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はてなキーワード: ルールとは

2025-01-14

南米でも生きていける男がモテる

ちゃごちゃ言ってる男は南米で生きてはいけない

ちゃごちゃ言ってあちこちごまをするのがせいぜい

からも好かれる人は自分の方こそ格上だと誤解しているかわいそうな男から嫉妬される

南米で生きていける人は北米でも生きていける

人としての力が強い

公立出身模試偏差値生意気言っている人は誰からも好かれない

どういう人が好かれるか学ぼうともしない

それは世界にとって良いこと

世界に出しゃばらないからね

井の中の蛙は独特のルールで一生を過ごす

真似事ではない本物の洋風の会食なんて出来ない

anond:20250114182745

逆に俺は刑務所入ったからこそ酒飲むのにいちいちルールなんて縛り作るのが馬鹿馬鹿しいと悟ったけどね。

そんなもん作っても損するのは酒飲みだけ。

anond:20250114073650

そもそも知的な分野で女は戦ってないか

おまえの評価軸の持ち出しかたが間違ってる

野生の世界でメスはオスから獲物をもってきてもらって子作りすることが最重要課題

そして下位オスではなく上位オスを見極めなければならない

「品定めする乞食」は野生の本能に忠実なだけだ

デヴィ夫人、メラニ夫人、メーガン王妃彼女らのようなタイプ知的勝負なんて1mmたりともしてないが

女の世界では伝統的な生き方であり

近代化してない地域あるいは有色人種に生まれ教育投資もしてもらえなかったオバサンが

野生のルールに過剰適応し続けるのはオバサンのせいではない

彼女らを図に乗らせてるのは

あわよくばやらせてもらおうとする強者になれないオスのほうだろう

40過ぎて情けなさすぎて消えたい

年末人生2回目の自業自得のことをしでかしてしまって(うっかりミスというよりは自分認識の甘さと規範意識の緩さからやってしまった完全なる自業自得。40過ぎてやることじゃないと自分でも思うし、なんでそんなことしちゃったのと落ち着いた自分でもそう思う内容なので本当に情けなさすぎる)、いつバレるか、バレたらどうなるかをweb検索しつつビクビクして過ごしているんだけど、そっちで胃を痛めすぎてて他の手続きをすっかり勘違いしててリカバリが効かない状態になってしまった。

周囲に知られて呆れられるのが一番怖いし、少なくとも直接影響がありうる配偶者には言うべきなんだろうけどそれすら言えてなくて、胃が痛くて吐きそうで仕方ない。

損したくない手抜きしたいという卑怯な性根が一番の問題なんだと思うけど、その割に小心者すぎて他の人と違うことをすることが怖くてしかたなくて(別にそれがやりたいわけでもないのに)、そして年齢を重ねても同じことをやってしまい、色々調べたりしているくせに肝心なところで大ポカをやらかしてもはや詰んでしまうって本当に馬鹿すぎる。他人がやってたら「なんでそんなことやっちゃったの」とはっきりと呆れた視線を送るレベル

ルール違反をしてバレるのが怖くてビクビクしてるのに、そんな状態子供を叱ったりしていてどの面がって自分でも思うし、性格と考え方を少しでも変えたいけどカウンセリングでどうにかなるんだろうか。

40過ぎて情けなさすぎて消えたい

年末人生2回目の自業自得のことをしでかしてしまって(うっかりミスというよりは自分認識の甘さと規範意識の緩さからやってしまった完全なる自業自得。40過ぎてやることじゃないと自分でも思うし、なんでそんなことしちゃったのと落ち着いた自分でもそう思う内容なので本当に情けなさすぎる)、いつバレるか、バレたらどうなるかをweb検索しつつビクビクして過ごしているんだけど、そっちで胃を痛めすぎてて他の手続きをすっかり勘違いしててリカバリが効かない状態になってしまった。

周囲に知られて呆れられるのが一番怖いし、少なくとも直接影響がありうる配偶者には言うべきなんだろうけどそれすら言えてなくて、胃が痛くて吐きそうで仕方ない。

損したくない手抜きしたいという卑怯な性根が一番の問題なんだと思うけど、その割に小心者すぎて他の人と違うことをすることが怖くてしかたなくて(別にそれがやりたいわけでもないのに)、そして年齢を重ねても同じことをやってしまい、色々調べたりしているくせに肝心なところで大ポカをやらかしてもはや詰んでしまうって本当に馬鹿すぎる。他人がやってたら「なんでそんなことやっちゃったの」とはっきりと呆れた視線を送るレベル

ルール違反をしてバレるのが怖くてビクビクしてるのに、そんな状態子供を叱ったりしていてどの面がって自分でも思うし、性格と考え方を少しでも変えたいけどカウンセリングでどうにかなるんだろうか。

年収750万だけど婚活市場では弱者男性扱いされる

僕は都内IT企業で働いていて、役職こそ管理職ではないものの、年収はおおむね750万円ほどある。正直、一般的にはそれなりに悪くない水準だと思っていたし、実際に自分自身も贅沢さえしなければ生活には十分ゆとりを感じている。しかし、いざ婚活を始めてみると、なぜか自分が思っていたほど女性から評価が芳しくなく、「それしか稼げないの?」という冷たい反応をされることもあった。いわゆる“ハイスペ”には遠く及ばずとも、平均以上だと思っていた僕からすればかなりのショックだった。どうやら都市部婚活市場では年収750万円では決して高収入に分類されるわけではなく、下手をすれば“弱者男性”扱いされてしまうらしいのだ。僕はこの現実を知ったとき、一体何が原因なのかと自問自答するようになった。そもそも750万円という金額が本当に低いのか、あるいは僕自身が何か別の面で期待外れなのか。自分が誇りに思ってきた数字が、婚活においては必ずしもアドバンテージになっていない現実に戸惑いを感じた。だが、これが現代婚活市場の厳しい実態の一端なのだろう。多くの女性男性を条件で仕分けする際、年収1000万円以上を理想に掲げることが少なくない。僕の750万円は、それらの女性にとっては妥協ラインにすら満たない場合がある。自分の中では“そこそこ頑張っている”つもりでも、市場ルールに照らし合わせると弱者認定されるなんて、複雑な思いだ。もちろん、全ての女性がそうではないとわかってはいても、やはり婚活で不利を感じる場面があるのは事実である

僕なりに分析すると、婚活では「条件ありき」の人が多く、感情や相性以前にフィルタリングされる傾向が強いと感じる。大まかな目安として、相手を探すとき女性年収職業で手っ取り早く候補を絞り込むことが多い。その結果、僕のプロフィールを見た女性のうち、高収入を望む層からすれば750万円は魅力に欠ける数字になってしまうのだ。実際にやりとりの中で「実家お金持ちなの?」とか「昇給の見込みはある?」などと探りを入れられたり、「将来は家を買えそうですか?」と露骨経済的基盤を問われたりすることもある。もちろん結婚生活にはお金必要なのは百も承知だし、将来設計真剣に考えるからこその質問だというのもわかる。ただ、そのハードル想像以上に高い。30代後半にさしかかっている今、さら年収が跳ね上がる見通しが自分の中ではそこまで描けていないとなると、どうしても結婚相手理想から外れがちになるようだ。共働きでいっしょに頑張ればいいのに、と思う僕の感覚と、婚活をしている女性たちの感覚にはまだまだギャップがあるのだろう。

一方で、僕自身にも問題がないわけではない。見た目は中の中くらいで、特別おしゃれに気を使うタイプではない。どちらかというと社内では地味な存在で、人付き合いもそこまで広くはない。婚活という場では、やはり外見やコミュニケーションスキルも強力な武器になる。女性に対してガンガンアピールできるタイプではない僕は、収入にそこまで突出した魅力を加えられない場合、選ばれにくくなるのも仕方ないのかもしれない。実際にマッチングアプリなどを利用しても、プロフィール写真や職業年収を公開している状態であまり興味を示されないこともある。もしかしたら、僕よりもう少し年収は低くても、トーク力があって積極的男性のほうが人気が高い場合だってあるのだろう。結局は総合的な魅力が婚活市場ではものを言う。年収一つだけでは足りず、雰囲気や会話のテンポ、そして容姿への最低限の気配りといった部分も軽視できない。そこで僕が“地味”な自分を変えようと、服装髪型に気を配り、エステに行って肌の手入れまで始めたのは、婚活において少しでも有利になりたいからだ。

