くこともなく敗れることだろう。
しかし、今の時期、5月末に始めて6月15日までに終わらせられればまだ間に合う。
それから1ヶ月かけて基本的な問題集に取り組み、夏休みに共通テストの過去問に取り組むことができれば、9月には個別の入試の対策ができる。
そうすれば、よほど偏差値の高い大学でないかぎりはまず通用するレベルに行き着く。
受験生達の健闘を祈る。
東京国立博物館 平成館で開催中の特別展「顔真卿―王羲之を超えた名筆」に先週行きました。
目玉となっている顔真卿の「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」は平日午後で、30分待ちでした。
入口の券売機コーナーに待ち時間が表示されていますので、心構えを持って行列に臨むことができます。
これは祭姪文稿に限らない注意点なのですが、展示物は小さいものが多いです。
現代書道では畳の大きさである全紙、それを縦半分にした半切、のような大きな紙を使用しそれに大きな字を書くことが多いかと。
展示されている古い作品は、小学校の習字で使う半紙を横にしたようなサイズ。それが横につないであります。
日本でも昔の巻物はそんなサイズですよね。その縦のサイズに字が12~15文字記されております。大体のサイズ感はお分かりいただけますでしょうか。
祭姪文稿全体は、横2メートルほどあるでしょうか。しかし、メインは半紙(横長)×2ぐらいです。
残りはこれを手に入れた歴代の所有者のコメントやらハンコやらで埋まっています。
歴史的に有名な作品にたくさん付いてくるこのおまけは「千社札みたいなもの」と聞いたことがあります。
お宝を手に入れたら、何かしら自分の足跡を残さずにはいられないということでしょう。
長い長い待ち行列のあとにこれを拝むことができるわけですが、たくさんの人が並んでおりますので、立ち止まって鑑賞することは許されません。
立ち止まらないで見ると、本当に一瞥、ちょっとみた、という感じです。
祭姪文稿に特に思い入れのない人があれで感動するのは至難の業と思われます。
そのあとに祭姪文稿の拓本が展示されていますので、じっくり見たい方はそちらで。
拓本なので真筆と違い、墨、筆運びは感じ取れませんが。
PCモニタが大きい人は、公式サイトをPCで表示したほうが大きいサイズで見られるかもしれません。
ポスターが明朝体を使用していることを批判されているブコメを見ましたが、よく見ていただければ明朝体ではない、顔体に似たフォントであることがわかるかと思います。
展示パネルに、明朝体の大本は顔真卿の字体(顔体)という説明がありました。見間違う程度には似ているということでしょう。
顔真卿以前の欧陽詢、虞世南、褚遂良は、縦画・横画の線の太さが大きく異なりメリハリがあること、横画が右肩上がりで外形の角度が鋭角になり正方形、長方形ではなく菱形っぽくなる特徴があります。
癖のあるかっこよさ、というのでしょうか。
顔真卿の楷書は、縦画・横画の線の太さの違いが少ない、横画が水平に近く字の外形が正方形・長方形に近い、という特徴があります。大変にプレーンです。
欧陽詢、虞世南、褚遂良、顔真卿(だったと思う)の同じ字をモーフィングで写してどのように違うのかを見せてくれるモニタ展示があります。
字形の違いだけではなく、たった1字からその人の性格が透けて見えるような大変に面白い展示です。
王義之、欧陽詢をはじめ著名な人の作品にはキャライラストがついています。
本当にこんな顔だったの? 絵が残ってるの?と疑問が沸きますが、キャッチーではあります。
はっと気が付くと、顔真卿のキャラのポーズが違うのがいて二度驚きました。
「まだまだ北風です」「はじまりはいつも顔真卿」などキャッチフレーズがつけられている作品もあり、大変まじめでしっかりした展示であるにも関わらず、一生懸命キャッチーです。