ただ、こうして自分磨きをしても、いざ会話に入ればやはり「年収1000万円以上の人を探しているんですよね」というストレート言葉を聞くこともある。それが悪いわけではなく、それぞれが自分理想を追い求めるのは自由だと思う。でも、僕にとっては大きな壁だ。女性からすれば当たり前かもしれないが、「自分より年収が高い人で、なおかつ家事育児を分担してほしい」「余裕ある暮らしをしたいから、最低でも1000万円台の年収は欲しい」といった希望を堂々と掲げているのを見ていると、僕の年収750万円はやはり埒外なのだろうかと感じざるを得ない。自分仕事は手に職があって、ある程度安定しているが、爆発的に収入が上がる職種でもない。となれば、将来的に1000万円のライン突破できる自信は今のところ薄い。そこを理解してくれる人を探すしかないのだが、そもそも高収入志向が強い層には見向きもされないのが現状だ。

僕は実際、結婚相談所でも「年収○○万円以上」のように検索条件を設定されてしまうとひっかからないこともしばしばだ。だからこそ年収を軸に選ぶ女性とは最初から相性が悪いのかもしれないし、むしろ早い段階で合わないと判明するのはお互いにとっていいことかもしれない。ただ、問題はそこに留まらず、年収軸が合わない女性を外したとしても、次の壁として年齢や容姿コミュ力など、さまざまな要素でふるいにかけられるのだ。僕は30代後半になっており、相手女性は同年代か少し年下を希望するが、彼女たちは往々にして“もっと条件のいい男性”を探していることが多い。この“条件のいい男性”の定義は幅広いが、やはり年収学歴職歴ルックスまで総合的に見られることが多く、僕が唯一そこそこ自信を持っていた年収も、望まれる条件に届かないケースが少なくない。「750万円では不満」という声は直接的に聞かなくても、相手リアクションプロフィール希望条件を見ていると察することがある。

また、自分が“弱者男性”扱いされるのを痛感するときは、女性側が「一般的にはそこそこの年収」と理解しながらも、なお「もっと上がいい」と言ってくることだ。しかも、そういう女性がなぜか“ちょっと高飛車な態度”を取りがちなことも多い。上から目線ジャッジされる感覚があるのは、婚活をする男性としてはやはり居心地が良くない。もちろん、全ての女性がそうではないし、中には一緒に働きながら共に家庭を支えていく意欲を示してくれる人もいる。でも、婚活市場全体を見渡すと、「さらに上、さらに上」という条件のインフレが起きていて、僕程度の収入では“もっとがんばってよ”と背中を押される立場になってしまう。ネットなどでは「750万円なら十分高収入だ」と言う人もいるが、それは会社業界地域によって価値観が異なるからだろう。少なくとも都会の結婚相談所やハイスペ志向女性が多い場では“あと一歩及ばない男性”という扱いが現実にあるのだ。

実際のところ、僕はこれまでの仕事人生必死努力してきたつもりだ。年収750万円に到達するまで残業休日出勤も多かったし、役職に就くことを目標自己啓発もしてきた。それでも婚活においては、もっと若い時期から違う職種外資系企業転職し、バリバリ稼げる道を選ばなかった自分を後悔するような瞬間がある。なぜなら、そこに大きな差が生まれしまうからだ。同年代でも外資系ベンチャー成功して1000万円超を稼いでいる人たちは、婚活市場女性から勝ち組”として扱われがちだ。あるいは医師弁護士コンサルなど、資格肩書きでわかりやす高収入証明できる男性が一気に目立つ。その陰で、僕のような「努力してようやく平均以上」に到達した層は埋もれがちになるように思う。自分では弱者とは思っていなくても、婚活市場メガネで見られたときに、僕はあっさりと“弱者男性”に分類される。

もちろん、こうした状況に不満を抱くだけでは前に進めないし、自分理想相手にも巡り合えない。だからこそ、婚活の仕方をもう少し工夫する必要があるとも思っている。年収を最重視する女性ばかりを相手にすると疲れてしまうから、同じように共働き希望している女性や、年収よりも性格の相性を重視してくれる女性が多い場を探すべきだと感じる。実際、そのような女性たちと話してみると、僕の現在年収を大きな問題と捉えず、むしろ「安定していていいですね」と評価してくれることもある。ただ、それでも容姿コミュニケーション能力がある程度高い男性モテるのは変わらないらしく、根本的には世の中の風潮として“強者男性”が注目されがちなのは避けられないようだ。

また、年収に対する女性側の感覚を変えることは僕にはできないのだから自分さらスキルアップして収入を上げる道を探るのも手だろう。現時点で750万円が限界と思っていたが、もしかしたら資格取得や副業転職などでキャリアアップすることができるかもしれないし、5年後には年収1000万円を目指せる可能性もゼロではない。そうなれば婚活市場での立場も変わるだろうが、あくまお金目的で近づいてくる女性を求めているわけではない。それでも、経済的安心感を大切にする女性が多いのも事実から、“努力次第で大台を狙える存在”になることで、多少は評価が変わるかもしれない。

何にせよ、「年収750万円」という数字世間一般で見れば決して低いわけではないものの、都会の婚活市場では“中の上”にも届かず、むしろ“中の中”程度か、それ以下に認識されることがあるという厳しい現実がある。僕はそれを実感しているからこそ、理想だけを追いかける女性を恨むのではなく、自分が本当に必要とするパートナーとはどのような人なのかを改めて考え直す時期に来ているのだろう。いくら条件が整っていたとしても、結局は二人で過ごす時間が楽しく、困難を乗り越えられる相性が大切だ。

今は、条件重視の婚活疲れた女性たちと出会える場を探しながら、自分自身ステップアップを図るという二正面作戦で進めている。その中で、年収以外の僕の魅力に気づいてくれる人と出会えたら最高だと思うし、さらには「あなたとなら共に頑張れる」と言ってくれる女性がいれば、年収750万円の現状でも十分に幸せな家庭を築ける自信がある。むしろ結婚後にパートナーと力を合わせて世帯収入を増やすという方法だってあるのだから。最終的には、自分を“弱者男性”と決めつけるかどうかは他人評価による部分が大きいのは確かだが、自分が本当に何を望んでいるのか、どんなパートナー人生を共に歩みたいのかを明確にすることでしか理想未来は手に入らないのだと思う。僕は今の年収を出発点として、相手を条件で選り好みせず、地道に活動していくつもりだ。自分に合った女性は必ずいると信じて、これから婚活を続けていこうと心に決めている。結局、結婚とはお互いの価値観人生観を共有していくものスタートラインで少し不利に感じようとも、それを自分武器に変える努力をすることで、幸せにたどり着けると信じたい。そう思いながら、僕は今日婚活の場に足を運ぶのだ。

anond:20250114112638

オモコロデイリーポータルZ女性ライターが「男性ライターはいいよな、何書いても面白いもん」みたいなエッセイを書いていたよ

それを思い出したよ

さて、「オモチャにしていいかどうかわからんのじゃないか」というような意見でしたが、おれはそうは思いません。

Vで、方向性を決めるのは半分はV自身、もう半分はリスナーということを申し上げておきたいとおもいます

月ノ美兎が清楚という看板掲げてその実オモシロに踏み込んでいます

この方向性は初回配信の「ムカデ人間」に言及した瞬間に確定したと言って差し支えないでしょう。

これが切り抜き配信で広まったために、清楚()を受容できるリスナーを集めることに成功したのです。

清楚()を理解しないリスナー彼女を見たらどうなると思いますか?

カワイイJKちう設定とは矛盾だらけの話題を消化できずリスナーが離れていくか、あるいはVがリスナー迎合してカワイイJKのロールプレイを続けるかでしたでしょう。

こうした矛盾を乗り越えるにはトリック必要です。

あなたには初回の配信で「ムカデ人間知っていますか」と質問してくれるサクラ必要です。

そうすることでVのルール自然な流れで説明されるのです。

この「自然な流れで」というのが非常に重要です。

はじめからルール文章説明したとして、「こういう設定なので、見に来てね」という文言は草生えないんです。

草生えるためにはドラマ必要です。

ドラマを生むためには演技と演出脚本必要です。

その構造が、舞台魔法をかけるのです。

その魔法理解すれば、あなたオッサンになれるのです。

まずは魔法を知ってください。

三谷幸喜を見てください。

平田オリザを見てください。

特に平田オリザの著書には舞台魔法をかける方法がかなり具体的に書かれています

あなたオッサンになれます

しかし、あなたが感じているように、ただやればいいというもんではありません。

魔法をかける努力、すなわち演技演出脚本必要になるのです。

魔法発明して、オッサンになってよ!

言葉しづらいけど将来やばい

今の2~30代って

が憧れかつ最適なライフプランって言うんだけど、完全に女性のこと考慮してないし発達障がい児童増えそう。

なんかみんなと違って俺は賢いからって人も多いし、実際結果出ている人も多いから最適解なんかね?

自分大都市圏から離れた所で最低限の収入を得ることなんて無理だと思っているから都会で働き続けるわ。コンサル田舎に引きこもったコンサル意見なんてカビ生えてて使えないわ

たぶん最終的には子供マイナスからDINKs一択かになるんだろうし、独身税みたいなの出ても稼ぎと資産あるから問題ないとか思いそう

消費税があがって積二ーとかの投資ルール変わったときに都会に出てきて「田舎に引きこもってましたけどまだ仕事出来ます!」とか言うのかな?それともフルリモートで偉そうに言うの?

考えが古いとわかっているけど自分仕事がある場所の近くにいるべきだし、田舎に行くのは仕事を二度としない時だと思う。インターネット世界中仕事が言うけど、未だにそんな実感は無い。

これは魔法使いの話なんだけど…

自分ルールロジックに縛られる人間を美しいと思う?

2025-01-13

生物の仕組みって怖いくらいに出来すぎてる。偶然の積み重ねというにはあまりにも秩序立っていて何らかの意思を感じずにはいられなくなる。

でもそれって生命生存という現象特別視しているからこそそう感じるのかもしれない。

世界は在るように在るだけで、我々が生命と呼ぶような連鎖反応もまたその辺に石が転がっていることと等価しかない。

それだけの事なのに、生きて何かをしたり感じたりする事をある種の目的と捉えてしまう。

それを実現している、細胞なんやかんやするような動きに対して遡及的に手段という位置づけを付与してしまうから、ただ在るだけのもの人間の叡智を越えた精緻手法に見えてしまう。のかもしれない。

所与の万物の流れにある動きをスゴい、美しいと感じるような感覚を持たされているのも、それはそれでなんか出来過ぎてるなって思うけど。

そんな考えすらもまた生まれた瞬間から、いや神がブレイクショットを打った瞬間から決まって予定調和なんじゃない?と無限メタを展開出来てしまう。

決定論世界観なんてあまりに味気ないし、積極的に支持したいもんでもないけれど。理屈として考えたらやっぱり、自然法則から独立した自由意志なる聖域がどこにあるんだって話だし。

ジョジョの6部(と5部)の世界観は未だによう分からんけど、最近になって決定論的な世界観と意志の両立にあまり矛盾を感じなくなってきたな。

所与のルールに基づいて必然連鎖に身を委ねるしかないのかもしれん。自分という存在をそれたらしめる、真に自由意志なんてものはないかもしれん。けども、操られてるとかそうじゃないとかはどうでも良くて実感というものがあればまあ……って感じだな。

とか考えるのもやっぱり決まり切ったことで……とやはり無限メタを取られてしまうし、忘却で蓋をするに限る。

というのもまた決まり切ったことで……とか永遠に繰り返してしまうな。

思考停止というのは絶対的な何かを定める時ばかりでなく、こういう場面でも訳に立つんだな。やはりブッディズムなのか。欲を捨てる気にはなれないけどな。

https://www.repository.cam.ac.uk/items/528f479f-fd3c-43fd-9463-7c2923560573

ある人の嗅覚倫理に関する論文だけど、文献だけで匂いが影響を与えると書いてるから女性学位を与えるのは無駄だと言われる。

論文書くなら、裁判官センサーを取り付けるなり、何人かの被験者ルールを守った上で反応を調べるとかやりようはあったはず。

アタリマエのことを調べるというのは裁判での証拠提出のときに役立つからもっと調べてほしい。

けど、統計学的手法を駆使するなどして、裁判官が9割型認める内容でないと価値がない。

contemporary relevance. I suggest that smell very often invokes identity in a way that signifies an individual’s worth and status in an inarguable manner that short-circuits conscious reflection. This can be accounted for by acknowledging olfaction’s strongly affective nature, which produces such strong bodily sensations and emotions that reflexivity is bypassed in favour of a behavioural or cognitive solution that assuages the intense feeling most immediately. Olfactory disgust, therefore, tends to result in rejection, while harmful forms of olfactory desire may result in sublimation or subjugation. My thesis is particularly attentive to tensions and ambivalences that complicate the typically bifurcated affective spectrum of olfactory experiences, drawing attention to (dis)pleasurable olfactory relations that have socio-political utility. I argue that literary fiction is not only an arena in which olfactory logics can be instantiated, but also a laboratory in which possibilities for new kinds of relations and connections can be fostered and tested. Chapter One explores how smell can be used to indicate class antipathies, partly as they relate to homelessness, beginning with George Orwell’s seminal non-fiction text, The Road to Wigan Pier (1936), before considering Iain Sinclair’s The Last London (2017) and Bong Joon Ho’s Parasite (2019). In Chapter Two I explore the fantastical, idealistic, and utopic thinking that surrounds olfaction, which presents smell as fundamentally non-human, by addressing J. M. Coetzee’s Disgrace (1999), Virginia Woolf’s Flush (1933), Rachel Yoder’s Nightbitch (2021), and Laura Jean McKay’s The Animals in That Country (2020). Chapter Three focuses on the intersectional olfactory dimensions of ‘misogynoir’—the coextensive anti-Black racism and misogyny that Black women experience—and considers Toni Morrison’s Tar Baby (1981), Bernice McFadden’s Sugar (2000) and Raven Leilani’s Luster (2020). In Chapter Four, I conceptualise an oppressive olfactory logic, which is used against women and girls in order to legitimise their harassment or abuse, drawing primarily on Vladimir Nabokov’s Lolita (1955), but also Patrick Süskind’s Perfume (1985). Chapter Five discusses two forms of olfactory desire—perversion and queerness—which have separate moral valences. I address J. M. Coetzee’s The Master of Petersburg (1994), Ann Quin’s Berg (1964), and Sam Byers’ Come Join Our Disease (2020), and argue for fiction’s role in reorienting readers’ habitual relations to olfaction.

Date

2024-06-25

あと、論文の要旨を読んだ限りだとまさに人文系のものなんだが、女性だとこれで通るのか?それとも、男女問わないのか?

anond:20250112134651

共感性低そうな割に性描写のあり方にこだわってるのが不思議だなと思ったけど

これもルールを守ることにこだわる特性の現れなのかな

そう考えるとポリコレ正義マン発達障害特性集団的発露である可能性も?

そんなの、モキュモキュじゃん!!

そんなの、モキュモキュじゃん!

モキュモキュしてたらいいってもんじゃないでしょ!?

そこをなんとか!』じゃないんだよ!

もっとモキュモキュちゃう!?!?

はーーーーーーっっ!!!

モキュモキュがやってきたじゃん!

ほら、あそことかこことかからモキュモキュ大集合じゃん!!

から言ったじゃん!!!

いくらパン食べ放題からって、モキュモキュルール違反でしょ!?

センテンス、ノーベンバーサプライズ滑り込みセーフだって

そんなわけないじゃん!!

モキュモキュの力を軽く見過ぎ!!!

初恋の人に告白されたからって調子乗んな!!!!!

世間体もっと気にしてくれーーっっ!!!

「「モキュモキュ!!!!!!!!」」

うわーーーもうダメだーーーーっっっ!!!!!!