拓本の展示が多く、これは当然本のサイズです。
しかし石碑全体の拓の展示もふんだんにあり、整然と統一された一面の書の美しさに圧倒されます。
メインは唐ですが、その後の時代も日本、中国できちんとフォローしている幅広い展示でした。
唐の玄宗皇帝、則天武后の書も展示されております。そんなに書を上達させる時間があったなら政治にもっと力を入れたほうがよかったんじゃないかな、と思わせる達筆です。
最澄の書が空海と並んで展示されているのはいわゆる公開処刑のように思われました。
唐に遣唐使として滞在していた折に、最澄が空海に代筆を頼んだ、というエピソードを読んだ覚えがあります。
本人も空海の書のほうが遥かに優れていると知っていたわけであえて並べて展示しなくても。
蘭亭序、孔子廟、九成宮をはじめ有名どころが勢ぞろいしていますので、書道に興味のある方は是非。
ただ展示数が多いので足早に見ても二時間半(祭姪文稿の待ち含め)かかります。
観覧者の7割は中華圏の方ですので、春節終わった後がいいかもしれません。
日本人観覧者より、中華圏観覧者の平均年齢は20以上若いと思われます。
20代のカップル、グループ、小学生ぐらいの親子連れもいます。
多少閲覧マナーがどうであれ、お若い方に観ていただくのはとてもいいことだと思います。
祭姪文稿の待ち行列で順番ぬかしを一度静止しましたが、二度目は見送りました。
そんなに焦っていっても、ちょっと見て終わりなんですけどね。
兄の荘公の夫人と密通し、その兄が死んだ後に自分を差し置いて魯公となった甥を殺した。
代わりに立てた閔公が、慶父の弟である季友を信頼する姿勢を見せると、これも殺してしまう。
自らが魯公とならんとするも、周囲の支持を失い追放され、後に送還されて季友から弾劾され、自害した。
始皇帝が亡くなると、丞相の李斯を唆して遺言を書き換え、本来の後継であった扶蘇を自害に追い込み、その弟である胡亥を即位させる。
功臣を殺し、圧政を敷き、それによって反乱を招くと、李斯や胡亥を弑して劉邦に内通しようとしたが、扶蘇の息子と言われる子嬰に殺された。
傀儡として立てた幼い皇帝に「跋扈将軍」と揶揄され、その聡明さを恐れて毒殺した。
桓帝の代になってようやく梁冀は粛清され、一族も悉く処刑された。
武力によって専横を極め、悪政暴虐の限りを尽くした。
密告を奨励した唐の則天武后の下、来俊臣は犯罪者を取り調べる役に抜擢された。
凄惨な拷問を編み出して、次々に無実の者を死刑台へと追いやった。
ついに来俊臣は、これまで自分がやってきたように密告され、斬罪に処された。
街に晒された死体は恨みに燃える民衆によってバラバラにされたという。
玄宗が気に入った者や、皇太子の周囲にいる者、自分の地位を脅かすような人物を次々に陥れて殺した。
温和な顔をして政敵を追い落とす様は「口に蜜あり腹に剣あり」「真綿に針を包むごとし」と評された。
南宋において宰相を務め、圧力を増す金との講和を唱えると共に、反対派を弾圧した。
後世、岳飛が忠臣の象徴とされると、秦檜の名は売国奴の代名詞となった。
岳飛廟の前には、秦檜夫婦が縄で繋がれた像が立てられ、訪れる者はそれに唾を吐きかけたという。
明の嘉靖帝は政治を顧みず道教に熱中し、道教の祭文に通じていた厳嵩は気に入られて高位に就いた。
賄賂が横行する悪政を二十年に渡って行ったが、やがて勢いを失った。
同じく権勢を振るった息子が処刑されると、家財を没収され、庶民に落とされた。
明の宦官。
東林派と反東林派の争いに乗じて権力を握り、大々的に東林派を弾圧した。
全国に間諜を放ち、自分を批判するものは全て投獄して処刑した。
周囲には「九千歳」と唱和させ、自らは「尭天舜徳至聖至神」とまで名乗った。
清の絶頂期を築いた乾隆帝も老いては耄碌し、和珅はその寵臣として長年に渡り政治を壟断した。