ギャフン

anond:20250111131444

ふつうにそうだろ

ルールをまもらないやつは希少なので異常ってされてるだけ

人間の生きやすさの最大公約数社会なんだから

生きにくい部分だけたまった少数もあるだろ

から何だ?

2025-01-12

チゲ解放という言葉が好きではない

最近ネット上でよく目にする「キチゲ解放」というフレーズを耳にすると、なんとも言えない違和感を覚える。どこか挑発的で、言葉のものネガティブイメージが詰め込まれているように感じるからだ。テンションを上げたいときや思いきりはしゃぎたいときに使う人がいるのはわかるが、あまりにも荒っぽい表現ではないだろうか。まるで自分の中に隠された“キチガイ”の部分を暴走させることが正義だと言わんばかりで、耳にすると少し身構えてしまう。

もちろん、深い悪意をもって使っている人ばかりではないと思う。単なるおふざけや気分転換スラングとして「キチゲ解放」なんて言っているケースも多いだろう。だが、そのスラングの裏側にあるデリケートな要素について、考えている人はどれだけいるだろうか。「キチゲ」は「気違いゲージ」の略だという説が一般的らしいが、「気違い」という言葉自体、聞いていてあまり気持ちのいいものではない。ネタとして軽々しく用いるには、あまりにもセンシティブすぎる印象を受ける。

一方で、“キチゲ解放”を愛用する人は、あくまジョーク範囲内だと主張することもある。自分の中の理性を外して全力で楽しむ、いわば“はしゃぎモード”への突入をわかりやす表現しているのだろう。実際に何かを破壊したり、他者を傷つけたりするわけではなく、ただ日常ストレスを発散するための合言葉なのかもしれない。とはいえ、その「ただのジョーク」を不快に思う人が確実に存在する以上、他の表現方法模索したほうがいいのではないかと思う。

そもそも言葉の持つ力は意外に大きい。何気ないひと言で相手を深く傷つけたり、特定概念必要以上に貶めたりすることがある。だからこそ、言葉選びには慎重でありたいし、軽々しく差別的ニュアンスはらんだスラングを多用するのは問題はらむ。中には「そんなの言葉狩りだ」「表現自由制限するな」という反論もあるが、表現自由他者への配慮は両立できるはずだ。単に便利なフレーズからといって乱用するのではなく、どんな言葉を使うかを吟味する姿勢は大切だと思う。

「キチゲ解放」という言葉には、“解放”というポジティブな響きもある。それゆえ、本人としては楽しい雰囲気演出したいのかもしれない。だが、そのポジティブさが「キチゲ」というフレーズのダークさをより引き立ててしまうようにも感じる。凶暴さや狂気、あるいは暴走肯定しているように受け取られてしまリスクは、少なくともゼロではないだろう。そこに加えて、精神疾患や障がいを持つ人々への配慮を欠いた表現だという批判も出やすい。

インターネットでは、言葉尻を真に受けるのではなく、ある種の“お約束”としてスラング流通させる文化がある。その点は十分理解している。だが、同時にインターネット社会に与える影響力は大きく、スラングが容易に現実世界にも波及してしまうことを忘れてはならない。表現受け手多種多様だし、全員が同じルールのもとで暮らしているわけでもないのだ。そうした環境の中、誰かをいたずらに不快にさせる可能性がある言葉を使うことには、それなりの責任も伴うはずだと思う。

結局のところ、“キチゲ解放”という言葉が醸し出す雰囲気にどう向き合うかは、個々人の価値観によるのだろう。そこに差別的ニュアンスを感じず、単なるネタとして笑い飛ばせる人もいる。一方で、精神的な病や障がいに向き合っている人からすれば、笑いでは済まないほどの不快感を抱く場合だってある。両者の間には深い溝があるかもしれないし、折り合いをつけるのは難しい問題だ。それでも、少なくとも自分はあまり好んで使う気にはなれない。

どのような言葉を使うかは自由だが、それは裏を返せば「誰にどんな印象を与えるかも自由」だということでもある。言葉のチョイス一つで、その人のセンス思想が透けて見えてしまうのが世の常だ。あえてリスクを負ってまでも「キチゲ解放」という表現を使う魅力がどこにあるのか、素直に疑問に思う。もっとポジティブユーモアを感じさせる言葉はいくらでもあるはずなのに、よりによってこのフレーズを選ぶ必要があるのか、と考えると引っかかってしまうのだ。

結局、「キチゲ解放」という言葉が好きではない理由は、その背景にある差別的イメージ乱暴さ、そして他者への配慮不足を感じるからだ。楽しさを表す方法や、はっちゃけたい気持ち表現する手段はほかにもたくさんある。使う場面や相手を選んで、うまく使いこなしている人もいるのかもしれないが、現状では「やめておいたほうが無難ではないか」と思ってしまう。多様な人が交わるネット社会において、一つひとつ言葉にもう少しだけ気を配れるなら、無用トラブルや傷つきを減らせるはずだ。やはり、「キチゲ解放」というフレーズには、どこか抵抗感を拭えないままでいる。

女性AEDを使ったら訴えられた話

 街中で突然倒れた人を見かけたら、まず声をかけて反応を確認し、必要に応じて救急車を呼ぶ。そして意識がない、呼吸もないといった状況なら、AEDを使って心肺蘇生を試みる。――これは、学校での救命講習や各種啓発イベントなどで何度となく耳にしてきた基本中の基本だろう。わたしも何度か講習を受けた経験があるし、いざというときに手をこまねいてしまわないよう、頭ではしっかり理解していた。実際、その知識が役に立つと思った瞬間があった。まさか、その行為が原因で後に大きな問題に巻き込まれるとは想像していなかったのだが……。

 あの日わたし会社帰りに駅前広場を通り抜けていた。残業続きでクタクタだったとはいえ、そこまで遅い時間ではなかったし、人通りも多かった。目の前で、一人の女性がふらふらと歩いていて、そのままバタリと倒れ込んだのだ。最初は何が起きたのかわからず、周囲の人も「大丈夫ですか!?」と声をあげていた。わたしは少し離れた場所にいたが、一瞬で「AED必要かもしれない」と頭をよぎった。

 近くに設置されているAED場所は、駅前広場にある公衆トイレの壁に設置されたケースの中だったはずだ。わたしは意を決して走り出した。「AEDを持ってきます!」と周囲の人に声をかけると、誰かが「お願いします!」と呼応してくれた。すぐに赤いボックスを取り出し、倒れた女性のもとへ戻った。

 女性は目を閉じ、完全に意識を失っているように見えた。周囲には数人が集まっていたが、どうやらCPR(心肺蘇生法)を施せる人はいないらしく、誰も直接触れることができずに戸惑っていた。わたしはできるだけ落ち着いて「誰か救急車を呼んでください!」と叫び、同時に脈や呼吸の確認を試みた。わたし医療資格を持っているわけではないが、研修で学んだことを思い出しながら、AEDのパッドを貼る準備をした。

 そのとき女性服装は薄手のブラウススカートだった。AEDを装着するには上半身露出させなければならない。わたしはできるだけ周囲の視線を遮るように上着を掛けるなどの配慮をしたつもりだった。そしてパッドを貼り、「解析中です」という機械アナウンスに従いながら、電気ショック必要判断されたタイミングボタンを押した。まるでテキストで習った通りの手順だった。

 しばらくすると、女性はうっすらと意識を取り戻し、救急隊員が到着。たしかに緊迫した状況ではあったけれど、結果的にはAEDが功を奏したのか、彼女は命を取り留めたようだった。救急隊員が女性を運び出すとき「応急処置ありがとうございました」と言ってくれたのを覚えている。わたしは内心、ほっと胸を撫でおろしたし、自分がやったことが正しいはずだと信じて疑わなかった。

 ところが、それから数日後、衝撃的な出来事が起こった。わたし会社仕事をしていると、受付から内線が入り、「警察の方が訪ねて来られています」と呼び出しがあった。慌てて応対に出ると、どうやら先日のAEDの件について話を聞きたいという。救助活動に関して事情聴取をすることがあるのは知っていたから、そのときは「あの日の状況説明かな」と思い、素直に協力するつもりだった。

 しかし、警察署で説明を受けて初めて知ったのは、「助けた女性わたしを訴えようとしている」という事実だ。正直、意味がわからなかった。そのときわたしに与えられた情報では、彼女が主張しているのは「不必要に胸を触られた」「身体を晒されて恥ずかしい思いをした」というものしかった。わたしAED使用するためにやむを得ず、服をめくり、胸にパッドを貼っただけだ。わいせつ目的などあるはずもない。警察担当者からは「いまはまだ疑いの段階で、詳しく事情を聞かせてください」と言われ、まるでショックで頭が真っ白になった。

 訴えられると言っても、すぐに裁判になるわけではない。まずは警察事実関係を捜査し、検察に送るかどうかの判断が下される。その流れ自体ニュースなどで聞いたことがあるが、まさか自分当事者になるなんて思いもしなかった。警察の取り調べは冷静で丁寧だったが、いざ尋問されると「AED必要だったんです」と言いながらも、自分がきちんと説明できているのか不安でたまらなかった。どんな些細な言葉尻を捉えられて、好ましくない形で記録されるかわからいからだ。

 わたしが行った行為は「緊急避難」「正当行為」という文脈正当化されるはずだ――多くの人がそう言ってくれた。会社の同僚や友人も「むしろ表彰されるようなことだ」「訴えられるなんて信じられない」と口々に励ましてくれた。それに救急隊員も「早い段階でAEDを使ってもらったことが幸いだった」という言い方をしていた。だからこそ、訴えられること自体理解しがたいし、憤りすら感じる。

 当の女性は、倒れたとき記憶曖昧なまま搬送され、その後で周囲の人から「胸をはだけられていた」「男性が服を脱がせていた」といった断片的な情報を聞いたのだろう。さらにその“目撃情報”の内容が正しく伝わっていない可能性もある。結果として、「あの人に性的意図身体を触られたのかもしれない」という不信感が芽生え、誰かの入れ知恵もあって警察に訴えるという流れになったのではないか……そんな推測をするしかない。本人から直接話を聞ければいいのだが、今は弁護士を通じた対応しかできないとのことだった。

 その後、警察での事情聴取は何度か続いた。具体的な手順を改めて説明するたびに、「AEDのパッドを貼るために胸を露出させる必要がある」「女性場合下着を外す、またはずらしてパッドを貼ることもある」といった、あまりデリケートな部分の話を繰り返さなければならなかった。担当警察官は専門知識を持っていて理解を示してくれたものの、自分自身のことをどこか客観視してしまうというか、いつの間にか「本当にやましい気持ちはなかったのか」と自問してしまう始末だった。わかっているのに、言葉を尽くしても、どこか孤独な気分になる。こういうのが"疑われる側"の心理なのかもしれない。

 さらに、女性代理人からは「意識のない状態で胸を晒されたことに強い精神的苦痛を感じている。損害賠償検討している」といった内容の通告もあったと聞いた。その文言わたしの耳に「感謝ではなく金銭要求する」というふうにしか響かなかったが、本人の主張としては、「意図的に身体を見られたかもしれない」「AEDを使わなくてもよかったのでは」とまで思い込んでいるようなのだAEDに関する知識が乏しいまま、自分が倒れていたあいだに行われたことを全て悪意として捉えてしまっている可能性が高い。たしか医療現場知識を全く持たない人からすれば、ショックも大きいのかもしれない。でも、それでも納得いかないのが正直なところだった。

 わたしとしては誠実に説明し、「あなたが助かって本当に良かった」と伝えたい。しかし、直接連絡を取ることは叶わない。救急隊員や目撃者証言が集められ、また街頭カメラ映像からも、わたし行為に「過剰さや悪意はなかった」と証明されるはずだと弁護士には言われている。「AED必要のない状況だった」という可能性は極めて低いし、第一現場判断としては心停止かもしれない、という最悪の事態に備えるのが当然の行動だ。むしろ何もしなければ、そのまま命を落としていたかもしれない。

 結論から言えば、結局は不起訴処分で終わった。それでも、女性代理人民事での損害賠償請求を取り下げるまでにはもう少し時間がかかった。最終的には裁判所で「わたし行為は緊急対応として必要不可欠であったこと」「医学的にもAED使用は正当な手段であり、やましい意図がなかったこと」が認められ、相手側も引き下がる形で決着した。長い長い時間精神的な疲労を強いられたが、無事にわたしの"無実"が確定した形だ。

 もしかしたら、「AED使用で訴えられたらどうしよう」という話は都市伝説のように囁かれていたのを聞いた人もいるかもしれない。わたし自身、その噂程度には耳にしたことがあるが、実際にそこまで発展するのは極めて稀なケースだろう。しかし、可能性としてはゼロではなかったのだ。女性本人のショックや、その周囲の偏ったアドバイス、あるいは金銭的な思惑が絡むと、こんなにもおかしな方向へ転がってしまうのかと痛感した。AEDを使うことが推奨されているにもかかわらず、こうした事例が広がると、いざというときに誰も助けようとしなくなるかもしれない。それが一番怖い。

 今回の経験を通じて、わたしあらためて「いざというとき、人を救う行動をとるのは大事」だと思う反面、「誤解やトラブルリスクゼロではない」ことを強く意識するようになった。だからといって、それを理由救命行為をためらうのは本末転倒だし、AEDの普及や救命講習の啓発に逆行する。実際、わたしももう一度同じ状況に遭遇したら、必ず行動に移すだろうと思う。命を守るために必要行為が「訴えられるかもしれない」と萎縮されるような世の中になってほしくないし、そうならないように、どうにか制度理解もっと進むことを願うばかりだ。

 いま振り返ると、一番辛かったのは「そういう意図はなかった」ということを何度も何度も説明し、あたかこちらが加害者であるかのように扱われる時間だった。無罪を勝ち取るとか、問題なく終わるとか、そういう言い方では表せないくらい、人を救おうとした行為否定される精神ダメージは大きい。世の中にはやはりいろいろな考え方があるし、誰もが医学知識を十分に持っているわけではない。だからこそ、「AEDを使うときの手順や必然性プライバシーへの配慮」について、もっとしっかりと周知される必要があるのだと思う。

 最終的に女性とは直接会話をすることはなかったが、代理人を通じて「結果的に命を救っていただいたことを感謝しています」という伝言けが届いた。それが真に彼女本心なのか、あるいは形だけの言葉なのか、わたしには判断できない。だけど少なくとも、彼女健康を取り戻したという事実のものは素直に喜びたい。誰かの命を救う可能性があるAED存在意義は、決して否定されるべきではないからだ。

 この一連の出来事は、わたしにとって大きな教訓になった。AEDの使い方や救命措置の手順を頭に叩き込むのは大切だが、それだけでなく、助ける側も「法的トラブルリスク」を認識し、適切な配慮をしたうえで行動する必要がある。現場ではなかなか難しい話とはいえ、できる限り第三者の協力や証人を確保する、周囲の目がある場所で行う、といった工夫も大事なのかもしれない。救助者の立場を守るための仕組みも、行政社会全体で整備されてほしいと切に願う。

 結局のところ、人を助ける行為尊いが、そこに伴うリスクを完全に排除することは難しい。それでも、誰かが命の危険さらされているなら、迷わず手を差し伸べる世界であってほしい。わたし自身も今回の苦い経験に折れることなく、次に同じ状況が起きたら、やはり躊躇なくAEDを使うだろう。命を救うために必要行為を、社会として後押しできるような意識ルール作り――それが進んでいくことを強く願っている。

今まで几帳面だと思っていた人ってもしかすると一定数はマイルールへの強いこだわりや執着が表に出ているだけの発達障害だったんじゃないだろうか

誰も得していない上に手間暇だけかかる意味分からん無駄ルールとか

そういう自閉傾向って一律ではなく無段階にスペクトラムな症状の出方するらいしし

anond:20250112125932

アーロンはシンを通じて1000年前のザナルカンドと現代のスピラを行き来したとやんわりティーダに示されたが、シーモア意味ありげな指摘からして彼もまたその直後に現れたジスカルや後のシーモア同様、この世に未練を残した死者なのだと思われる。現世に留まる死者の仕組みも性質も(あるはずの制限も)全く不明だが、彼がおそらく現代スピラ人でありブラスカとジェクト、シンと究極召喚真実を生きて目の当たりにしながらスピラ社会ユウナにそれを明かすことなく旅をさせ、ティーダジェクトを対面させるという極めて個人的責任感に重きをおき続けたのは「死者ゆえの制限」と説明した方が座りがいい。魔物を倒せもするが実際は幻光虫の力を借りた生者の影に過ぎないとしなければ、彼はスピラやブラスカの娘に対してあまりにも無責任であろうという話になる。

ワッカは多くの矛盾を抱え込んでしまった存在とも言える。弟チャップの戦死に酷く傷つきながら妹同然のユウナ死出の旅は受け入れようとしてきた。チャップも誘いがあったとはいえ己の意志戦地に赴いたのはユウナと全く同じ事情なのにユウナの旅立ちの意志は曲げられないとルールーの口からも言わせている。アルベド族への憎しみはエボン信仰を通じた自己矛盾の捌け口のようなもので、彼もまたティーダ同様に自己感情直視出来ず憎悪の矛先を変えてしまっているというわけだ。そしておそらくルールーは苛立ちの矛先をワッカに向けてきたのだろう。

まり触れられてこなかった謎として「祈り子の歌」と「挨拶」がある。1000年前のザナルカンドでは後者は「戦勝を願う祈り」で前者も競技者に知られたチャントであったものが1000年後のスピラでは社会全体に根差した代物へと置き換えられている。ふたつの世界を隔てるもの時間だけであることを意味しているわけだが、そのように用いられ方が変わっていったのは何故か(本当に偶々なのか)という疑問がある。あるいは祈りと歌の起源がそこにあったからこそジェクトが選ばれ召喚されたのかもしれないが、同時代人の初代召喚ユウナレスカのことがわからないと確かなことは言えないし、彼女が何も知らない可能性もある。

anond:20250112123714

力があると際限なく使ってしまうから禁じるべきなのだとエボンの教えを語ったのはワッカだが、聖ベベル宮の僧兵銃火器武装し機兵を使役していた通りエボン寺院こそが「際限なく力を使ってしまう」存在で、おそらくそれは「究極召喚のものがシンを生み出す」「究極召喚召喚士とガードや親しい者を生け贄にする)を際限なく使ってしまう」ことの皮肉になっているのだろう。特に言うことはないがアルベド族との呉越同舟からボンの熱心な信者であったワッカには世界が全て裏返されたかのような衝撃が立て続けに押し寄せたと思われ、気の毒なことであるSFでは醍醐味だが)。

どうでもいいことだがルールーのことはずっと気に入らない。ワッカが彼女を受け入れるなら構わないが、物語上も何の美点もない人物だ。異界で何者かが呼びかけに答えないという場面で「死んだはずの誰かが生きている」ことを匂わせるが、彼女探偵役でもないし役者はもう揃ってしまっている気もするので謎だ。リュック彼女に憧れる発言かましたが、リュックの方がずっと魅力的であるルールーの雰囲気に憧れると屈託なく言えることそのものリュックの魅力であって、ルールーはそのダシにされているとも言える。ティーダやワッカのために調整された人物という印象で、ティーダ母親のように言い訳的な書割りとしてそこに置かれている印象だ。最も発売された時代のアレを感じた存在でもある。

今のところキマリもっと意味不明だ。いなくてもよかったんじゃないか。大兄との決着がついていないので本当に何も言えないが、バトルでもオーバードライブしょうもないので盗みの手伝いしかしていない。出番を持て余してケアルガやホーリーを使わせたりするがなくてもいいし。

ハート理論

フェラして反応が「やめて❤️」だったら続けていい。

ラブホで突いてて「イヤァ❤️」だったら続けていい。

しか

「やめて…」「イヤ…」

だったら性別男女関係なく、ただちに緊急停止しなければならない。

シンプルルール

年末年始に行った都内サウナ感想(後編)

前編

anond:20250112100759

毎日サウナ 八王子

https://everyday-sauna.com/

施設概要

八王子京王線北野駅徒歩10分弱。温浴なし、サウナ室1つに15℃前後シングルの水風呂2つ。内気浴と外気浴スペース。タオルレンタル350円

先に言ってしまうが年末年始に巡った中ではここが一番良かった。その一番の魅力が薪ストーブサウナ。無音で暗いサウナ室に入った途端、薪の燃える良い香りにくらっと来て、最長の2時間で入ったが5,6セットくらいやってしま時間をフルに使ったし2日後にすぐリピートした。

セルフロウリュに加えアウフグースイベントも1時間毎の高頻度で開催。

良い点

人によっては気になるかもしれない点など

総じて良かったけど強いて言うならってレベルで…


総評

とても良いサウナ出会えてとても嬉しい。家から電車を乗り継ぐと少々手間だけどそれでも行きたいと思ってしまう。

初めて行った時は、慣れない薪ストーブサウナ効果なのかぽっかぽかになり、退店後駐車場喫煙スペースで一服していたら真冬の夕刻というのに汗が頬を伝った。新しい体験ができた。

八王子北野駅となると、都心の方からは少し面倒に感じられるかもしれない。それでもサウナ好きなら一度味わってみて欲しいと思う。めっちゃ良いので。

入店時に下足箱に靴を預けるがそれがロッカー番号となる。鍵の札に「上段」とか「下段」とか書かれているので下段を避けると良い。

サウナ東京

https://sauna-tokyo.jp/

施設概要

赤坂駅徒歩5分、赤坂見附駅徒歩10分弱。

24時間営業サウナ施設(清掃で入れない時間有り)。5つのサウナ室に、シングル、15℃前後、22℃前後と3段階の水風呂という、スーパー銭湯ならぬスーパーサウナと言える施設。色々なサウナ室があるのでここはWebサイトYouTubeの紹介をぜひ参照してほしい。

1階に炭酸泉の温浴、2階のサウナフロアには内気浴スペースに加えて気温をかなり下げたクーリングルームも有る。飲食、休憩スペース有り。外気浴は無し。1階は会話OKで2階は完全黙浴。

自分の使い方

シューロッカーでは奇数番号を選ぶ(更衣ロッカー上段を使える)。シャワーの後まずは「戸棚蒸風呂」というサウナ室へ。戸棚風呂とは"浴槽に膝が浸かる程度に湯を入れ、下半身を浸し上半身は湯気で蒸す仕組みの日本古来の入浴方法"とのこと。お湯を贅沢に使えなかった頃の入浴法らしい。そこで適度に身体を温めて汗腺を開くのが1セット目。

1セット目は15℃前後の水風呂。休憩ののちアウフグース時間をなんとなく確認する。

内気浴スペースにはドリンクカウンターがあり、そこで「スタンダード飲み放題」(500円)を発注する。左腕にリストバンドを巻いてもらえば、ポカリ麦茶オリジナルデトックスウォーター飲み放題。このデトックスウォーターが美味しいというか、サウナに良い。

好きなサウナ室は「瞑想」という仕切りで区切られた1人様の椅子が並ぶ部屋。暗くて静かで居心地が良い。次点でケロサウナ。2セット目からシングルに入り、気分に任せてその後ぬるめの水風呂に入ってまどろむ。

こういうサウナ室の種類の豊富施設では自然とセット数も増えて4,5セットくらいやってしまう。

サウナに満足したら1階に降りて大型テレビを眺めながら炭酸にゆっくり浸かる。

終了後は地下の飲食・休憩スペースでビールとか飯。眠けりゃそのまま昼寝。

良い点

人によっては気になるかもしれない点など

総評

サウナ室、水風呂、内気浴スペース、サウナ後の温浴、地下の休憩スペースと、総じて良かった。ただやはり人気店、話題店なだけあっていつ行ってもそこそこ混む。基本どこに行くにも空いている朝イチが好きで、清掃時間明けの9時朝イチを狙って行ってるけど、それでもかなりの賑わい。

別に独り占めみたいな状況が欲しいわけではないけど、グループ客が連れ立ってぞろぞろ歩いて(業界では「ドラクエ」と呼ばれる)、黙浴のルールがある中でお喋りされるとちょっとなぁとなってしまう。

ただしそういった点を踏まえても、それらを乗り越えるくらい全体としてはサウナ室や水風呂、内気浴スペースの魅力は自分には高め。今後は平日休みがあれば本当にたまの贅沢として使うかなぁという感じ。

(番外編)今後行ってみたいサウナ


サウナ雑感、あるいはまとめのようなもの

もうサウナブームと言われたのも軽く過去のように感じるけど、これだけ「混んでるところは嫌だ」みたいな事を言ってるし自分の好きなところが激混みになったらちょっとげんなりはしそうだけど、それでも業界全体が盛り上がって創意工夫を凝らした良いサウナ施設が増えてくれたら良いと思う。

ここ数年のブームは(コロナもあってか)個室サウナなのかなぁ。自分はまぁ未体験だし一度くらい体験してみてもいいけど料金設定がなぁというくらい。

一方でここまで書いた様な大衆向けで良い施設も増えてるし増えるのはやっぱり喜ばしい。

サウナのお客さんには人それぞれ楽しみ方の癖のようなものがある。老舗銭湯系を愛する人もいれば、寛ぎ空間としての施設の清潔さとスペースのゆとりを重視する人、モンスターガウン着用は我慢できないという「絶対全裸休憩派」に「動線至上主義派」、100℃超のアチアサウナシングル風呂を愛する「温冷落差過激派」、セット数や水風呂の入り方をとってもそれぞれ好みがある(オーガズムを迎えやす体位みたいな、セックスマスターベーションの癖みたいなものだななんて思ったりする)。そういった客の多様な好みに合わせて、色々なお店ができたり各店が工夫を凝らしたりしてくれるお陰で、イチ利用者として楽しむことができる。

これからも飽きる事なく色々楽しめそう。苦しかった2020年以降を生きながらえた老舗名店には敬意を表するし、このサウナ激戦の中新たなチャレンジに踏み切るお店・会社にも感謝感激雨水風呂よ。

世の中的にはまだサウナブームは続くのかな。ゼロ年代にはこんなにサウナサウナって言われてなかったよな。当時自分名古屋栄でのバイトの後終電までの短い時間で、当時はただ仕事疲れたおっさん終電逃してお金もない人が集まるカプセルホテルだったウェルビーに行ったりしていた。まさか全国的に有名になる日が来るとは思わなかった。

これからこのブームがらどうなろうと俺は色んなところに行き続ける。各店、新規参入業者には頑張ってもらいたい。

まだまだ寒い日は続きそう。(夏も行くんだけど)みなさま良いサ活を! いいお店あったら教えて!

年末年始に行った都内サウナ感想(前編)

都内サウナ雑感書いてくよー!(長くなって制限超えたため前後編)

この年末年始連休実家への帰省予定が無くなり時間ができたので、自分ホームばかりでなくちょっと色々行ってみるかと足を伸ばしてみた。もうそこそこ話題になったところばかりなので、ガチサウナー諸氏には目新しい情報はないかもしれない。けど楽しかったし普段使う所や昔通った所含めて色々書く。

新宿テルマー湯

https://thermae-yu.jp/

施設概要

新宿駅徒歩10分ちょい、ゴールデン街の奥のスパ施設岩盤浴温浴あり。24時間営業

サウナ室は昔ながらのドライサウナ(テレビ、オートロウリュ)と低温ミストサウナのふたつ。水風呂唐辛子が浮かべてある変わった水風呂。水温は16℃前後

サウナだけでなくスパ施設のため温浴豊富伊豆からお湯を搬送している露天温泉、広い低温炭酸泉辺りが魅力。寝湯や壺湯もある。

ここは以前のホームで、予定の無い休日早起きして深夜料金から切り替わる9時を狙って行っていた。いきなりだけど年末年始に行ったところではない。

自分の使い方

朝9時入店風呂に行くが身体を洗った後サウナ直行ではなく露天の温泉へ。せっかくあるから入りたい。ここで温まったら一発水風呂かまして休憩。

そこからサウナ大体3セット。自分ドライサウナしか使わない。最終セット後は、食事処の開店時間11:30に合わせ低温炭酸泉でまどろむ。サウナ後のぬるめの炭酸気持ち良過ぎないですか? 法で規制とかしなくて大丈夫ですか?

食事処へ行ったらスマホ動画を観ながらひたすらビール。空腹感が強ければカツカレーなんかを食べ、酩酊状態で地下のリクライニングソファが並ぶ休憩フロアへ。昼寝。起きたら大体15時過ぎ。

良い点

人によっては気になるかもしれない点など

総評

清潔、空間にゆとりがあるの2点は自分にとってプライオリティが高いので、朝イチの時間はよく利用させてもらった。特にウィズコロナが叫ばれた時期にはよく行ったが、この立地で出来て間も無くコロナ禍に見舞われ、他人事ながら大丈夫かというくらい閑散としていたが、時短営業などを越えよく乗り切ってくれたと思う。これからも頑張ってもらいたい。西麻布は行きにくいので行かない。

MONSER WORK&SAUNA

https://monster-ws.jp/

施設概要

吉祥寺駅北口徒歩3,4分。温浴無し、シャワーサウナ室、水風呂、休憩場所のみの無骨スタイル。それでいて施設自体は真新しくスタイリッシュ雰囲気。料金システムは1h毎の加算制で退店時に後払い(キャッシュレスオンリー)。最近は4時間以上利用みたいな設定もできたらしい。男性専用施設で毎週火曜日レディースデイ、ただし2025年1月いっぱいで終了らしい。女性サウナー達は三鷹の新店に流れることになるのだろうか。

入り口看板から何やらスポーツジムのような雰囲気

自宅から通いやすく、自分ホームとなって最近はここの利用が多い。温浴がなくても、シンプルで使いやすく水風呂待ちや休憩待ちとかが無きゃそれでいいなと思わせてくれたお店。

自分の使い方

朝イチ利用が多いけど仕事後とか時間わず行く。ロッカーは1番から20番までを使うと脱衣所でカゴを利用できる。大体3セット、休憩スペースが本当に居心地が良くそこで満足してしまって2セットの日もある。

終わったらハモニカ横丁で飲む。横丁のお店が空いていない時間だったら快活CLUBちょっと寝て待つ。ゴールド会員。鍵付完全個室万歳

良い点

人によっては気になるかもしれない点など

総評

デカサウナ室と水風呂は「とりあえず熱くなって冷やしてととのえ」と言わんばかりの良くも悪くも大雑把な印象。繊細ではなく真っ直ぐな「体育会系サウナ」という感じだが、なるほどこのジムのようなロゴデザイン内装含めたそういうブランディングなのだろうと自分は感じる。サウナ室の居心地の良さ追求型ではない、なんというか荒っぽい感じではあるが、それでも2hごとのアロマロウリュなんかは心地よいし、何より内気浴スペースの居心地の良さが気に入ってる。

また通っていると細かいところに改善意思を感じる。当初は新規会員の登録などで受付カウンターが混み合っていたが、登録二次元バーコードの設置位置をずらし混雑を解消したり(それもあってか利用方法の周知がされきっていない様子も若干見られるが)、脱衣カゴの利用違いがないよう表示が大きくされたり。黙浴の水風呂で会話している客にもスタッフが気付くとすぐに声を掛け黙浴を促す。より良い場を求め見直しを続ける姿勢に好感が持てるし、こちらも良い利用客であろうと思える。良いサウナはみんなで作るもの。これからも使いたいところ。

ROOFTOP

https://rooftopsauna.jp

施設概要

西荻窪駅徒歩1分。先述のモンスターサウナ系列店でこちらの方が前身温浴無し、サウナ室1つ(オートロウリュ有り)、水風呂は水温2種類と外気浴。

最大の売りは屋上の外気浴スペース。インフィニティチェアがずらっと並べてあり、中央・総武線アナウンスを聞きながら開放的体験ができる。

風呂が独特で1人用のユニットバス屋上に4つ。低温の方でも15℃前後で無理無く入れる。

受付フロアにはコワーキングスペース、休憩スペースも有り。自分は使わない。

自分の使い方

近場で済ませたいけど火曜日モンスターサウナが使えない日にたまにいく。火曜日なのを忘れてモンスターまで行って、渋々隣駅の西荻窪に移動することもたまにある。

良い点

人によっては気になるかもしれない点など

総評

バランスとれた良サウナ施設も綺麗だしストレス無く使える。ただ空いている日は少ない印象。

これはどうでもいいレベルだけど、サウナ終わって受付フロア戻るとくつろげる休憩スペースがあるのだけど、コワーキングスペースと併設されていてオンラインMTGとかバリバリ仕事してる人がたくさんいてあまりそこでくつろぐ気にはならない。

渋谷SAUNAS(サウナス)

https://saunas-saunas.com

施設概要

渋谷駅徒歩5分。漫画「サ道」の原作者でありサウナ大使を務めるタナカカツキ氏が総合プロデュースを務めるサウナ施設

男女合わせてなんと9つのサウナ室。奇数偶数日で東西2種の浴場、「WOODS」と「LÄMPI」が男女入れ替わる。Webサイトで利用日がどちらなのか確認して行くことを勧める。

温浴無し、それぞれ2フロアサウナ室と浴室、内気浴(2階)・外気浴(3階)が可能カフェスペース有り。基本料金で男性2.5h、女性3.5h利用。

両浴場とも2階に更衣スペースとシャワー、2階3階それぞれにサウナ室2,3室ずつ、水風呂が1つずつある。水風呂は2階が3名横になれる浅い寝水風呂、3階が立って入る深い水風呂タナカカツキ氏がYouTubeで潜っていたので頭まで浸かっても良さそう。

自分の使い方

2階のサウナ室好きな方と水風呂内気浴で1セット、3階に移動してまた気に入ったサウナ室で3セット。大体4セットくらいする。

良い点

人によっては気になるかもしれない点など

総評

シンプルどでかサウナ室のモンスターばかりに通っていて、久しぶりにサウナ室の居心地の良さの魅力を思い出させてくれたお店。色々なサウナ室がある、スーパー銭湯ならぬスーパーサウナと言えるようなこういうサウナ楽しいなってなった。

「WOODS」か「LÄMPI」だったら自分は「WOODS」一択。3階の茶室モチーフとした「TEETÄ SAUNA」が一番お気に入り天井の低い円形の部屋で、真ん中に置かれたサウナストーブに時折アロマロウリュをかけながら、窓の外の緑を眺めてぼーっとする。次点で2階の一人ひとり仕切りで区切られた「VIHTA SAUNA」。「LÄMPI」の方だったら2階の寝られる「BED SAUNA」が好きだけど、3階屋外フロアサウナ室がイマイチ

エリアに4名用のケロサウナがあって部屋としては良いのだけど、温度が低く人の出入りで熱がかなり逃げるのがちょっとなぁという感じ。

あと値段設定は高め。土日祝特定日利用が多いのだけど3,850円はたけぇー。カフェ飲食注文すると30分延長無料と聞いたけど1500円超のカレーはあまり魅力的には感じられず。アルコールもあるが700円のグラスビールを飲むなら山家あたりで飲む。

サウナ道場

https://teppen-saunadojo.com/

施設概要

渋谷センター街24時間営業サウナサウナ室一つ、水風呂一つ、内気浴とシンプル設計にあつ湯の温浴もあり。

エレベーターで上がって、券売機で60分、90分を選んで購入(キャッシュレスカウンターで申告)。時間帯での変動はあるが60分1,500円、90分1,800円。

風呂は当初シングルだったのかな? 最近何度か足を運んでるけど13℃とか。

自分の使い方

渋谷ではSAUNASより安く気軽に入れるので周辺に行ったときに。あとは24時間営業なんで先日は都心での仕事の前に始発で行った。

後ろに時間の決まった予定が無ければ90分で入店サウナ室も水風呂も一つずつというシンプル設計なのでただただ楽しむのみ。3,4セット。温浴はあまり入らない。

終わったらその辺の居酒屋適当に飲む。

良い点

人によっては気になるかもしれない点など

総評

「良いサウナ必要ものがあり、余計なものがない」という必要十分な感じ。値段も優しめで自分の中ではかなり好きなお店。「道場」という名に相応しい何やら修行場の様な雰囲気で、チャラついたもの排除し、シンプルかつ良いサウナをと言わんばかりの設計思想に好感が持てる。意外なことに経営母体の元々の業態居酒屋だそう。チャレンジングな新業態であるのによくこんなに良い店を作ってくれた。

センター街と聞いて若者で賑わっている感じなのかなと思ったけど、蓋を開けてみるとなるほどどうして、サウナが好きなんだろうなと思われる1人客がそれぞれ黙々とサウナを楽しんでいる雰囲気だった。何度か通ってるが、店の中にはそこら中に注意書きのようなものがあるでもないのに、お客さんのマナー不思議とよい(時間帯によるのかもしれないけれど)。

そんな男たちが、全裸ロッカーキーの紐を首から下げて(ここはリストバンドではない)、あぐらをかいサウナ室に座っている様は、まさに道場という雰囲気。かなり気に入った。

たまにスタッフによるロウリュ、大団扇でのアウフグースがある。全体を仰いだ後、挙手制で個別に仰いでくれる。

「充分になりましたら『押忍』とおっしゃってください」

コクリ

ブンッ、ブンッ、ブンッ、ブンッ、

押忍

楽しい

後編へ続く。

anond:20250112101151

発達障碍者自分ルールでなく周りのルールに合わせようとすると?

結果:病む


anond:20250111131444


俺も当事者だけど、上記増田に対するブコメで、発達障碍者自分で決めたルール固執するという意見がいくつかあり、それはその通りだと思うところがある。


それで、それを自覚してこれまで出来るだけ「周りのルール」に合わせようとしてきたのが俺だけど、その結果、俺は病んでしまった。


まず「周りのルール」というのは俺にとって認識不可能理解不可能もので、それに合わせろというのは、目が見えない人に周囲をよく見ろと言うようなものだ。

それでも、それを頑張っているというポーズだけでも取り続けないと周囲に受け入れられないということもあり、

不可能なことにチャレンジし続けなければならないという矛盾を強いられ続けた結果、俺は病んでしまったのだった。


発達障碍者が決めた「自分ルール」というのは、それまでの人生の積み重ねの中で、

自分理解可能範囲内で、なんとか生活を送れるように構築してきた努力の積み重ねであり、膨大なif文で記述されたプログラミング言語のようなものだ。

俺は、そのif文で定義されていない行動はできない。


そのルールに従うことで周囲に迷惑をかけている場合も多々あるが、当人には迷惑をかけているかどうかも認識できない。

そしてある日、お前は迷惑だと言われたりするのだが、俺には他のみんなが従っている「周りのルール」がどうやっても分からない。

そこで、分からないなりに「周りのルール」がこうではないかという仮説を立てて、自分ルールとどこが違うのかを類推し、ルールに新たなif文を追加する。

それが、「周りのルール」に合わせるために、俺にできる唯一の努力だ。


そうやって、「自分ルール」の精錬度合いを極めることで、俺はこれまで社会人としてなんとかやってきた。

しかし、そんなことを延々と続けるのは精神を著しく疲弊させることであり、俺もついに病んでしまい、現在は療養中だ。


俺も周りに迷惑をかけずに生きていきたいという望みはあるのだが、「自分ルール」を極める方法には限界があり、かといって他の方法もない。

引きこもるにしても、生活保護を受けるにしても、他の形で社会迷惑をかけることにはなる。

どうすりゃいいんだろうね。

2006年会社法改正って結局日本にとって良かったのか?

会社を名乗ってるヤバいところだけ増えただけで、資本金ルールってわりと必要だったような気がする

anond:20250111133416

横だけど、多い少ないの問題だよ。

一般よりも認知負荷の高い処理が可能でより複雑なルール理解できる人がいたとして(仮に東大生としようか)がポジティブ意味しろ異常であると扱われるのは、発達障害の人たちと同じく中央値からズレてるからでしょ。

ルールが何かを決めるのは数、あるいは総量(権力とか流行りを含んだ)としての声のでかさだよ。

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